飲食店での会話が聴き取れない。
飲み会が苦手だ。
といっても酒が飲めない訳ではないし、お喋りが嫌いな訳でもない(むしろ大好き)。ただ、仕事で人が集まる場に行き、その後みんなで打ち上げに……という場面で私は迷わず「失礼します!」と退散するので、ノリが悪いと思われた(言われた)ことは数え切れず。
ここしばらくは疫病でそんな機会もご無沙汰になり、内心ホッとしている、というのが正直なところなのだけど。
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ただ、これには自分なりの深刻な理由がある。参加したくないというか、むずかしいのだ。多くの人が同じフロアにいて、BGMが鳴っている空間に身を置くと、マジで会話が聴き取れない。もしそうした空間でちゃんと会話を成立させようとするならば
「○✗△○◇がさ……」
「え、なんて?」
「だから、○✗△○◇で……」
「ごめん、もう1回……」
「……もういいよ。」
という具合になってしまう。相手はもちろん苛立ってくるし、会話を一時停止するばかりで盛り上がらない。二人きりであれば相手に耳元で喋ってもらえればやや解決するけれど、三人、四人、それ以上……となると難しい。故にわかったフリをして、結果会話が噛み合わない……ということも少なくなかった。
ただ、音は聞こえてはいるのだ。けれどもBGMや、調理場の音、別のテーブルの会話と混ざってしまって単語が聴き取れないので、理解度が50%くらいになり、想像で補うしかないのだ。「英文は聞こえてるけど、単語の意味までは完璧に聴き取れてない」という感じに近いかもしれない。(もちろん、ネイティブである日本語での会話なのですが……涙!)
レストランのカウンターで横並びに2人、みたいな状況だと自分の耳と相手の口が近いからまだマシなのだけれども、それでも店員さんからの料理の説明は聴き取りづらい。ただ最近はみんなマスクをしてるから、「マスクしてはるし、説明全然聞こえへんかったなぁ」とボヤいたところ、同席していた友人が「えっ、聞こえるけど」とびっくりして、こちらもびっくりしてしまった。私は耳が悪いのかもしれない、と疑った。
ただ聴力検査をしたところ、むしろ逆。「聴力高いですね…!すごいです。モスキート音とか気になりません?」と看護師さんに言われたほどだ。確かに、大きなビルに入る際は耳がキーンとすることが多いし、聴力はすこぶる良い。地下鉄や高架下では騒音が耐えられなくて、いつも耳をふさいでいる。(私はそれほどじゃないけれど、聴覚過敏という症状もある)
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聴力は正常でも聴き取れない、APD(聴覚情報処理障害)
聞こえているのに、聴き取れない。最近、こうした自分の特性に近い、APD(Auditory Processing Disorder = 聴覚情報処理障害)という症状があることを知って、長年の霧が晴れた気分になった。NHKのサイトには、以下のように書かれている。
わかりやすいのは、以下のカクテルパーティー効果についての説明だろうか。
……と書いている私は、具体的に診断が下りた訳ではないので「かもしれない」という個人の体験談だという上で読み進めていただきたい。(日本では診断してくれる病院があまりにも少なく、都内で良い場所があればぜひ教えていただきたいです)
ただ、通常より聴き取りにくいのは確かなので、そうした人である、そうした人がいる、という前提を知っていただければ、大変有り難いのだ。
というのも、賑やかな場所に参加しない……という行為は、場合によっては「拒否された」「排他的で冷たい人」と感じられてしまうこともある。けれども、そういう訳じゃないのです……!
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説明しなきゃ伝わらない、個々人の感じ方
たとえば、私が新卒で就職した会社では、毎月渋谷のライブハウスで音楽イベントを主催していたのだけれど、私にとってのそこは大音量の洪水で頭がシェイクされているような感覚になり、音楽を楽しむ以前に苦痛が勝ってしまう場所だった。
けれどもそうした不快感を周囲に説明することも難しく、結果現場にちっとも足を運ばなくなったので、先輩に「全然来てくれないね……」と悲しまれたこともある。今であれば「行きたくないのではなく、行くことが難しい」と説明できるのだけれど、当時はAPDという言葉も知らなかったし、ただただ苦手というネガティブな言葉で片付けてしまったので後悔している。
ただ、幸いなことに職場は参加を強制してこなかったから、仕事を続けることは出来た。あれがもし「全社員絶対に参加!」という決まりであれば、私は半年も会社にいられなかっただろうな。
中には「絶対に楽しいから一緒に行こう!」という親切心で誘ってくれる人もいるし、その気持はとても嬉しい。ただ、音の感じ方が人によってまるで違うことを知っていただければ有り難いのだ。もちろん、個人の感じ方について「察して欲しい」は通用しない。「自分と他人の感じている世界が違う」ということを、ちゃんと説明することが大切だと思っている。
それでも、誰かとの食事を楽しむために
もちろん、工夫をすれば複数人での会話を楽しむことは出来る。
たとえば自宅に人を招くのであれば、BGMは自分で調整できる。私の場合はメロディラインやドラムなどのビート、歌声のあるBGMが流れる空間では気が散漫してしまうのだけれども、高木正勝さんの『Marginalia Ⅳ』を小さな音で流すのであれば大丈夫。また、今の家には幸い床暖房があるので、冬でもエアコンをつけずにある程度温めることが出来て助かっている(エアコンの音も聴き取りを難しくさせてしまうのだ)。
人数も、4人以下であれば大丈夫。5人になると、2対3で会話が割れてしまい、どちらを聴けば良いのか混乱してしまうのだけれども、4人までだと会話の軸が1つになるので集中しやすい。
どうしても外で……という場合は、お酒ではなくお茶の席にさせてもらうことも多い。櫻井焙茶研究所が好きなのは、BGMが流れておらず、お客さんはカウンターに立つ茶人たちの美しい所作に耳を傾ける故に、自然と小声で話すようになるから……という理由も大きい。
家で美味しいお酒を楽しめるような環境を用意したり、そもそも静かな場所に住む……という工夫も出来る。家族に伝えて、知ってもらったり、お互いが歩み寄れる音環境を作っていくことも必要だろう。
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私が家とTwitterを好きすぎるのは、ただただポジティブな気持ちからではなく、どうやらこのあたりの困りごとが絡んでいるように感じている。家の音環境は自分でコントロール出来るし、Twitterは文字情報だから聴き取れないことがない。これは寒いときにあったかい服を羽織ったり、ビタミンが足りないとき酸っぱいものを欲したりするのと似ているように思う。あると嬉しいというより、ないと困るのだ。
……ということで今回は、私の性格のかなり根幹にあるかもしれない、悩み事について書いてみた。ただ、こうした困りごとを、
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新刊『小さな声の向こうに』を文藝春秋から4月9日に上梓します。noteには載せていない書き下ろしも沢山ありますので、ご興味があれば読んでいただけると、とても嬉しいです。