TVアニメ『かげきしょうじょ!!』が照らし出す「僕たち」の後ろめたさ:歌舞伎・アイドル文化の蠱毒を制するためのレッスン
はじめに
2021年9月に放送が終了したTVアニメ『かげきしょうじょ!!』は、宝塚音楽学校をモデルにした「紅華歌劇音楽学校」を舞台として、「東大に並ぶ」とも言われる難関の入学試験を突破した100期生(予科生)の少女たちが繰り広げる切磋琢磨、友情、衝突、苦悩などを多角的に描いた傑作である。本作では、身長178cmで15歳、歌舞伎俳優の血を引く規格外の天然少女・渡辺さらさ(CV: 千本木彩花)と、有名女優を母に持つ「笑わない」元国民的アイドル・奈良田愛(CV: 花守ゆみり)の二人が、ダブル主人公として紅華に波乱を巻き起こすことになる。
本作は斉木久美子の漫画を原作とした「宝塚もの」の一種であるが、アニメ化によって音楽と声が付加されたことで、ますます宝塚ファンを喜ばせるものとなっている。エンディングテーマを含む本作の音楽は宝塚に多数楽曲を提供する斉藤恒芳が担当しており、メインキャラクター以外のキャストには宝塚出身者が散見される。例えば、さらさの同期の一人・星野薫(CV: 大地葉)は三代続けて「紅華おとめ」の血筋という設定のキャラクターだが、彼女の祖母は前田真里、母は森なな子が演じており、ここにはサラブレッドの説得力をキャスト自身の経歴によって生み出そうとするファンサービスが見られる。そのほか、春組・夏組・秋組・冬組の男役トップスターには内海安希子、斎賀みつき、岸本望、七海ひろきが配されるなど、宝塚の文脈を理解する者にとっては、男役/娘役の反転も含めてニヤリと笑えるギミックが仕込まれている。
このように、本作がある種の「宝塚愛」に彩られた作品であることは疑いえないが、本稿では宝塚論を掘り下げることはしない。とりわけ男役/娘役の意義については、「宝塚のセクシュアリティとは、セックス/ジェンダーという性差の異なる水準のあいだでゆれる現象である」という端的な整理(川崎賢子『宝塚:消費社会のスペクタクル』講談社選書メチエ、1999年、192頁)に特段付け加えることはない。本稿はむしろ、紅華を侵食するダブル主人公の属性、すなわち歌舞伎とアイドル文化という要素に着目する。現代において、歌舞伎は女性を舞台から排除する藝能であり、アイドル文化は女性を性的に消費し搾取する藝能である。この両者から弾き出されたダブル主人公が未婚の女性だけで構成された歌劇団の養成課程に入ってくるという筋書きは実に考え抜かれている。本稿は、本作が「宝塚もの」に歌舞伎とアイドル文化という二つの要素を接合することで、劇場に通い詰める観客の後ろめたさ(やましさや良心の呵責と言ってもよい)を照らし出すことに成功していると評価するものである。演者の肉体の躍動や舞台から照射される色気にどうしても目を奪われ、魅了されてしまうことに対するアンビヴァレントな心情――それこそが本稿の主題である。
なお、本作ではさらさと愛以外のキャラクターについても挿話が用意され、少女たちがそれぞれ背負っているものが掘り下げられているが、それらをすべて取り上げると、とりとめがなくなってしまう。本稿ではさらさと愛のダブル主人公に焦点を合わせて論じることをご容赦いただきたい。
渡辺さらさの場合:歌舞伎と「作られた伝統」としての女性排除
まずは、本作の全編に散らばった渡辺さらさの物語を再構成することにより、「梨園」の問題点を整理することから始める。
渡辺さらさは「助六」に憧れる少女だった。浅草で畳屋を営む祖父母に育てられたさらさは、幼少期から歌舞伎ごっこをするのが大好きで、「助六になって、足をバンバンって鳴らせて、花道を歩きたいです」(第5話)と語るほどだった。しかし、彼女の無邪気な夢が叶うことはなかった。なぜなら、歌舞伎という伝統藝能は女性を舞台から排除しているのだから。彼女は「お前がいくら筋がよかろうと、才能があろうと、天変地異が起ころうと、お前は助六に絶対になれません」(第2話)という呪いの言葉に苛まれることになる。
さらさと歌舞伎の浅からぬ因縁は、歌舞伎の名門・白川家との関係抜きには語れない。さらさは幼少の砌、人間国宝の歌舞伎役者・十五代目白川歌鷗(CV: 麦人)の妹から日本舞踊の稽古をつけられており、そこで歌鷗の一人娘の婿である煌三郎(CV: 子安武人)や歌鷗のいとこの息子である暁也(CV: 高梨謙吾)と知り合いになっていた。実は、さらさは「煌三郎が外でつくった子供」と噂される女子で(アニメでは真偽は明かされない)、「あの子が男の子だったら、歌鷗の藝養子にして、十六代目継がせられたのにねえ」と舞台裏で囁かれるほど、芝居の筋がよかった(第7話)。歌鷗には男子が生まれなかったため、現状最も十六代目歌鷗に近いのは暁也と目されている。しかし、暁也よりもさらさのほうがはるかに筋がよいことは一目瞭然であり、この残酷な事実が白川家を悩ませているのであった。暁也自身もさらさの筋のよさを認めてはいるが、「きっと俺とは生まれたときからの持ち物が違うんだ」という屈折した感情を抱いていた。ある日、暁也は「おかみさん」(男子に恵まれなかった歌鷗の妻)の面前で、さらさの筋のよさに感心してみせた。それは子供ながらに確信犯的な嫌味であったが、当然のこととして「おかみさん」の不興を招いた。そして、「おかみさん」の怒りはさらさに向けられたのである――「お前は助六に絶対になれません」と。その日以来、さらさが日本舞踊の稽古に足を運ぶことはなかった。
こうした一連の過程は、「女性は歌舞伎役者として舞台に立つことができない」ということを与件とすれば、才能をめぐるままならなさを描いた陳腐なものにすぎないだろう。しかし、実際には、作家・比較文学者の小谷野敦が『歌舞伎に女優がいた時代』(中公新書ラクレ、2020年)のなかで指摘するように、「確かなのは『歌舞伎に女優を』というより、『歌舞伎に女優はいた』ということで、『女形が歌舞伎の伝統』とか『女優を使わないのが歌舞伎の伝統』というわけではない」(小谷野『歌舞伎に女優がいた時代』、209頁)。小谷野は著書のなかで、徳川時代における「お狂言師」と呼ばれた女性の藝人一座、明治時代に九代目市川團十郎の弟子扱いとなり「女團洲」や「女團十郎」と呼ばれた市川九女八(初代、1846-1913)、明治44(1911)年に開場した帝国劇場で上演された帝劇歌舞伎の女優たちなど、さまざまな女役者/女優の実例を紹介している。小谷野は「帝劇男女歌舞伎がなくなったのを昭和五年として、中村歌扇が最後の舞台に立ったのが十四年である。このあたりを最後に、歌舞伎女優というものはなくなったとみていいだろう」と述べているが(同書205-206頁)、これはつまり、女性を舞台から排除する歌舞伎の「伝統」とやらが、百年未満の浅い歴史しか持たない「作られた伝統」であることを意味している。
さらに、さらさが憧れていたのが「助六」であるという点に着目すると、現実と虚構との相互陥入によって、歌舞伎に対するさらなる悪意が立ち上がってくる。「助六」は市川團十郎家の歌舞伎十八番の一つであるため、劇中で花川戸助六を演じている歌鷗は明らかに團十郎をモデルにしたキャラクターということになる。ここで現実の團十郎に目を転じると、九代目團十郎(1838-1903)は男子に恵まれなかったため、自分の娘を歌舞伎の舞台に立たせ、十代目を継がせようとすら考えていたという事実が浮かび上がる。この点について、小谷野は次のように事実関係を整理している。
こうした事実を踏まえると、ただ単に女性だからという理由でさらさを排除する「梨園」のくだらなさが際立つ。資質の観点からしても、次代の團十郎が灰皿テキーラ、血液クレンジング、新作歌舞伎における中国人差別表現といったスキャンダルの祝福を受け続けているという現実によって、宗家の男子を優遇するシステムの堅牢さは動揺させられている。本作は結果として、柔軟性を失って硬直化することが歌舞伎の「伝統」なのかという問いを突きつけている。本作の第7話における「歌舞伎は確かに型を伝承するのが基本だけど、それだけじゃない」、「伝統を守りながら新しいチャレンジも忘れずに、いつの時代もお客様を喜ばせること」が役者に求められる覚悟なのだ、という暁也の言葉は現実の前に虚しく響くばかりだ。小谷野は「今では門閥歌舞伎俳優の『梨園』がまるで皇族に次ぐ上流階級のように思われている」と述べているが(同書108頁)、いまこそ、このような特権的意識は壮大な勘違いなのではないかと問うべきだろう。
歌舞伎の舞台から排除されたさらさは、今度こそ舞台に立つことを夢見て、亡くなった祖母が好きだった紅華への合格を果たす。さらさは神戸、暁也は東京――幼馴染の二人は離ればなれになることを避けられない。さらさの紅華合格を知った煌三郎は、暁也にさらさへの告白を打診する。しかし、暁也はさらさとのデート中になかなか自分から切り出せず、結局、煌三郎と暁也の会話を盗み聞きしていたさらさが、暁也に逆告白をすることになる(第12話)。
このように、資質の観点でもジェンダーの観点でも、暁也はとことんお株を奪われる。暁也の身長を追い越すほど、身も心も大きく成長したさらさは「せっかく女の子に生まれたのだから、さらさは精一杯頑張ろうと思いますよ」と語る(第1話)。「女の子」であることを強調するさらさの言葉にはそこはかとない悲しみがにじんでいる。しかし、そこには同時に「常識」や「伝統」を攪乱する力も潜んでいるのである。
奈良田愛の場合:アイドル文化と「帝国的性暴力」の上演
続けて、第3話から第4話にかけて展開された奈良田愛の物語を通じて、アイドル文化の孕む問題点を整理していく。
奈良田愛は映画女優の奈良田君子(CV: 三石琴乃)の娘として生を受け、父親が誰か知らずに育った。「『きれいだね』、『かわいいね』は私にとって『こんにちは』と同義語だった」と愛は独白する。ちやほやされることが日常茶飯事だった愛は、昔から「笑わない」少女だったわけではない。彼女から笑顔を奪ったのは性的虐待の体験である。愛は小学生のころ、母親の愛人であり家に寄生する正二(CV: 上田燿司)から、母親の留守中を狙ってディープキスされるという性的虐待に遭い、男性恐怖症になってしまう。深く傷つけられた愛に逃げ場を提供したのは、バレエダンサーを務める叔父(君子の弟)の太一(CV: 野島健児)だった。劇中で君子が「八王子のおじさんがね、お前ら姉弟そろって男の尻ばかり追いかけやがってって言ってたわよ」と言及するように、太一はゲイであることが示唆されている。そのことも相まって、太一は愛が心を許せるただ一人の男性というポジションに収まる。
中学に入学するころ、愛はあだ名が「能面」になり、友達もいなくなっていた。そんな折、愛は持ち前の美貌から、AKB48をモデルにした「JPX48」なるアイドルグループにスカウトされる。兜町で新規上場を祝う鐘でも鳴らしそうな名称はともかく、愛はアイドルの世界を女性だけの世界と誤解し、太一の家がある秋葉原を拠点としたアイドルグループへの加入を二つ返事で承諾してしまう。しかし、加入から数年後、愛はファンの「キモオタさん」に握手会で「放して、気持ち悪い」と毒づくという騒動を引き起こし、JPX48を「強制卒業」させられることになる。愛はこう振り返る――「バカな私は、女性アイドルが主に誰を対象にしているのかを考えもせず、その数年後に、究極の塩対応をしてしまうのである」。
文藝・演劇評論家の川崎賢子は『宝塚:消費社会のスペクタクル』(講談社選書メチエ、1999年)のなかで、博覧会や百貨店のショーウィンドーが「快楽の新たな次元」、すなわち「購入し所有する満足」とは別に「見つめるだけで充足し完結する」快楽を生み出したことを指摘しているが、この「快楽の新たな次元」が女性を対象としたとき、「身は売らなくとも性は売られる」時代が到来することになる。
アイドルもまた、「身は売らなくとも性は売られる」時代の産物、すなわち「従来の商品としての女である遊女たちのカテゴリーと重複することのないカテゴリー」(同書25頁)であることは言うまでもない。加えて、近代日本文学研究者の内藤千珠子が『「アイドルの国」の性暴力』(新曜社、2021年)のなかで指摘するように、現代のアイドル文化は「『敵』が設定された、競争と闘争の物語」という形式を備えている(内藤『「アイドルの国」の性暴力』、26頁)。内藤はアイドル文化と戦争のイメージの重なり合いについて、次のように述べている。
内藤はこの「戦争」の物語に「代理」という運動が溶かし込まれていると指摘する。アイドルとそれを応援するファンは、「アイドル戦国時代」の戦場を共に駆ける仲間・同志としての共同性を有するとされているが、実際に矢面に立って傷を負うのはアイドルだけであり、その傷が性的消費の対象となっているという非対称性は巧みに隠蔽されている。
内藤はこうした非対称な関係を現代化された「帝国的性暴力」の発露と見ている。
「帝国的性暴力」とは、「軍事主義と植民地主義を両輪とした戦争の枠組みのなかで、女性ジェンダー化された身体がつねに暴力の宛先として必要とされる政治的、社会的な構造、戦争が女性身体に依存して成り立った文化的なしくみ」と定義されているが(同書41頁)、この記述だけだとわかりにくいので、もう少し内藤の議論を追いかけてみよう。内藤は「帝国的性暴力」という概念を析出するにあたって、(植民地)公娼制度をめぐる言説に着目している。そもそもの問題として、女性の売買が公的制度として露出していることは「日本は姦淫国なり」といった反応を受ける「国辱」の源泉であり、当該制度を利用して女性を買う男性も「恥辱」をさらしていると言いうるのだが、こうした恥はすべて娼婦という賤業に従事する女性たちに担わされ、不可視のものとされてきた。
現代においても、女性を性的に消費し搾取するアイドル文化が堂々と公衆の面前にさらされていること自体が「国辱」であるし、アイドル文化に熱狂する男性たちも「恥辱」をさらしていると言いうるわけだが、そのことが正面から認められることはなく、アイドル自身の能動的な行為遂行性(後述)も相まって、「恥辱」はアイドルのもとで前景化している。なお、アイドルから「恥辱」を一時的にすすぐ記号として、「JKリフレ嬢」、「レンタル彼女」、「パパ活女子」といったものも想定されるが、この点については本稿の範囲をこえる。
本作において、愛がアイドルの世界を男性の性欲から隔離された世界と誤解してしまったのも、愛自身の愚かさというよりは、「帝国的性暴力」の構造に起因していたと言うべきだろう。彼女がJPX48を追われたのも、「放して、気持ち悪い」という一言によって公然の秘密たる男性ファンの性欲を暴いてしまったからなのだ。また、第6話では、愛がまともに上演台本の漢字を読めないことが明らかにされる。「私、高校行ってないの。小中もあまり言ってなくて……私、漢字、読めないの。JPX時代はマネージャーが読み仮名振ってくれてたから、それが当たり前で」と愛が告白するシーンは、「バカな女」を消費し搾取するアイドル文化の醜悪な構造をえぐり出している。男性の性欲という伏字的死角を脅かさないよう、アイドルは未熟なままでいることを強いられる。何となれば、多くの男性ファンは「わきまえない女」を嫌うのだから。
「帝国的性暴力」の構造は、愛の物語の裏面として展開する「キモオタさん」こと北大路幹也(CV: 水島大宙)の物語においても維持されている。北大路はもともと登校拒否を繰り返す引きこもりであったが、たまたま目にした音楽番組で愛のことを知り、彼女を「推す」ことを通じて社会復帰を遂げたと自認する男性ファンだ。彼はステージ上で頑なに「笑わない」愛のパフォーマンスと、ゆるキャラとの共演で愛が見せた微笑みに強く惹かれ、愛を応援することを決める。彼は愛の孤高の姿から「他人の目など気にしすぎるな、自分は自分であれ」というメッセージを受け取って、自分の殻を打ち破り、ファン仲間との交流やアルバイトを始めるにいたる。そして、愛に感謝を伝えたい一心で握手会のレーンに並んだ彼は、愛に万感の思いを伝えようとしたが、彼女から面と向かって「放して、気持ち悪い」と言い放たれ、奈落の底に突き落とされてしまう。その後、愛は彼に暴言を吐いたかどで、JPX48を「強制卒業」させられたのだった。
北大路は、自分のせいで愛が「強制卒業」の憂き目に遭ったと自責の念に駆られていた。そんな折、彼は愛の紅華入学を報道で知り、一言謝ろうと紅華の近くまで愛を訪ねてきてしまい、トラブルに発展する。このストーカー同然の行為も、ファンとアイドルが「一緒に戦う」という自意識過剰な共同性のなせるわざであろう。それはつまり、アイドルを性的に消費していることが公然の秘密とされ、「帝国的性暴力」の構造から目が逸らされているということだ。北大路は神戸来訪の動機を「自己満足でしかないかもしれないけど、せめて一言謝りたくて」と語る。彼はまったくもってやましい気持ちのない、不器用なだけの「いい人」として描かれているが、これは表面的には(視聴者を含む)純情派の「キモオタさん」を慰撫するように見えて、実は「帝国的性暴力」の構造的な隠蔽作用をよく示すものである。「キモオタさん」はいくら人畜無害を自称しても、アイドルを性的に消費し搾取する大きな構造のなかに取り込まれ、それを強化する因子であることから逃れられないと言わねばなるまい。
「かわいい」と言われることに慣れっこだった愛は、物理的な性的虐待の末に断髪し、公然の秘密として隠蔽された性的消費を経て、女性だけの紅華に辿り着いた。愛は娘役を志す過程で少しずつ髪を伸ばしていくが、これは徹底的に使い尽くされた彼女が解放されていくプロセスを可視化するものでもあるだろう。しかし、紅華に入学したとしても、絶えず進行する競争、厳しい上下関係、そして身体の「経済化」から完全に解放されることは難しい。次節では、ここまでの議論を踏まえて、究極的にはセンセーショナリズムから解放されえないショービジネスのいかがわしさと、それに惹きつけられる観客のアンビヴァレントな心情について論じることにする。
歌舞伎とアイドル文化の蠱毒:いかがわしさの引力と観客のアンビヴァレンス
女性を舞台から排除する歌舞伎と、女性を性的に消費し搾取するアイドル文化。本作では、この両者からの解放地点として紅華が位置づけられている。しかし、紅華もショービジネスの一翼を担う歌劇団である以上、歌舞伎やアイドル文化の単純な否定ではいられない。
本作において歌舞伎を体現するさらさは、178cmという恵まれた体軀と鍛え上げられた体幹、そして人間国宝の個人指導の賜物とも言うべき「見得」を突破口として、オーディションを勝ち抜く。歌舞伎の差別的構造と特権性・貴種性は表裏一体となっていて、紅華の外側では前者が批判的に強調され、紅華の内側では後者が「舞台映え」として高く評価されるというように、都合よく使い分けられる。
本作においてアイドル文化を体現する愛も同様に、「舞台映え」や「舞台慣れ」の観点から肯定・否定双方の評価を受ける。現代においては、紅華ファンはもちろんのこと、「紅華おとめ」ですらアイドル文化の氾濫からは逃れられず、アイドル文化に抜き難く侵されている。99期生(本科生)の副委員長・野島聖(CV: 花澤香菜)はJPX48の大ファンであり、100期生(予科生)として入学した愛の指導担当を引き受ける。聖は愛に対して「いまはまだ有象無象の100期生のなかでお客様が見たいのは、元JPXの奈良田愛ただ一人よ」と言い放つ(第11話)。この辛辣な言葉は悲しいかな的を射ており、紅華およびJPX48の内情を知るよしもない観客は、十年に一度開催されるファン感謝祭の「紅華歌劇団大運動会」でスタッフを務める愛に目を奪われてしまう(第10話)。これは「身は売らなくとも性は売られる」ことの再演であり、どうしようもない差別的構造のなかで視線を一身に集め、観客の傷を代理する元アイドルの引力を活用するショービジネスの悲しい性が露呈している。
そして、アイドル文化において顕著に表れる「戦争」のイメージは、紅華にもつきまとう。第2話において、聖は愛に対して「役を争う戦争は、歌劇団に入ってからじゃない。ここに入学したときからもう始まっているの」と語る。この絶えず進行する競争は容赦なく「紅華おとめ」に襲いかかり、身体の「経済化」を強烈に意識させる。身体の「経済化」については、少し長くなるが、内藤の著書を再び引用しておく。
現代的な「帝国的性暴力」の構造が温存される背景には、身体の「経済化」、換言すれば人間の「人的資源」化が控えている。価値がないとみなされればお払い箱になってしまうという恐怖から目を逸らすためには、もっと露骨に比較・品評される女性ジェンダー化された社会的位置を用意し、そこへ後ろ暗いまなざしを向ければよい。こうした構造の犠牲者として描かれるのが、さらさや愛の同期の一人・山田彩子(CV: 佐々木李子)である。第3話において、彩子はタップダンスの先生(CV: 伊藤静)から太っていると指摘され、食事を吐き戻す摂食障害になってしまう。
ここでいう「女の審美眼」も後ろ暗いまなざしの一種ではあるのだが、やはり紅華であってもショービジネスの自家中毒的な論理に抗うのは難しい。そのことを象徴するように、彩子の才能を信じる声楽の先生(CV: 飛田展男)ですら、身も心もボロボロになり、退学すら脳裏をよぎる彩子を激励するために援用するのは「戦争」のイメージなのだ(第5話)。
彩子は紅華受験という「戦争」に敗れた者たちを引き合いに出されたことで、いともたやすく先生の説得に応じてしまう。彩子は無事に摂食障害から回復し、「やめてしまったら、そこで終わりってことだよね」と暫定的な結論を出すことになるが、この一連の流れにおいて、恐ろしいほど強力ないかがわしさの引力がはたらいていることは疑いえないだろう。綺麗事としては、過剰とも言える競争のなかで戦うことを少女たちに強制し、公的な場所で傷を負わせるシステムを真正面から肯定するのは難しい。しかし、その受傷の場では、躍動する肉体、放たれる色気、弾ける笑顔といった輝きを見出すことができるのも事実なのだ。これは内藤の指摘する「能動的な行為遂行性」のなせるわざであり、それゆえに観客は居心地の悪さから解放されて、免責されたような心地で舞台に見入ることができる。
ところが、本作は歌舞伎とアイドル文化の有する差別的構造を提示し、比較的見やすい「宝塚もの」に接合することによって、視聴者にアンビヴァレントな心情を湧き上がらせる。視聴者は歌舞伎もアイドル文化も、おおっぴらに楽しむことが本来的には「恥辱」となりうる藝能であることを自覚させられ、後ろめたい気持ちとなる。歌舞伎やアイドル文化の甘美な魅力は気づかないように盛られた毒、すなわち蠱毒と言うべきだろう。蠱毒に完全に身を委ねれば間違いなく人生の破滅を招く。しかし、蠱毒が一切なければ魅惑的なショービジネスたりえない。蠱毒を恐れて劇場に足を運ぶこと自体を拒否するのもいかにもつまらない。蠱毒を制するのは容易ならざる所業だが、蠱毒を生み出す構造を凝視することによって対象との一定の距離感を保ち、破滅を先送りにすることくらいはできるのではないだろうか。そう考えてみると、本作は「宝塚愛」以上に、歌舞伎やアイドル文化への愛憎伯仲する思いに満ちた作品だと言えるのかもしれない。
おわりに
川崎賢子は、宝塚の蠱毒とでも言うべき「あやしく、まがまがしく、みだらでもありうる」魅力について、次のように述べている。
冒頭に記載したとおり、本稿は宝塚論を掘り下げるものではないが、川崎のように「誘惑される」ことに自覚的であれば、蠱毒ともうまく付き合っていけるのではないかと思い、ここで引用した次第である。
本稿は歌舞伎とアイドル文化という要素に着目して議論を進めたため、本作が「宝塚の香気」をどこまでトレースしているかといった論点は残されている。さらさと愛以外のキャラクターについての各論も未着手のままだ。ぜひ、宝塚ファンにも本作を論評いただき、本作にかかる批評コミュニティを育ててほしい(というか、宝塚についてご教示を賜りたい)と切に願う。
参考文献
川崎賢子『宝塚:消費社会のスペクタクル』講談社選書メチエ、1999年。
小谷野敦『歌舞伎に女優がいた時代』中公新書ラクレ、2020年。
内藤千珠子『「アイドルの国」の性暴力』新曜社、2021年。