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まっする3レビュー(鈴木健.txt)リアリティーを武器としながらリアルに対し真摯であることの尊さ

マッスルOB・純烈の酒井一圭が初めての
客席で味わった甘酸っぱさと照れくささ

 初めて足を運ぶ会場の品川ザ・グランドホールがどこにあるのかわからず、駅から続くスカイウェイをさまよい歩いていると長身の人物から声をかけられた。よくよく考えると不思議ではないのだが、普段は違うフィールドでしか顔を合わせていなかったので、一瞬だけ「どうしてこんなところに?」と思ってしまった。
 声の主は純烈リーダーであり、マッスルのOBの酒井一圭さん。傍らにいる息子さんを指しながら「今日はプロレスを見にいくって誘ったんですよ」と言う。
 てっきり、かつてだっこ紐でくくりつけられてお父さんと一緒にマンモス半田と闘った(2006年5月4日、マッスルハウス2)あの子だと思いきや、一圭さんが連れてきたのは次男の弟さんだった。そこに気づかず、トンチンカンな会話をしてしまった。
「ここのプロレスはちょっと変わっているけど面白いから見た方がいいよ。でも、見る前に出たことがあるからわかっているか。あっ、だけど小さかったから憶えていないよね」
 次男くんがきょとんとしていたのは、言うまでもない。前回の「まっする2」にもペドロ高石さんが息子さんと来たように、もうそういう時代になったのだという感慨がある。
「次世代のマッスルを描くために」スタートしたひらがなまっするだが、出演するメンバーの若返りとともにこうした形によって時代の移ろいを実感させられる。ペドロさんも一圭さんも客席から見るのは初めてであり、あの頃と変わらぬ風景と新しくなった現在の両方によって感情を揺さぶられたくてやってきたのだろう。
 品川ザ・グランドホールは舞台があり、リングこそ設営されているもののプロレス会場というよりも吉祥寺シアターや下北沢・本多劇場のような雰囲気を漂わせていた。ましてや今回は、ゲネプロ(通し稽古)をうたっており、競争率の高かったチケットをゲットした観客の姿勢も今まで以上に“そっち寄り”だったのではと思われる。
 前回のまっする2にて「演劇的手法を採り入れた表現によるプロレス」であるマッスルから「演劇の俎上にプロレスを乗せる」に転化することで、新たな自分たちの器を手にしたこのタイミングだからこそのゲネプロ。リハーサル、台本、打ち合わせといった従来の業界的価値観に当てはめるとタブーとされるものを逆手にとって、マッスル坂井は唯一無二のエンターテインメントを形にしてきた。
 ゲネプロというぐらいだから、もっと稽古っぽいもの…つまりは、セリフを間違ったらそこで止まってテイク2として再開するぐらいのことを予想していたが、この日繰り広げられたのは本番さながらの演目だった。エンディングで坂井が明かしところによると、全体による通しリハはわずか3日しかできなかったという。
 にもかかわらずセリフが前々回、前回よりも増え、BPMもより疾(はや)くなっていた。前半の段階で、これは11・9後楽園における“本番”に向けての準備段階ではなく、一個の作品なのだと気づかされる。
 回を重ねるごとに手札が増える中で、過去2回で好評を博したヘル・イン・ア・ブルーシートはおこなわず、今回はシステマが導入部分となった。当たり前のようにプロレスラーの中へ混じって技を受けるサウスリバーみなみかわの体の張りっぷりは、それが演劇であろうとプロレスであろうとリアル以外の何物でもない。
 その中に「100%で来い!」(みなみかわ)「よし、200%でいくからな」(納谷幸男)「いや、だから100%で来い」(みなみかわ)といった演劇的セリフ回しがちゃんと盛り込まれるあたり、絶妙なのだ。
 まっするではネタ的に描かれるシステマだが、今年7月に無観客配信トークライブでご一緒させていただいた格闘家の菊野克紀選手も熱心に研究しており、そのさい共演したボクシング東洋太平洋バンタム級王者・栗原慶太選手のボディーブローをノーガードで食らってみた。もちろんサウスリバーのごとく悶絶しまくったが、触れた者は体を張りたくなる何かがこのロシア武術にはあるのだろう。 
 ちなみにあの鈴木秀樹を輩出したスネークピットジャパン(宮戸優光主宰)にもシステマ教室があるので、みなみかわさんのように自分も輝きたい方は門を叩くべし。
 システマがフィーチャリングされた試合から、舞台は2.9次元ミュージカルによるスーパー・ササダンゴ・マシン物語へと移る。演劇らしく一人ずつのキャラクターがしっかりと描かれた上で、リング上で繰り広げられるのは現役プロレスラーたちによる技と肉体表現であり、どんな劇団でもマネできぬまっするならではの武器だ。
 都合よく歪曲されたササダンゴの過去も現実の世界のどこかとつながっており、あとづけならではの妙が見る者をグイグイと引き込んでいく。そうした中で、ササダンゴを演じた平田一喜へ少しずつ、少しずつオーデェンスの気持ちが吸い寄せられていく。
 パイプ椅子男子による将棋倒しイス攻撃(これはじっさいのプロレスの試合でも使ってほしい)で右ヒザを壊されたマッスル坂井は、引退し故郷・新潟へ帰るのだが、じっさいに平田は2012年に前十字ジン帯損傷及び半月板損傷のため1年2ヵ月もの長期欠場を余儀なくされ、人知れず涙を流している。ササダンゴの歴史をなぞりつつ、じつは同時進行でもう一つの物語の布石が打たれていった。
 あまりにらしい模写ぶりで喝采された渡瀬瑞基によるHARASHIMAオマージュのWATASHIMA。納谷の大社長っぷりもそうだったが、身内がやってこそモノマネは映える。だが、そんな楽しいムードを一変させたのが本物のHARASHIMAが登場した時だった。
 入場時、顔をあげた瞬間の形相は「どんだけアンダーテイカーだよ!」というほどのすさまじいもので、竹下幸之介を含めリング上にいた選手たちが蜘蛛の子を散らすかのように逃げたのも、必要以上に説得力があった。マッスル時代の鈴木みのるや大仁田厚的役どころを、当時は出役ではなく照明係として裏から支えていたHARASHIMAが担うのもたまらなかった。
 そして、ここからが平田一喜のリアルだった――。
 その中で、彼はデビューした日である3月14日に自主興行を開催する予定が、新型コロナウイルスの影響で中止となったことに対する思いをブチまけた。緊急事態宣言前後からプロレス界も軒並み大会が開催できなくなる中で、他者からすればそれらの一つにすぎぬ出来事である。
「最初のひらがなまっするで、普段あまり日の目を浴びない渡瀬がすげえもん見せて、すっごい悔しかった。俺だって、胸張ってこれをやったんだというのを作りたかった。その思いをぶつけるためにプロレスラー10周年記念でようやく何か残せるんじゃないかと思ってやるとなったら…中止になって。俺のプロレスラー生活、こんな感じなんだろうなって思って、そこからプロレスというものをどこか諦めていた自分がいました。
 でも、今回の主役という大役を任せてもらって、俺が主役なんて誰が見たいんだと逃げかった。セリフだってメチャメチャあるしダンスだっていろいろあるし、今だって足震えそうなのを必死に耐えて、涙をちょっと流してしまって…俺は、そんな弱い人間です。だけど、ここで胸張って大きな声で言えることが一つできました。このひらがなまっする、主役やりきったぞ!」
 マッスルの時代から、坂井はそうだった。その作品において最大の肝の部分、一番伝えたいことは台本上のセリフを書かず、本人に託す。
 言葉でも人間力でもなんでもいい。リアルを際立たせるためにリアリティーを描く中で、そこだけはリアルそのもので勝負する。これはとても尊いことだと思う。
 その一番重要なところを仲間たちに懸けるのがマッスル坂井であり、カタカナからひらがなへと受け継がれる“プロレス”なのだ。平田の長尺となった心のセリフが響き渡る中、みんな目ではなくマスクを押さえていた。流れ落ちた涙がそこに溜まるからだ。
 コロナと闘うために強いられているものが、どうしようもなく止まらない感情を包み込むために力を貸してくれるシチュエーションが訪れるなど、考えもしなかった。見ると…リング下に陣取るカメラマンの一人もマスクを拭っていた。
 リング上で何があってもレンズ越しにその一瞬を、冷静に収めるプロが感情の揺れの激しさにシャッターを押せなくなっている…平田の物語が、すさまじいまでの伝わり方をした事実がそこにあった。
 みんなが、平田に自分を投影していた。頑張っても輝けず、やったことが報われなくて泣いた経験は誰にもある。だから、その言葉が心に突き刺さる。
 5分ほどに及ぶパーソナルな声を数cm前で浴びたHARASHIMAも、途中でスーッと目を拭った。その上で、平田の思いを受け止めるべく闘った。
 それまでの試合を演劇という枠の中で眺めていた観客が、みな勝負論で二人のぶつかり合いを追っていた。繰り広げられるものは同じであってもその意味合いを読み、見方をキッチリと変えられる。本気の声なき声援と、心からの声なき応援、そしてリアルな平田への思い――。
 当初、描いていた形とはまったく違うものとなったが、この日のまっするは平田にとって一度は失われた10周年記念大会となったのではないか。そんな気がする。
「ずっと笑いで来ていたのが最後ああなるという予感していました。スローモーションではないHARASHIMAさんがバシバシいって、平田さんが自分を拓いていく。そういう感じになるのは真ん中ぐらいでわかるから、いざ見ちゃうとなんてことだ!と思って。外から見たまっするが、自分の中にこうして残るんだと思いましたね。残るモノを見ちゃったな、これはすごく影響されるなというね」
 マッスルの呼吸が今も体から薄れない一圭さんは、それまでの空気が一変するあの瞬間が来るのを予感していた。そしてわかっていながら、初めて客席から見たことで“残った”。
 マッスルもまっするも、公演後はツイートであふれる。ファンはもちろん、出演した選手や関係者も普段以上に何かを語りたくなり、そしてそれぞれが自分の言葉で思いを伝えようとする。
 一圭さんの言う“残るもの”をどうにかテキスト化し、誰かに伝えたい。それらがハッシュタグによって紡がれていく。従来ある観戦後の居酒屋トークともまた違った気持ちの持っていき方。
 回を重ねるごとにどれほど手札が増えたとしても、演者のクオリティーによって全体を俯瞰で見るポジションを得た坂井は、これからもこうして仲間たちに託すのだろう。それができることで、自身もクリエイターとして成長する。
「北沢タウンホールとかで自分たちがやっていた頃を思い出しました。この会場の雰囲気、この(ソーシャルによる)人数があの頃のようで、客席から初めて見て、こんな恥ずかしいものを俺がやっていたのかというね。甘酸っぱすぎて、照れくさくなったんですよ。(まっするの中に入りたいか?)思わない思わない。無理無理! 俺は芸能界で汚れちまったんで、自分の心を洗浄したいがために若手を汚染してしまうんで入ってはいけない。
 物語を生かして、マッスル坂井はドキュメンタリーを見せるじゃないですか。若い人たちのまっするを信頼しているし、マッスル(坂井)と若い人たちがもっと近づくことでもっと熱量が出ると思う。僕がマッスルから純烈にいったように、マッスルからまっするを自分で作っている。人を喜ばせたり感動させたりすることで、世の中の現状に対し言いたいことを伝えるのが好きなんだなと思いましたね」
 リーダーであり、かつ純烈を2年連続紅白歌合戦出場グループにまで成長させた酒井一圭が、映画『東映まんがまつり』を見終わったあとの少年のように語りたくなるひらがなまっする。プロレスを見にいくと言われて連れてこられた次男くんにはどう映ったか気になったが、ツイッターによると「面白かったと喜んでいた」らしい。
 一圭さんのことをOBと表したが、まっするとは別にまたマッスルがおこなわれる日がくるかもしれない。2030年10月6日の約束の日まで、あと10年ちょい。
 ペドロさんのご子息はすでにマッスル練習生だし、この日に見た情景が次男くんの10年後につながったら、それもリアルな物語となる。
 まっするがなぜ心に響くものとなるのか。それは、坂井がリアルに対し愚直なまでに真摯だからだ。
 リアリティーは、リアルをより際立たせる武器である一方、その取り扱いには注意を要す。使い方を誤ると、リアルそのものをスポイルしかねない。
 双方の使い分けができずに手を伸ばした結果、リアリティーの方が主となってしまったらもはや本末転倒。受け手の存在を頭に入れずにそれをやったことで悲劇を招いてしまうことを、世のクリエイターは常に言い聞かせなければなるまい。
 そこを外さぬかぎり、まっするはハッピーな物語を描き続けていける。11・9後楽園は、おそらくまったく違うリアルと出逢えるはずだ。

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