何もしないことの正義──岡田索雲「アンチマン」感想
補足:同作者の短編集『ようきなやつら』についての感想も書きました。
2023年6月2日に公開された岡田索雲の漫画「アンチマン」が話題を呼んでいる。非常に良い作品で、読んでいろいろ思ったことがあったので、書く。以下ネタバレなので、未読なら先に作品(短編なのですぐ読める)を読んでほしい。
◆紹介文によるミスリード
漫画が公開された「Webアクション」には、おそらく担当編集によって書かれたであろう、以下のような紹介文が掲載されている。
本編を読んだなら、これが巧妙なミスリードであることがわかるはずだ。この紹介文を読み、冒頭をボーっと読んでいると、溝口は「日常の鬱憤を〝女性への(広義の)暴力〟で発散している」男という風に読めなくもない。また、たとえ紹介文を読んでいなくとも、この漫画の前半部分には、ネット上に跋扈する〝アンチフェミ〟や〝ぶつかり男〟や〝性犯罪者〟のおぞましい実態を描く作品……であるかのように見える仕掛けが施されている。
もちろん、この漫画の「本当の主題」は別のところにある。そのことは冒頭からある程度描写されているが、わかりやすく示されるのは、溝口が同僚の女性・田山をレイプした辺りからだ。田山を社内で唐突にレイプした描写があるにも関わらず、溝口は会社をクビにもならないし、田山は入院した溝口のところへお見舞いに来て、何事もなかったかのような振る舞いを見せている。
実際、何事もなかった可能性が高い。田山をレイプしたシーンは岡田の空想と解釈するのが妥当だ。そしてこの描写から、介護士の女性をレイプしたシーンもまた空想であったことが示唆される。介護士が交代したシーンを、「それが実際にあったのだ」と読者にミスリードさせるためのものである、とみなして読むとどうなるか。
「描写が非現実なのでこれは空想である」という見方を全編に適用すると、この漫画の内容は一変する。女性へのぶつかり行為や、スマホでのレスバトルもまた、空想であると読むことができる。頻繁にスマホが割れるようなぶつかり行為をして、相手の女性や警察とのトラブルが起きないのは不自然だし、レスバトルは割れたスマホとの非現実的な対話として描写されている。さらに言えば、電車内で痴漢と間違われないように手を上に持ってきているこの男──溝口が、露骨なぶつかり行為や誹謗中傷をしているというのは信じがたい。
そう、一見「日常の鬱憤を〝女性への(広義の)暴力〟で発散している男」のおぞましさを描いているように見えたこの漫画は、実は「日常の鬱憤を〝女性への(広義の)暴力〟を空想することで発散させ、実際には何もしていない男」の物語だったのである。
◆正義の完全喪失
しかし、たとえこの解釈をとっても、一箇所だけ、間違いなく現実に行われたと言える女性への暴力シーンがある。漫画のクライマックス、「結果的に」女性を守ることにつながった抱きつき行為だ。
ネットには、このシーンを「溝口の善良な心の発露」として捉えて読んでいる人もいた。しかし、それは誤読だ。なぜ、誤読と断言できるのか。それまで「何もしていなかった」溝口が、なぜ、このシーンでだけは暴力行為を働いたのか。答えはどちらも漫画の中で描かれている。
第一のポイントは「女の尻への注目」だ。電車でのシーンも含めて何度も繰り返されるこの描写は、1ページ目の、溝口が母親に捨てられるシーンに重ね合わせられている。この描写によって、溝口にとって「女の尻」は、自分を相手にしてくれない女性全般への苛立ちを代表するものになっている。その尻に注目したコマが事前に差し込まれている以上、この抱きつきは女性への苛立ちを解消する行為、暴力行為であるとみなすのが妥当だろう。
第二のポイントは「行為の直前、同僚の不倫が発覚したこと」だ。溝口は、田山を擁護した同僚の行為を「狙ってんの?」と邪推していた。しかし、それは正義ぶっている人間が嫌いなだけで、本当にそう確信しているわけではないだろう。レスバトルが非現実のもの、つまり溝口の内心の葛藤であるとすれば、溝口の自己否定精神は相当なものがある。邪推はしょせん邪推であり、溝口は田山さんに感謝されて嬉しかったし、同僚の行為は正義であると思っていたはすだ。だが、その正義への信頼は裏切られてしまった。抱きつき行為は、溝口が正義への信頼を完全に失ってしまった結果ではないだろうか。
◆溝口はなぜフェミニズムを嫌うのか
では、溝口にとって正義とは何だったのか。架空のヒーロー「ジャスティスブレード」の扱いに注目してみよう。タイトルの背景に置かれているジャスティスブレードは、おそらく溝口にとっての善良さ、正義の心の象徴だ。ジャスティスブレードを見た一瞬だけ、溝口の眼には光が宿る。しかし、その正義の象徴は、新シリーズでは女性が演じることになったという。
ここには、溝口がフェミニズムを嫌う本質的な理由がメタファーとして隠されている。フェミニズムはそれ自体、女性の権利を守ろうとする正義の運動・思想である。だが、そこに溝口が救われる回路は存在しない。「女性の権利が抑圧される理不尽さに声を上げる」という行為そのものが彼の生き方に背くからである。
溝口は、母に捨てられ、父の介護を強いられ(溝口の父のあの姿を見て結婚してくれる女性はまず居ないだろう)、これから子どもも交際相手も友人もできそうにない孤独な中年男性であり、いわば「無敵の人」になりうる立場だ。そんな状況でも、彼はミソジニーを空想にとどめて、ただ耐えて働いている。レスバトルが架空のものであるなら、それは溝口による自己批評であることになる。過酷な環境で生きているにも関わらず、文句を言わず、「何もしない」こと。自分のミソジニーを自己否定し続けること。それが溝口が辛うじて維持している倫理であり、正義であり、生き方だったのだ。
溝口は、社会が女性にとって理不尽なものであると知っている。だから咄嗟に「繊細さは女性ならではのもんではないでしょう」という言葉が出てくる。しかし、同じく理不尽な目に遭っている自分を置き去りにして他人の理不尽に声を上げることは、その生き方と真っ向から対立する行為であり、それを正義とすることは、「何もしていない」溝口から正義を剥奪することに等しい。溝口がフェミニズムを嫌いなのは、それを認めると自分の人生から正義が奪われてしまうからであり、ジャスティスブレードの主役交代はそのことを象徴している。
◆ 「何もしない正義」は評価されない
この漫画の終盤の展開は、そのような溝口の正義を、完膚なきまでに粉砕する。父が死に、同僚と田山の不倫を目撃したことで、溝口は「何もしない」正義の心すら保てなくなり、抱きつき行為におよんだ。ところが、それは結果的に女性を暴力から守るフェミニスト的な行為と見なされてしまい、溝口はヒーローになる。誰も彼もが溝口を褒める。かつて自分を捨てた母すら見舞いに来る。「何もしない正義」を貫いていた時は、誰ひとり溝口のことを褒めてくれなかったのに……。
この物語を、「報われない男が善良な心を発揮して、最後に少しだけ報われた話」として読んでいる人もいる。その時、彼が最後に流す涙は喜びによるものとして見なされているのだろう。だがそれは、安全な位置から彼を眺めている見舞い客の視点だ。溝口のそれまでの人生は、彼の病室に母親が来た瞬間、決定的に無価値で、不正義で、意味のないものになった。だからこそ、この物語は「哀歌」として紹介されるのである。