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大人なら助かったかもーー小児がんで5歳の娘を失った母、悲しみを原動力に変えた支援活動 #病とともに

佐々木航弥映画監督・映像ディレクター

「自分の娘が白血病だと言われても、信じたくなかった」。化粧品会社の販売員だった大田和涼子さん(42)は2年前、愛娘の瑠璃(るり)ちゃんを5歳の若さで失った。失意の底に沈んだが、いまは宇都宮市内の保育園で環境整備員として働くかたわら、小児がん支援のための「レモネード・スタンド活動」にたずさわっている。「少しでも私たちのような思いをする人がいなくなるように、自分も何か行動をしたいと思った」。こう語る大田和さんの活動と思いとは。

●症例少なく治療が難しい小児がん

自宅に飾られている瑠璃ちゃんと大田和さんの写真。
自宅に飾られている瑠璃ちゃんと大田和さんの写真。

瑠璃ちゃんは、3歳の時に血液のがんである白血病と診断された。国立がん研究センター「がん情報サービス」によれば、国内では年間に0歳から14歳の2000~2300人が「小児がん」と診断されている。同年代の子ども約7500人に1人というまれな疾患である。そのため、治療法などの情報も乏しい現状がある。

白血病の治療には骨髄ドナーが必要になるが、白血病にはたくさんの型があり、その組み合わせは数万通りと言われている。瑠璃ちゃんはその中でも珍しい種類の白血病だったため、治療のためのデータやドナーも限られていた。

「どこに向かって進むべきか、わからなかった」と大田和さんは振り返る。自ら治療法について調べ、医師や周りで闘病中の家族などとも相談して、さまざまな治療法を試行錯誤する日々だったという。

最初は長男・春馬くん(10)の骨髄が瑠璃ちゃんと一致して、骨髄移植をした。その後に大田和さんの夫の血液を使った治療も行った。それらの効果で一時は容態が安定。ただ、数ヶ月後にまた高熱がでて病院に向かうと、再発の宣告を受けた。

通っていた保育園からの応援の写真を持つ瑠璃ちゃんと大田和さん。
通っていた保育園からの応援の写真を持つ瑠璃ちゃんと大田和さん。

そこで目をつけたのがCAR-T(カーティー)細胞療法という新たな治療法だった。わらにもすがる思いでその治療法を試そうとした大田和さんだったが、そこで小児がんならではの壁に直面する。当時、CAR-Tは治験段階で、瑠璃ちゃんの骨髄性白血病に応用するには大人3人の治験をすませている必要があった。治療のリスクが高い小児の場合は、大人の治験がクリアされないと受けることができないからだ。その時点で治験を完全に終えていたのは1人。治験の対象となるには「骨髄移植や血液の治療を経ても予後が良くない患者」という条件があり、対象者の確保が難航していた。

「本当に申し訳ないことだけど、そのときは何とか早く条件が一致する方が現れてくれないかと願っていた。本当はそんな方はいないほうがいいのに……」と、大田和さんは当時の胸の内を明かす。

治験が終わるまで、瑠璃ちゃんは地元の病院に通いつつ、自宅で過ごすことになった。「瑠璃はそのとき喜んでいたんですよ。家族の近くにいられるからって。今の状態がどういうことなのかも、彼女は理解できていなかったと思う」。

そんなある日。いつものように地元の病院に向かおうとした瑠璃ちゃんは、「病気を治したいんだ」とつぶやいた。状態が急激に悪化したのは、その翌日だった。瑠璃ちゃんは、大田和さんの腕の中で静かに息を引き取った。

「瑠璃が大人だったら治験を受けられて、もしかしたら違う未来があったかもしれない。そう思うと本当に悔しいし、やりきれなかった」

●米国の子どもが始めたレモネード・スタンド

大田和さんがレモネード・スタンド活動を行う際に配布しているキーホルダー。クマのキャラクターは大田和さん自ら描いた。
大田和さんがレモネード・スタンド活動を行う際に配布しているキーホルダー。クマのキャラクターは大田和さん自ら描いた。

大田和さんが取り組むレモネード・スタンド活動は、もともとは米国で始まった。夏休みになると、子どもたちは自宅などでつくったレモネードを近所の人たちに売り、小遣いを稼ぐ風習がある。ある日、その中の1人の子どもが、がんになってしまった。その子の治療費を稼ぐため、友達がレモネードを売ったことが始まりとされている。

現在は日本でも小児がん支援の活動として、NPO法人や民間団体によって実施されている。レモネードを売り、その売り上げを小児がん支援団体や研究団体に寄付するのが目的だ。大田和さんのように、子どもを小児がんで亡くした人が個人単位で活動していることもある。「闘病中に本当に色んな方々に助けられた。まずは自分がお世話になった団体に少しでも恩返ししていきたい」

●「落ち込んでばかりいられない」

レモネード・スタンド活動で声を張る大田和さん。
レモネード・スタンド活動で声を張る大田和さん。

いまでこそ前向きな大田和さんだが、瑠璃ちゃんを亡くした直後は喪失感でいっぱいだった。そんな様子を見かねて「保育園で働かないか」と声をかけたのが、瑠璃ちゃんが通い、現在も次男の弥壱くん(5)と壯四郎くん(1)が通う保育園の園長、大貫友重さんだった。大田和さんは化粧品の販売員だったが、瑠璃ちゃんの闘病を機に離職。しばらく社会からは離れていた。

大貫さんは「家にばかりいてもふさぎ込んでしまうのではないか、少しでも社会に戻るきっかけになってもらえたらと思って、お声がけをさせてもらった。普段からご自身のお子さん以外の園児たちにも笑顔で接している様子を見ていたので、大田和さんには向いているんじゃないかと思った」と話す。

迷った大田和さんだが、春馬くんの「やったらいいじゃん!お母さんなら向いているよ!」という一言で、系列の保育園で環境整備員として働くことを決心した。園内の掃除などが主な仕事で、子どもたちに話しかけられることもある。

「最初は瑠璃と同じ年齢の子たちを見てつらくなることもあった。でも、子どもたちの純粋な笑顔や無邪気さに元気をもらって、いつの日か前を向けるようなった」と大田和さん。その後、三男の壯四郎くんを出産。子育てが落ち着いたタイミングで、かねてやりたいと思っていたレモネード・スタンド活動を始めた。

保育園で働く大田和さん。園児に話しかけられて笑顔の様子。
保育園で働く大田和さん。園児に話しかけられて笑顔の様子。

大田和さんがレモネード・スタンドを始めたのは、2024年の春からだ。瑠璃ちゃんと同じ日に娘を小児がんで亡くした人が、この活動をしていることをSNSで知ったのがきっかけだった。

「落ち込んでいるときに、自分と同じ思いをしたお母さんがレモネード・スタンド活動をやっていることを知った。いつまでも落ち込んでばかりいられない、私も少しでも小児がんと闘う子どもたちやご家族のためになりたいと思った」

何よりも背中を押してくれたのは、病と闘った瑠璃ちゃんの姿だったという。

「瑠璃は最後まで『病気を治したい』と懸命に闘った。そんな娘の姿を見ていたから、そんな強い子がいたんだよということも伝えていきたいし、今後の子どもたちに勇気を与えたいと思った。私もいつまでも落ち込んでばかりいられない」

7月の保育園の夏祭り。大田和さんは、会場の一角で壯四郎くんを抱きかかえながら「小児がん支援のレモネードはいかがですか!」と声を張り上げた。かたわらには、夫や春馬くんが手伝う姿もあった。春馬くんの同級生の母親らの「ママ友」も活動を支える。そのおかげもあってか、多くのレモネードが売れ、準備した分はほとんど完売した。

「まだまだ小さな活動だけど、ゆくゆくはもっと大きな活動にしたい。私のような当事者が伝えていくことでもっと注目を集めれば、研究も進んで、瑠璃のような珍しい型の白血病も治せる日がくるかもしれない。みんなが元気で過ごせること、私の願いはそれだけです」と大田和さんは意気込む。

「何より瑠璃も、こうやって元気に過ごしている私のほうが好きだと思う」

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本記事は、個人の感想・体験に基づいた内容となっています。

「#病とともに」はYahoo!ニュースがユーザーと考えたい社会課題「ホットイシュー」の一つです。人生100年時代となり、病気とともに人生を歩んでいくことが、より身近になりつつあります。また、これまで知られていなかったつらさへの理解が広がるなど、病を巡る環境や価値観は日々変化しています。体験談や解説などを発信することで、前向きに日々を過ごしていくためのヒントを、ユーザーとともに考えます。

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【この動画・記事は、Yahoo!ニュース エキスパート ドキュメンタリーの企画支援記事です。クリエイターが発案した企画について、編集チームが一定の基準に基づく審査の上、取材費などを負担しているものです。この活動はドキュメンタリー制作者をサポート・応援する目的で行っています。】

映画監督・映像ディレクター

1992年生まれ。岩手県宮古市出身。大阪芸術大学卒業。AOI biotope所属。大学時に映画監督の原一男に師事。撮影・編集・監督をした卒業制作のドキュメンタリー映画「ヘイトスピーチ」(2015年)が座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバルのコンペティションで入賞。その後、劇場公開される。その他、撮影・編集・監督をしたドキュメンタリー映画「僕とケアニンとおばあちゃんたちと。」(2019年)「僕とケアニンと島のおばあちゃんたちと。」(2022年)を劇場公開している。

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