60.ローマ3:29 すべての民族の神
モーセの律法は礼拝に必要な条件を細かく定めつつ、「ユダヤ文化」を形成しています。
礼拝とは、神殿での活動だけでなく、食事の内容や食べ方など、日常的な活動も含まれます。
そこで問題になってきたのが、神に義とされるためには、すべての民族が「ユダヤの文化」となっている日常の生活の仕方に従うべきなのか、ということでした。
ユダヤ人の側には、次のような強い意見がありました。
"モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない。" (使徒15:1)
でも、モーセ律法の慣習に従って「割礼」を受けると、律法のすべての規定を履行する義務があるのです。つまり、日常の生活の行動様式を、律法に従わせなければなりません。
救われるための条件はそれが本当に必要なのだろうか。すべての民族がユダヤ人のようにならなければならないのか?
いいえ、そうではありません。
神は、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ、イエス・キリストの贖罪によって、どの民族も神と和解する道を用意されたのです。
考えてみましょう:神は新約聖書において、キリスト教徒が一致して事を行っているのが誰にもわかるように、礼拝神事の次第詳細を規定されているのでしょうか?あなたは、キリスト教の一致のポイントは何だと思いますか?