ブンゲイファイトクラブ全作批評:Aグループ
はじめに
ブンゲイファイトクラブは原稿用紙6枚以内の文芸作品であれば形式を問わず応募可能、審査側も被審査側に審査されるという特徴的なゲームルールが採用されている。第1、2回では「小説」への偏りが懸念事項ではあるものの、その特徴的なゲームルールゆえに大会内で固有のだれの所有物でもない文学観が生じてしまうことに高い独創性を感じる。
「評価」とはざっくりいってしまえば任意の評価軸で張られた空間内での配置のことで、「批評」とはその空間構造への言及なのではないかとふと思うことがある。熱力学やら統計力学をかじっていた手前、構造なんてものは何らかのポテンシャルを設定してしまえば意図せずともなんらかのなにかが如何様にも生じてしまうものであると思い込んではいるけれど、ならば文芸の実践者がそこに介入できる余地はどれほどあるのか。ことばの連なりの操作、文芸表現という空間を張る評価軸、程度の判定、泣いた怒った笑ったなどの感情の析出と表明……挙げ出せばキリがないものをいちいち愚直にあげつらう行為もまた文芸表現なる実体不確かなものを知ろうとする意志でもありえ、不幸にもこの愚直さに魅入られてしまう人間さえ存在する。
「評価者が実作者を評価し、実作者が評価者を評価する」という最大の特徴たるゲームルールは、読み手による「評価」から文芸表現の殺生与奪権を剥奪する仕掛けとなっている。もちろん、突き詰めていけばBFC予選という意志機関による選抜がある以上、書き手と読み手が完全に同等に扱えているとは言えないものの、それを実験する箱庭として何が起こるかには強い関心がある。読み手が安全圏にいられない、実作者と同等の危険のなかで文芸作品に触れなければならない緊張で、文章の読まれ方はどう変わるのか。ひとのためではない文芸のためのことばが存在しうる場所があるなら、それはどんなかたちをしているのか。集合的無意識としてだれの目にも映らず言及されるはずのない文学の所在に少しでも触れることができればと思い、個人的な感想を書かせていただきます。
評価について
ブンゲイファイトクラブのジャッジと同様、各作品に5段階の点数評価をつけ、各グループごとに「勝者」を選出しました。点数については、原稿用紙6枚という尺で書かれる必然性、技術的な特性、論点のユニークさ、そして単純な好みを元にしています。
Aグループ評:時代とレトリックのパワーバランス
日本の現代文学、とりわけ純文学を見ていると「流行」とおぼしき傾向が大まかに2パターン見られるような気がします。ひとつは「文芸表現の技術に特化したメカニカルな特性」で、これらはポストモダン文学の影響下にあるような作品群が例に挙げられます。もうひとつは「現代社会の写し鏡としての特性」で、こちらでは物語の意味や現代社会・思想・アイデンティティなどの特性の抽出した想像力が実作の根幹にあるように感じられます。ちゃんと調べたわけでなくごく個人的な肌感(そして小説に限定した話)で申し訳ないのですが、この二つの傾向は5〜10年のスパンで入れ替わっているようにおもわれ、今は後者の作品の存在感が強くなってきています。現代社会と近い距離にある作品は作家と時代のパワーバランスが重要な気がしていて、とりわけいまは作家に対して「時代」が強すぎる。文芸誌をひらくとどれとは言えないけれど「少しずつ似ている」という印象が掲載作からも感じられ、そうしたとき「特定の時代・社会を描き出すこと」と「特定の時代に作家が支配されること」の違いとはなんだろうかと考え込んでしまいます。時代による支配から逃れ、ひとつの時代を作ってしまう技術というのは存在しているのか?
Aグループの作品全体から感じられたのはこの2つの傾向のバランス感覚でした。とりわけ竹花一乃『青紙』と笛宮ヱリ子『孵るの子』からは現代(日本)社会との関係性を強く感じました。『青紙』には往来の日本(には限られた話でもありませんが)で権威的な存在そのものであった「男性性」の支配に対する抵抗が、『孵るの子』には語り手が語り手であるための証明としての「女性性」が強力な筆圧で描かれています。両者とも大小様々な問題を多く抱えた作品だと読める一方、象徴的なキーワードが前景化してしまうことで、作品が抱えていた複雑性が損なわれているように感じました。そしてそれは技術的な問題にある程度落とし込んで言及することができるようにも思います。
『青紙』は「寿命申告制」というディストピア世界を描くにあたって、作品スケールと原稿用紙6枚というルールにより生じた「スケールの不一致」が結果的に大きな瑕疵となりました。この小説は世界観の叙述・説明に大きな魅力を持っている反面、世界像の素描が広く行われることにより小説全体が薄くなってしまい、「50枚、100枚の短編やそれ以上の長編」として書かれたほうが良い小説になってしまう。本作は一人称で語り、「妻による実質的な夫の殺害」という社会問題が同期スズキの身にも訪れることで作品の収まりは良くなっています。だけど、この小説は一人称で書かれているわりにどこか見通しが良すぎていて、それは高度に情報化された社会を象徴するような語りのあり方とも読めるようで、しかし「作品規模」と「原稿用紙6枚」というスケールの溝に対するエクスキューズにも見えてしまいました。
『孵るの子』は女性の二次性徴を核としたイメージを、ちょうどその時期にある少女の語りで書かれた作品でした。ただモチーフや関西弁の語りからどうしても先行する作家を悪い意味で連想してしまいました。身体についてありふれた少女の空想が、語りのなかで独自のイメージを獲得し身を結ぶか如何に語り手に内在する切実さや小説として「唯一絶対」な感慨が宿る作品だろうだけに、強い既視感をもたらす要素は大きな足枷となった印象を受けました。小説はむろん書き手の自由意志のもと生まれるのはもちろんですが、時として書き手を取り巻く環境(読んでいる本、生活している土地や時代、実作に用いるペン……)に「書かされている」という可能性にすべての作家は晒されているとぼくは考えます。その認識に立ったとき、ぼくは「私に小説を書かせるもの」や「時代による作家の支配」に対する無自覚さを本作から感じました。
阿部2『浅田と下田』、峯岸可弥『兄を守る』は上記2作品よりも現代社会との直接的な関わりからは距離をおいた作品として読めました。『浅田と下田』では「蒸発」ということばを使った存在の変化に、『兄を守る』では二人称の語りのなかに小説全体の認識を操作するような効果が組み込まれています。
『浅田と下田』は蒸発によって小説の空間・時間の認識が一気に拡張され、この試みは山下澄人の小説を(良い意味で)想起させるものだったけれど、そうした変化が起こってからにおもしろみを感じた人間としては物足らなさを感じました。銭湯内での緩い会話と地続きにこの展開、認識変化があるからこそおもしろいだけに、「蒸発」後をより充実させるにはもうひとつふたつは企みが必要だったかもしれません。この作品でも『青紙』とはまた違うかたちで「作品規模と原稿用紙6枚」というスケールの溝を感じました。
『兄を守る』の技術的な論点は、(ファンタジー的小道具がイマイチ機能していないことも気になりますが)「なぜ二人称が採用されたのか」に尽きます。逆を言えば、この小説には衒いというものが基本的に存在しておらず、純粋な物語が純粋に語られている小説で、それが美徳であり他の作品に比較して地味であることにもつながっています。ケルベロスに襲われ、死んだと思っていた「あなた」が実は兄に助けられて生き延びたということがラストで明かされる展開で、「あなた」は兄と自分の区別が不確かになるような混乱状態にあり、この部分が本作における唯一の「小説的に不思議な現象」なのですが、それは母のことばを記述することによって「兄が最期まで守ってくれた=死んだ」と明記されている。結果、この小説では二人称を用いて徹底して物語の死角を作らないように構成されているのですが、「見えないこと」が排除されてしまったがゆえに安全圏から一歩も出ない小説になってしまった印象を受けました。
Aブロックでぼくが一番に推したいのが短歌作品である十波一『新しい生活』です。ブンゲイファイトクラブの規定枚数である原稿用紙6枚というのは、小説ではかなり厳しい枚数制約であるけれど、詩歌にとっては十分な広さが与えられているように思います。そして『新しい生活』では40の歌を使って、生活のなかに流れる時間を読者が歌を読むスピードに呼応するような速度で丹念に描き出した歌集であると読みました。この歌集の中心にあるのは、「新しい」という状態の過渡、そして「生活」という行為の定常です。
「新しい日常といって面白くそしてもとの温度に戻っていった」
という歌がまさにそれを記述しているのですが、歌集としてこれがかなり前に配置されていることに「新しい日常」たる時間感覚がはっきり示されています。以降に現れる歌は視点次第では「色あせた日常」の「停滞した時間」とさえうつるものですが、平凡であるがゆえになかなか目の前を過ぎ去ってくれない情景や思いつきを書き手は歌としてつなげていく。新しさは過ぎ、停滞に飲まれた日常に「生活」たる時間を与えるように歌を詠む。この歌集からは、こうした態度を現代短歌のひとつのありかたとして示すような意思を感じました。
評価
竹花一乃『青紙』:2点
阿部2『浅田と下田』:3点
十波一『新しい生活』:4点 ★
峯岸可弥『兄を守る』:2点
笛宮ヱリ子『孵るの子』:1点