「変な人たち」が多様なテレビコマーシャルを生んだ 伝説的プランナー・小田桐昭さんとたどるCMの発達史【放送100年②】

CM界のレジェンド・小田桐昭さん=2024年8月、東京・銀座

 日本テレビが放送を始めた1953年8月28日、テレビコマーシャル第1号と目されるCMが流れた(ただし、フィルムが逆回しになってしまい、いきなり放送事故に)。
 それから70年余り。CMは商品を宣伝するだけでなく、時代を先取りし、流行を生み出してきた。どんな人が、どんな思いでCMを作っていたのか。数々の広告賞に輝く伝説的CMプランナー・小田桐昭さん(86)と共にたどる。(共同通信編集委員・原真)

▽生CMに手書き

小田桐昭さんが企画し、1964年のACC賞グランプリに輝いた服部時計店のスポーツ競技用時計のCM(セイコーグループ提供)

 1938年生まれの小田桐さんは戦後、旧満州(現中国東北部)から故郷の北海道へ引き揚げた。石川県の金沢美術工芸大を卒業した1961年、広告会社の電通に入る。ポスターなどをデザインするアートディレクターを志望していたが、配属されたのはラジオ・テレビ企画制作局(通称「ラテ企」)。ラジオやテレビのCMを作るだけでなく、番組を企画することもあるセクションだ。小田桐さんは、生放送のテレビ番組に挟むCM用に、テロップやフリップを手書きする仕事から始めた。

 当時のラテ企の職員は、映画や演劇、音楽など他の業界から来た人たちだった。小田桐さんは振り返る。
 「流れ者の集団。広告の専門家は1人もいなかった。みんな手探りで、めちゃくちゃなことをやっていた。番組スタッフから『コマーシャル屋』とばかにされることもありました」
 グラフィックデザインをやりたかったので、一時は会社を辞めることも考えた。だが、テレビが急速に普及して、広告も瞬く間にテレビがメインになり、CM制作現場は活性化していく。小田桐さんは、企画した精工舎(現セイコーグループ)のCMが広告業界で最も権威のあるACC賞グランプリに輝き、電通に残ることに。

▽新しい文化をつくる

 小田桐さんによれば、欧米のCMは伝統的なグラフィックデザインの作法で、視聴者を言葉で説得するように作られていた。これに対し、日本のCMは、カナダの社会学者マーシャル・マクルーハンの理論を参考に、テレビという新たなメディアの特性を生かすため、文字によるコミュニケーションを排除しようとした。小田桐さんが解説する。
 「論理的というより、肉体的。感覚というか、猥雑さというか、言葉や文字でない面白さを探った。CMの現場に変な人たちがいたことが、日本のCMの多様性につながったと思います」

 テレビがお茶の間の中心にあった1970~80年代には、視聴者の貪欲さに促され、CM表現の幅が広がっていった。多彩な町人文化が花開いた江戸前期になぞらえて、「CM元禄時代」とも呼ばれる。
 「みんなが、もっと面白いもの、見たことのない世界を見たがる。広告効果も上がって、スポンサーがCMにお金をかけるようになりました。僕たちは、テレビによる新しい文化をCMからつくるんだ、と思っていた。道を開いていく楽しさがありましたね」

▽高見山がダンス

松下電器の「トランザム3in1」のCMに出演した高見山さん=1977年12月

 小田桐さんが手がけたCMは、驚くほど多彩だ。例えば、1976年に放送された松下電器産業(現パナソニック)のポータブルテレビ「トランザム」のCM。スーツを着た力士の高見山さんがトランザムを手に、軽快な踊りを披露する。巨漢と小型テレビ、日本の伝統的な相撲と米国流のタップダンス。意外な組み合わせが話題になった。
 ただし、この作品の前には〝失敗作〟があった。「トランスアメリカ」を短縮した商品名の通り、小田桐さんたちが最初に作ったのは、若者がトランザムをバイクに積み、米国を横断するCM。映画「イージー・ライダー」に着想を得て、スタイリッシュに仕上げた。「でも、かっこいいだけでは駄目。誰も覚えてくれなかった」

 第2弾を依頼されたが、米国ロケに多額の制作費を投じてしまったため、予算がない。「一番お金がかからない方法」として、スタジオの壁の前で、大きな人に小さなテレビを持ってもらおう。有名タレントに払うギャラもないから、「まさか」と思われる人を探そう―。小田桐さんは、普段は浴衣の高見山さんがジーンズを履いた雑誌の写真を思い出し、出演を依頼した。
 「ハワイ出身だから、踊れるんじゃないかと思っていたけど、リズム感が良くて、びっくりしました。お金がなかったから、シンプルに考えたのが良かったのでしょう。条件が良く、ヒントがありすぎると駄目。広告って、そういうものです」

▽セクシーなフルムーン

「フルムーン」のCMに出演し、東京駅の一日駅長も務めた上原謙さんと高峰三枝子さん=1982年10月

 実は、有名な国鉄(現JR)の「フルムーン」キャンペーンのCMでも、同様のことがあった。中高年の夫婦に旅行を勧めるため、小田桐さんがまず企画したのは、定年退職した実在の夫婦が古都を旅するドキュメンタリー的な作品。「いい日旅立ち 人生その2」と締めくくった。
 「真面目なテーマだから、ふざけられないと思った。ところが、CMが流れても、何の反応もない。何か間違っている、と気付きました」

 キャンペーンの対象となる年配の女性に話を聞くと、夫と旅行なんて嫌だという。「旅行は日常から非日常に向かう。なのに、僕らはドキュメンタリーで日常をやってた。フィクションにして、高齢者でも新婚旅行のようにドキドキするものに、と考え直したんです」
 1981年、往年の大スター・上原謙さんと高峰三枝子さんが旅に出るCMを作り、「第2のハネムーン、フルムーン旅行」にいざなった。続編には、2人が温泉に入るセクシーな場面も。CMは大反響を呼び、フルムーン夫婦グリーンパスは一挙に広まる。当時は団体旅行が中心だったが、2人で出かける夫婦が増えた。
 「生活様式が変化した。広告は、人の行動や考え方を変える可能性があります」

▽作風は持たない

グレゴリー・ハインズさんは米ニューヨーク・ブロードウェーの舞台のほか、映画「コットンクラブ」「タップ」にも出演した(ロイター=共同)

 1981~82年の東京海上火災保険(現東京海上日動火災保険)のCMも、注目を集めた。こびと化したサラリーマンが、ボウリングのレーンやビリヤード台で新聞を読んでいると、ピンやボールがかすめていく。「今日、無事だったのは、偶然ではありませんか」といったナレーションが響く。
 東京海上からは「明るいブランドイメージで、怖いCMを作ってほしい」と難しい注文を受けていた。損害保険の機能を素直に表現すれば、暗くなってしまう。「事故を、いかにカラッと描くか」。考え抜いて、巨大なセットを作り、実写で制作した。
 「人は楽観していないと、生きていけない。心配ばかりしても、しょうがない。ただ、備えることはできる。このシリーズでは、楽観主義を笑うというか、『人間の不思議さ』が隠れたテーマでした」

 他にも、小田桐さんはユニークなCMを数多く世に送り出している。整然と並んだシャープペンシルの芯の上を、鉄の玉が転がる三菱鉛筆の「ハイユニ替え芯」。女子高校生に見とれた男子中学生が、「ドテ」と倒れる資生堂のスキンケア用品「エクボ」。米国の超大物タップダンサーのグレゴリー・ハインズさんが躍動する宝酒造の焼酎「レジェンド」…。
 同じような作品が少ないのは、あえて作風を持たないよう、心掛けているからだ。「作風があると、それに問題を合わせちゃう。問題を解決するのが仕事ですから、解決の仕方はたくさんある方がいい。時代が変われば、問題も変わり、答えも新しいものになる」と小田桐さんは言う。
 「僕たちテレビ屋には、どんなことをしてでも人の目を引き付けたい、という本能みたいなものがある。無視されるのが一番怖い。だから、見たことのないものを追求したんです」

▽心を動かす仕事

小田桐昭さんはイラストレーターとしても現役で活躍中だ=2023年1月、東京・銀座

 映像と音声で商品やサービスを売り込むテレビCMは、大量消費を進め、高度経済成長を後押しした。短い秒数にメッセージを凝縮して、数々の流行語を生み、社会に大きな影響を与えてきた。
 「しかし、家電製品などが一通り行き渡ると、消費欲が冷えた。新製品を作って、CMをガンガンやっても、物が売れなくなりました」と小田桐さんは指摘する。

 バブル経済が崩壊した1990年前後から、大量のCMを打つことによって、スーパーやコンビニに商品を置いてもらう棚を確保するような広告手法が一般化していく。
「お茶の間よりも、流通のために、CMを流している。CMは人々を喜ばせるんじゃなくて、ただうるさいものになってしまいました。『CMは文化だ』なんて、とんでもない、と。せつない刺激をいかに反復するかに向かっている」

 2019年、テレビは広告費でインターネットに抜かれた。ネットは、利用者が広告をクリックしたかどうかなど、詳細なデータを即座に得られる。そこで広告会社は、ネットに接続されたテレビの「視聴データ」をはじめ、大量のデータを収集。人工知能(AI)を使って、より効果的なCMの打ち方などを提案している。
 「データに基づいて、消費者が歩きそうな所に、わなを仕掛けようとしているだけです。それで、商品と人との関係ができるのでしょうか。最近、良いCMが少ないのはなぜなのか、考えなきゃいけない」と小田桐さんは訴える。
 「広告は心を動かす仕事。データよりも、本質的な直観が必要になります。人間って、もっと不思議なものだから」

 傘寿を過ぎた今も、小田桐さんは大王製紙の大人用紙パンツ「アテント」の広告作りに関わっている。
「ものを考えるのが好きです。アイデアは突然、空から降ってくるんじゃなくて、ずっと問題を考えていると、答えが見えてくる」
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 日本で放送が始まって2025年3月22日で100年。ラジオ・テレビを形づくった人々に聞くシリーズ【放送100年】は随時掲載します。

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