(画像:松本人志 X投稿より)
 ついに松本人志が沈黙を破りました。性加害疑惑を報じた週刊文春の記事をめぐる裁判が終結したのを受け、芸能記者の中西正男氏のインタビュー(12月25日 Yahoo!ニュース掲載)で現在の心境を語っています。

◆発言に賛否あるが、あきれて冷めたという声が多い

 ネット上では様々な反応が見られています。批判的なものとしては、記者による鋭いツッコミもない状態で自分の思いだけを語る形式を、保身の極みだと断じる意見です。そして、自身に関わる疑惑の本質を全く理解していないことが改めて露呈したと指摘するコメントもありました。

 一方で、コアなファンは、松本が浜田雅功との番組を独自のプラットフォームで企画していることに期待している様子です。今後の展開が注目されます。

 とはいえ、一般的な受け止めとしては、批判的な声の方が圧倒的多数です。しかしながら、性加害疑惑が報じられたときの憤りというよりも、むしろ呆(あき)れて冷めきってしまったという印象です。

 そこで、今回のインタビューで松本自身が発した言葉の中から、彼の世間の見えてなさ具合がうかがえる言葉をいくつか挙げてみたいと思います。

◆「悔しい思いをさせてしまった」は勇み足

① <家族もそうだし、相方もそうだし、後輩もそうだし、吉本興業にもそうだし、もちろん応援してくださっている方にもそうだし、僕のことで負担を強いてしまった、悔しい思いをさせてしまった。そういう全ての人に申し訳なかったと思っています。>

 ここで引っかかるのは、「悔しい思いをさせてしまった」というフレーズです。この「悔しい」には、自らが不当にそしりを受けていた、そしてそういう自らの気持ちを共有する仲間がいた、その彼らをも巻き込んだ望まざる報道であり訴訟であったのだ、とのメッセージが込められているのだと思います。

 確かにそのように内心で思うことは自由だし、だからこそ裁判を起こしたのでしょう。しかしながら、この「悔しい」という言葉には、被害を訴えた女性の告発自体があたかも不当であり虚構であったかのように印象付けることを期待しているように読めてしまいます。

 周りの人間は俺がシロだと知っている、それゆえに世間にそれが伝わらないことが「悔しい」のだ、と。

 ですが、この強い感情表現は勇み足でした。世間は、自分で起こした裁判を自分で取り下げた松本の行為を、とても不思議に思っているからです。

 つまり、正当に戦った人間の発する、「悔しい」ではないのです。

◆「前向きな何かを感じてくれるなら」他ならぬ自分が動きたいのでは?

②<もしそれで前向きな何かを感じてくれるなら、伝えたい。その思いがあって、この場を設けてもらいました。>

 これは完全に世論を読み違えています。なぜなら、まだ世間は松本人志から「前向きな何か」についての発言を聞きたいとは思っていないからです。

 厳しい言い方をすれば、まったく禊(みそぎ)が済んでいないと見ている。その禊とは、裁判を通じて、法の下で白黒つけることであったはずですが、その機会を自ら途中で放棄してしまいました。

 ここで松本は読み手に向けて「前向きな何かを感じてくれるなら」と言っていますが、それは「前向きな何か」に向けていちはやく動き出したい、他ならぬ自分のことを言っているのではないでしょうか。自分の先走る思いを、あいまいな他者のものだとすり替えている点が姑息(こそく)なのです。

◆裁判が「どんな結果なら納得」という勘違い

③<世間の皆さんがどんな結果なら納得するのか。>

 裁判についてのコメントですが、これも勘違いも甚(はなは)だしい。何のために裁判が行われるのか全く理解していないことが浮き彫りになっています。