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失言王「森喜朗」から変質した自民党20年史

古谷経衡作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長
(写真:代表撮影/ロイター/アフロ)

 森喜朗氏の女性蔑視発言が国内外で大きな問題になる中、今次東京五輪開催もますます微妙な暗雲が立ち込めている。森氏の失言癖は今日・昨日に始まったことではない。森氏は2000年に当時脳梗塞で入院・急逝した小渕氏の後継として総理大臣となり、その期間約1年の短命内閣に終わった。

 森内閣発足当初から森氏の失言・舌禍は大きな問題となり、内閣支持率は場合によっては一けた台に落ち込み、自民党は危機感を募らせる。森内閣と自民党への支持率低下を受けて「改革」「刷新」の声が急速に沸き起こり、小泉内閣の劇的な誕生へとつながっていく。

 約1年の政権担当期間中、森氏は「失言総理」という印象ばかりが際立ち、多くの国民はそのことばかりを記憶している。しかし、今振り返ると森内閣はその後の自民党の「構造的変質」を決定づけたものであった。

 端的に言えばそれまで自民党内で非主流派であった清和会の天下という派閥力学の交代と、森内閣倒閣を目指した「加藤の乱」の失敗をきっかけにした「保守本流」たる宏池会系の分裂と凋落である。

 21世紀における自民党の20年史を考えるとき、あらゆる意味で森喜朗氏はキーパーソンであった。本稿では今回の失言を”奇貨”として、「森喜朗」から変質した自民党20年史を足早に追う。

・森喜朗氏の原点~石川県能美市を訪ねる~

森喜朗氏の父・森茂喜氏を称える「友好の館」(石川県能美市、筆者撮影)
森喜朗氏の父・森茂喜氏を称える「友好の館」(石川県能美市、筆者撮影)

 石川県の空の玄関・小松空港を降りて県都金沢市に向かう途中に、能美(のみ)市がある。後背に雄大な白山連峰がそびえ、肥沃な田園が広がる金沢平野のほぼ中央に位置し、小松市に隣接するこの街は、人口5万に満たない。しかしこの街こそ森喜朗氏の地盤である。

 過日この地を取材で訪れた私は、森氏の生家に向かった。なぜならそこには「森喜朗記念館」が併設されているからである。勇んで古民家然とした記念館のインターホンを押したが、奥間から出てきた館内関係者によると”開店休業状態”とのこと。森事務所の係員が不在につき中は見られなかった。

 森一族は典型的な地元の名士、土豪である。森喜朗氏の父・森茂喜(しげき)氏は戦前期に軍人を経て、戦後は後に能美市の範囲となる根上(ねあがり)町長を連続当選9回、実に35年以上に亘って続けた。森喜朗氏にとっては祖父となる森喜平(きへい)氏も戦前期に根上村長であった。森一族は江戸期から続く豪農であり、この地に政治的影響力を持ち続ける。

 森一族の偉業を称えるように、「森喜朗記念館」にほぼ隣接して「森茂喜友好の館」が設置されている。森氏の父・茂喜氏は石川県が日本海に面する環日本海文化圏という事もあってか、日ソ協会の会長を務め、冷戦下日ソ友好関係の樹立に邁進した。「森茂喜友好の館」には、その功績をたたえるように日露の国旗が写真の如く掲載されている。

 思えば森内閣で記憶に残る外交的成果の中でも、森総理がロシア極東のイルクーツクを訪問しプーチン大統領と「日ソ共同宣言が平和条約の基礎となる」ことを確認したイルクーツク宣言(2001年3月)は、このような森一族のソ連・ロシアとの深い関係を背景にしたものだったのかもしれない。

・森喜朗氏―APAグループ―田母神俊雄氏―安倍晋三ライン

石川県の空の玄関・小松空港(フォトAC)
石川県の空の玄関・小松空港(フォトAC)

 石川県は典型的な保守王国である。太平洋戦争時、県都金沢は米軍の空襲をほぼ受けず、直接的な戦災から免れ、戦前から続く旧い地主層や資本家階級がそのまま戦後も部分的に温存された。偶然の賜物なのか、保守的思想を強く打ち出し「藤誠志」のペンネームで「南京大虐殺否定」などの歴史修正的価値観を満載した小冊子を客室に配備して物議をかもしたホテルチェーン「APAグループ」の元谷外志雄氏は、同県金沢市片町にAPAホテルの一号館を建設して本格的ホテル業界参入への第一歩を踏み出す。

 そして元谷氏の肝いりで始まったAPAグループが主催する「真の近現代史観懸賞論文」で大賞を受賞し、その歴史観が政府公式見解にそぐわないとして事実上航空幕僚長を「更迭」されて大きなニュースになったのは、能美市に隣接する石川県小松市の航空自衛隊小松基地の司令官であった元航空幕僚長の田母神俊雄氏(2016年、公選法違反容疑で逮捕。2018年、同容疑での有罪確定)であった。更に言えば、前首相安倍晋三氏の後援会「安晋会」に森氏は頻繁に顔を出し、同会の会員に元谷夫妻がいたのは公然の事実である。

 森喜朗氏―APAグループ―田母神俊雄氏という、保守界隈に強い影響力を与えた(または与え続けている)人々は、奇妙にも金沢―小松―能美という、およそ半径15~20キロ圏内の狭い「保守の強烈な地盤」で同居しているのだ。

・保守本流から非主流=清和会の天下へ~自民党の変質~

 さて、森喜朗氏はなぜ総理大臣の座を射止めたのか。それは言葉を辛辣にすれば完全なる「棚ぼた」であった。前任の小渕恵三首相が脳梗塞で倒れ(2000年4月)、急遽後継として総理大臣に就いたのが森氏であった。

 当時、メディアは予期しない小渕氏の入院を切っ掛けに「五人組(森喜朗氏、青木幹雄氏、村上正邦氏、野中広務氏、亀井静香氏)が談合して後継総理を決めた」として、森内閣誕生そのものを「民主的正当性が希薄」と批判した。しかしながら急遽発足した森内閣は、小渕総理の突然の入院・急逝という事情を鑑みて、小渕内閣の閣僚をそのまま引き継ぐ所謂「居抜き内閣(第一次森内閣)」になった。

 小渕恵三氏は典型的な自民党経世会系(保守本流)の領袖であったが、森氏は自民党内では非主流の清和会である。概説として経世会系は「再分配、大きな政府、ハト派」を志向するが、清和会は「新自由主義、小さな政府、タカ派」を志向するきらいがある。小渕首相が倒れる、という誰しもが予想できない混乱の中で、それまで非主流であり、福田赳夫を始祖とする清和会出身の総理大臣が誕生したのは、実に森氏をして22年ぶりであった(―ただしすでに述べた通り、居抜き内閣なので実質的には、森内閣の発足当初の清和会色は極めて薄い)。

 こうして誕生した森内閣であったが、森氏自身の復古的、タカ派的観点が災いして次々と失言・舌禍事件がマスコミをにぎわせ、森内閣は発足劈頭から極めて厳しい局面に立たされた。総理就任直後の2000年5月、ただでさえ「密室内閣」としてその誕生経緯に疑問符を持たれていた森内閣に重大な激震が走る。所謂「神の国発言」である。

「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く(以下略)」

 森総理が神道政治連盟国会議員懇談会での挨拶の中で放ったこの言葉が、「政教分離違反ではないか」「軍国主義的傾向の復活」としてマスメディアに一斉に報道され、大問題になった。

 今でこそ、与党国会議員が「先の戦争は自衛戦争だった」とか「八紘一宇は(日本が)大切にしてきた価値観」などと公言・執筆して憚らず、それをネット右翼・保守界隈が援護射撃して特段問題にもならないのであるが、現在から20年前の世論は森氏のこの発言を「重大な問題である」と受け止め、集中砲火を浴びせた。何とも皮肉であるが、現在と20年前の世論は幸か不幸かこうも変貌したのである。

 私は「神の国発言」の直後、受験を終えて大学生になったが、当時私の大学の政治領域の教授や講師は、「森首相の”神の国発言”は軍国日本の再来であり、軍靴の響きが聞こえんことを踏まえた上で、文字数1200文字以上の現政権に批判的なレポートを提出せよ」と迫った。

 当然単位が欲しい私は、その教授の意の沿うように、「森総理の”神の国発言”は見過ごすことのできぬ復古主義の再来であり、日本国憲法の平和精神を踏みにじる許しがたい蛮行で、そもそも政教分離違反であるから、これは無産人民とそれを代弁するマスメディアの外野的圧力によって、即刻森内閣の反動的策動を瓦解させ、プロレタリアートが真に希求する民主的傾向を持った人民連合政府の樹立に邁進するべきである」というレポートを書いて最高に近い「A」評定を貰ったのを今でも覚えている。

 当時私は右翼青年だったので、レポートに書いた内容は全部本心ではないウソだった。が、ともかくも、インターネットがまだ全世帯に普及するに遠く、ネット右翼と呼ばれる層が勃興期の初期かあるいはほとんど認知されていない時代だったのも災いしてか、当時の世論は森氏の失言を許さなかった。

・森内閣から小泉内閣へ~「加藤の乱」の失敗と継続された清和会内閣~

国会議事堂(フォトAC)
国会議事堂(フォトAC)

 しかし森氏の失言はこうしたバッシングを受けてもなおも続いた。決定的だったのは、第42回衆議院議員選挙(2000年6月)の総選挙の遊説中、記者会見で「(選挙に関心のない有権者は)寝てしまってくれればいい」という失言だった。前述の「神の国発言」はイデオロギーの違いでまだ評価は分かれるとはいえ、政治思想の左右を超えて「無党派層は寝ていろ」という発言は有権者の強い顰蹙を買った。

 結果、自民党は239議席と、前回選挙から39議席を減らす大敗北を喫し、当時の衆議員議員定数480人の半数にすら届かなかった。自公保(自民・公明・保守党)の連立で何とか過半数を獲得したものの、当然「森降ろし」は旋風となって巻き起こる。

 森内閣にとどめを刺したのは、2001年2月に入るや、ハワイ沖で航海中だった米原潜グリーンビルと、愛媛県立宇和島水産高等学校所属の訓練船「えひめ丸」が衝突事故を起こした悲劇的事故への対応問題であった。森首相はその報告を聞きながらも平然とゴルフを続けた、という危機管理や被害者への配慮の無さが盛んにマスメディアを賑わせ、世論は「森叩き」一色になった。この時、世論調査で森内閣の支持率は「一桁」になったとされる。

 このような森氏自身が招いた自己中心的な失言や失政に対し、自民党内から倒閣運動が起きた。世にいう「加藤の乱」である。宏池会のプリンスとして注目され、首相候補の呼び声が高かった加藤紘一氏が、公然と森内閣の倒閣運動を起こした。

 野党が提出した内閣不信任案に、加藤一派が乗れば、不信任案は可決される。すると森総理は解散総選挙か内閣総辞職の二択を迫られる。加藤氏には勝利の目算があった。この当時、まだ前述した「えひめ丸」事件以前であったが、森内閣の不人気は自明で、倒閣はすわ現実的に思えた。が、当時の自民党幹事長・野中広務氏は加藤一派への強権的懐柔を試みた。結果その工作は成功し、「加藤の乱」は不発となり、森内閣は延命することになる。

 宏池会系は言わずもがな、池田勇人首相を始祖とする自民党の伝統的正統派閥(保守本流)であり、多くの首相を輩出してきた。しかし自民党内からの「内部反乱」を鎮圧した執行部は自信を深め、結局、加藤紘一氏の所属する宏池会系は「加藤の乱」失敗を契機に分裂する。加藤についていくもの、加藤に反目するもの、加藤の行為を傍観する三者に分かれた。皮肉なことにこの時の「加藤の乱」に於いて、内閣不信任案採決に「欠席」という抵抗態度を採った一人が、現首相菅義偉氏であることはあまり知られていない。

 付け加えるならば、麻生太郎内閣の後に自民党が野党に下野した際、「加藤の乱」において加藤氏に追従した側近のひとりが谷垣禎一氏であり、自民党が野党時代の総裁となる。が、結局谷垣総裁時代に自民党が民主党から政権を奪取することは出来なかった。「加藤の乱」の失敗で、事実上自民党内における宏池会系の影響力は衰退し、ひいては分裂することになり、清和会の天下はますます継続されることになった。

・森喜朗氏と小泉旋風

構造改革のイメージ(ふフォトAC)
構造改革のイメージ(ふフォトAC)

 とはいえ、森内閣の不人気は「加藤の乱」後も依然続き、2001年4月にいよいよ総辞職と相成った。そこで自民党総裁選挙が行われる運びとなったが、ここで二人の有力候補が出た。森氏と同じ清和会に所属する小泉純一郎氏と、経世会系所属で総理を経験した橋本龍太郎氏である。

 この時、自民党議員の多くは、経世会系所属で伝統的な保守本流の位置づけである橋本龍太郎氏の再登板を期待して、「橋本再登板」の観測が有力視されたが、自民党員にしか投票権が無いものの、まるで国政選挙における一般有権者の審判を仰ぐように小泉氏は総裁選挙の期間中、連日乗降客の多い駅前の街頭に立ってメディアに露出した。投票資格のない非自民党員まで街頭に立錐の余地なく満員になるほどの盛況ぶりであった。

 所謂「小泉旋風」である。結果、議員票より前に開票される党員票が圧倒的に小泉氏支持となり、それに流される形で投票時には議員票も揺れ動き、票が瞬く間に小泉氏に流れた。

 森内閣が余りにも失言を連発し、不人気であることから危機感を覚えた自民党員が、「自民党の改革」「自民党をぶっ壊す」として内部改革を訴えた小泉氏に群がったのである。結果、誕生した小泉内閣は以後約5年半に亘る長期政権を実現した。福田赳夫以来、非主流として冷や飯を喰らい続けた自民党清和会の天下の幕開けであった。

 小泉内閣は所謂「郵政解散(2005年8月)」で大勝利するが、小泉首相自身の美学(?)もあってか、2006年9月に総辞職し、事実上後継指名した安倍晋三(第一次)に禅譲して第一次安倍内閣が誕生した。

 今から考えれば、小泉内閣には復古調的価値観はそれほど濃くなかっただろうものの、靖国神社を参拝するなどして保守層の歓心を大きく買った。現在のネット右翼・保守界隈では、小泉氏の進めた新自由主義的構造改革路線を批判的にみる向きが強いが、小泉内閣当時は首相の靖国参拝の一点を以て「真の保守政治家」として翼賛的に礼賛する傾向があった。

 そして政権は、第一次安倍(清和会)、福田康夫内閣(清和会)、宏池会系諸派の麻生内閣と民主党政権を経て、2012年から再び第二次安倍(清和会)が続き、タカ派、復古主義的傾向の強い清和会の天下が続くことになる。

 様々な評価があるのを覚悟して言えば、21世紀の自民党20年史を俯瞰するに、間違いなく右派・保守・タカ派的観点を持ち、それまで非主流として自民党内で辛酸を舐めてきた清和会が、まるで「我が世の春」として天下を迎えるきっかけは、森喜朗内閣が原点である。それも皮肉なことに、森内閣が支持されたのが原因ではなく、森内閣が党内から倒閣運動を起こされるほど不人気がゆえに誕生した小泉内閣への熱狂的支持が産んだ結果と言える。

・自民党「右傾化」の原因は森内閣にあり

 そしてそれと同時に、清和会森内閣の倒閣を目論んだ「加藤の乱」が大失敗したことで、保守本流として厳然たる勢力を誇ったハト派の宏池会の影響力が分裂、低減したことによる、自民党自体の「右傾化」「タカ派化」がこの20年の間、顕著になった。すでに述べた通り、清和会の基本スタンスは伝統的に大資本家寄りの法人税減税・規制緩和路線であり、外交的には親米保守で、反共主義を旨とし、中国・ソ連に対して敵愾の価値観を苗床にしているからである。こうして日本政治、ひいては自民党の「右傾化」は、森内閣誕生にその原点が見いだされよう。

 更に言えば、第二次安倍政権総辞職後の自民党総裁選挙(2020年9月)において、各派閥から横断的に支持を受けた菅義偉氏が総裁に選出されたが、宏池会の看板を背負う岸田文雄氏への得票が今一つだったことを踏まえると、保守本流と謳われた宏池会の凋落ぶりが改めて分かる。21世紀に入り、自民党の「右傾化」「タカ派化」路線の出発点になったのは、とどのつまり森内閣誕生と、その不人気により誕生した同じ清和会の小泉内閣だったと言えるのではないか。

 こうして、小渕恵三首相急逝による森喜朗内閣の誕生によって、自民党の体質は幸か不幸かこの20年、劇的に「変質」した。すでに述べたように、森内閣の発足当時は「居抜き内閣」だったので、清和会路線は希薄だった。だが森内閣は内閣改造を経て清和会的本格内閣への準備を図ろうとした、いわば「実験内閣」であったともいえる。

 おりしも森内閣は、2000年~2001年という、世紀を跨いだ激動の時代に政権を担当した内閣であった。爾来、20年間の自民党を考えるとき、右派的・タカ派的・復古的価値観を持った清和会の伸長・天下と、加藤の乱で衰微した伝統的なハト派「宏池会系」の影響力減衰は見過ごすことのできない決定的事実である。

 日本政治、ひいてはここ20年余の自民党の「右傾化」を批判的にみるならば、その苗床は明らかに森喜朗内閣の時代に求められよう。(了)

作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長

1982年北海道札幌市生まれ。作家/文筆家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長。一般社団法人 日本ペンクラブ正会員。立命館大学文学部史学科卒。テレビ・ラジオ出演など多数。主な著書に『シニア右翼―日本の中高年はなぜ右傾化するのか』(中央公論新社)、『愛国商売』(小学館)、『日本型リア充の研究』(自由国民社)、『女政治家の通信簿』(小学館)、『日本を蝕む極論の正体』(新潮社)、『意識高い系の研究』(文藝春秋)、『左翼も右翼もウソばかり』(新潮社)、『ネット右翼の終わり』(晶文社)、『欲望のすすめ』(ベスト新書)、『若者は本当に右傾化しているのか』(アスペクト)等多数。

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