匿名性とショーペンハウアー。
19世紀に活躍した哲学者、ショーペンハウアー。
評論雑誌のなかで、匿名で言論活動をおこなう批評家たちについて彼は、こんなことばを残している。
なぜ言論に匿名性が必要なのか。それは声をあげた者(この場合は誰かの著作物について批評した者)を、保護するためである。身の安全が担保されてこそ、批評家は正直な批評をおこなうことができる。それがメディアの言い分だった。というわけである。しかし彼は、その欺瞞をこうあげつらう。
たしかに、著者やそのパトロンが攻撃・反撃してくることはあるだろう。そこでの遺恨が、今後の言論活動を萎縮させる可能性もあるだろう。しかし、そうしたケースが仮に1件あるとしたとき、単なる責任のがれとして匿名性を悪用するケースは100件あるに違いない、というわけだ。
ここからショーペンハウアーのペンはさらに容赦ない。
そして彼は、「どんな匿名批評家にも効く撃退万能薬」として、次のことばを紹介する。
曰く、「効き目は折り紙つき」だそうだ。
怒り心頭のショーペンハウアーはここから「こんなことを我慢せよというのか」「警察は、覆面をしたまま往来を歩くのを許さないように、匿名で書くのを見のがすべきではない」「匿名の評論雑誌はそもそも、無学が学識をさばき、無知が分別をさばいても処分されない無法地帯であり、一般読者をあざむき、悪書をほめそやして時間と金をだまし取っても見とがめられない場だ」とまくし立て、新聞記事もすべて署名記事にするべきであり、そうすれば「新聞のデマの三分の二はなくなり、あつかましい毒舌も制限されるだろう」と書いている。
さて、ぼくはインターネットをはじめた当初、「ふみけん」というハンドルネームを用いていた。自分の名前があまり好きではなかったし、高校時代から慣れ親しんできた「ふみけん」というニックネームの気軽さが、インターネットとの向き合いにちょうどよかった。
インターネット上で本名を名乗るようになったのは、自著の刊行が決まってからのことである。自分の名前で本を出すと決めたとき、だったらこっちのほう(インターネット空間)でも本名を出さなきゃな、と決めたのだった。
かつてたのしくハンドルネームを使っていた人間として、匿名の気軽さはよくわかるし、それ自体を否定するつもりはない。けれど、匿名のわたしとは「仮面をかぶったわたし」だ。そして仮面をかぶると人は、どうしても声がおおきくなる。届かせようと、響かせようと、声がおおきくなる。テキストの世界においてそれは、刺激や扇情、攻撃性をまとった声になることが多い。
だから、匿名の仮面をかぶっている人ほど、みずからの「本来ではない声のおおきさ」に自覚的であってほしい。仮面を外したあなたは、そんなでかい声でしゃべらないはずなのだから。