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【汚名挽回は正しい説再考】

                          2021年10月31日

さて、昨今界隈を賑わしている「汚名挽回」の誤用問題について1つ問題を提起したい。ご存じの様に「汚名挽回は誤用」という通説に対して、一部識者が「汚名挽回は誤用でない」と言い出したことに対する問題提起である。但し、本稿が「汚名挽回は誤用である」と言いたいわけではなく(個人的には違和感の伴う言い回しだと思っているが)、誤用/非誤用の判断に関して非誤用派が主張する説の論理的整合性及び科学的妥当性についての問題提起である。なお、筆者は国語学、日本語学、言語学等を専門とする研究者ではなく、あくまでも一辞書好きに過ぎないことを付記しておく。

今回、文藝春秋2021年11月号に、飯間浩明氏の「日本語探偵 汚名挽回の理屈 学問的にほぼ解明済み」というコラムが掲載された。飯間氏は、以前から様々な機会を捉えて「汚名挽回」を誤用ではないと主張しており、世間でも非誤用派の急先鋒と認識されているだろう。筆者が飯間説と最初に出会ったのは2014年『三省堂国語辞典のひみつ』においてであり、その時感じた違和感は今も忘れられない。それ以降、独自の考察を経て「汚名挽回」が違和感を伴う原因について、個人的には一定の結論を下すに至っているが、ある言葉の用法が誤用か誤用でないかについては、はっきりと結論付けられないことも多いので、飯間説もグレーゾーンの説として受け止めていた。しかし今回、「学問的にほぼ解明済み」という扇動的なタイトルに正直仰け反った。気を取り直してコラムを拝読し、その中で「学問的にほぼ解明済み」の根拠として挙げられている文献が未読の資料であったので、急遽取り寄せて目を通してみた。

結論から言うと、これをもって学問的に解明されたとは到底考えられず、受け入れ難い内容であったので、これについて少し考えてみたい。

文藝春秋コラムにおける非誤用派の論拠

飯間氏の主張は、Twitterや当該コラムで直接確認できるので各自で確認していただきたいが、今回のコラムでの主張を要約すると、

① 最初に「汚名挽回」が誤用でないと指摘したのは、高島俊男氏の『お言葉ですが…⑤』である
② 佐々木文彦氏の論文『言葉の誤用再考-汚名挽回を例に-』で、誤用でないと指摘されている
③ 新野直哉氏の解説記事『ことばの迷信-“汚名挽回”・“野球”・“ムショ”-』で、迷信であると指摘されている
④ 「挽回」は、マイナス方向の語に付く例が多くある(むしろプラス方向の語に付く例は「名誉」くらいしかない)。「挽回」には「元の良き状態に戻す」という意味があるので、「汚名挽回」は「汚名を着た状態から、元の汚名を着ていない状態に戻す」と解釈でき、誤用ではない

ここで、①については、高島氏は高山盛次氏の説を紹介しているだけで、その説に同意しているものの自説として主張しているわけではないことに注意すべきである。したがって、本稿では①を高山説と呼ぶことにする。

さて高山説①と飯間説④は、いずれもほぼ同じ内容である(というよりも、飯間氏は高山説を全面的に受け入れており、今まで独自の分析による自説はほとんど述べていない)。つまり、挽回という言葉には「元に戻す」という意味があるが、これは「勢力を挽回する」の様に、単に「取り戻す」という意味の他に、「劣勢・頽勢(退勢)を挽回する」の様に「望ましくない状態になったものを元の良き状態に戻す」という意味があるとするものである。それ故、「挽回する」は「マイナスの意味を持つ語」を目的語として取ることが可能である(寧ろマイナスの語と結びつく方が多い)と結論する。

この点に関しては佐々木説(②)及び新野説(③)においても指摘され、非誤用派の主要な論拠となっていると考えていいだろう。

確かに、「挽回」がマイナスの語を目的語とする用例は豊富に存在する。しかし、だからこそ、マイナスの語を取ることが一般的であるはずの「挽回」が、何故「汚名」と結び付いた時だけ誤用と言われてしまうのか。現在の誤用/非誤用の議論は、この疑問について一切答えられていない。今回のコラムで挙げられた説に共通する致命的な欠点は「挽回」の分析だけに固執し、「汚名」の分析が不完全であることだ。「劣勢=汚名=マイナスの語」という前提で論が展開されているが、果たしてそうなのだろうか。

各説における「汚名」の捉え方

飯間氏は、「汚名を着た状態を元通りにすること」(@IIMA_Hiroaki 2014/5/2 13:11)或いは「「挽回」は「遅れを挽回する」(新明解)、「失点を挽回する」(明鏡)など、望ましくない状態を元に戻す場合に使われる」(@IIMA_Hiroaki 2021/9/3 13:00)と主張し、「汚名」は「マイナスの状態」であるとする。

これは、高山説における「挽回には望ましくない状態になったものを元の良き状態に戻すという意が含まれている」という主張の流れを汲んだ発言であると考えられる。この高山説は、新野説の中でも最も早い非誤用説として取り上げられており、飯間説及び新野説における理論的出発点としての役割を担っている。従って、新野説においても「汚名」は「マイナスの状態」であると捉えられている。

一方、佐々木説は、ここで触れる中では唯一の学術論文であり、また高山説を理論的出発点としておらず、独自に用例を分析して結論を導いているという点で、最も重要性が高い。佐々木氏は、この論文の中で「汚名を晴らす」という言い回しに注目して、「晴らす」ことのできるもの(即ち「晴らす」が取る目的語)を分析し、5つのカテゴリに分類している。それによると「汚名」は「他人に疑われている状態」と「他人に疑われて罪を着せられている状態」という2つのカテゴリに該当する語であるとしている。即ち、この佐々木説においても「汚名」は「マイナスの状態」であると認識されている点に注意してほしい。

ここまでで明らかな様に、飯間説で援用される説はいずれも「汚名」を「マイナスの状態」と捉えることによって、「挽回する」即ち「望ましくない状態を元の良い状態に戻す」ことが可能であると主張する。そして、この満場一致の結果をもって「学問的にほぼ解明済み」と結論するのである。

「汚名を挽回する」に付き纏う違和感

さて、当該コラムでは、これをもって学問的に決着したと主張しているわけだが、本当にそうなのだろうか。一見、説得力があって誰もが信じてしまいそうになるが、少し立ち止まって考えてみてほしい。2021年10月現在、主要な国語辞典で「汚名挽回」を「誤用でない」と明記しているのは、飯間氏が関係する三省堂国語辞典だけである。それどころか、小学館現代国語例解辞典や学研現代新国語辞典に至っては「誤用である」と明記している。また、デジタル大辞泉の様に誤用説と非誤用説を併記する立場もある。どう記述するか迷いが見られるのは明鏡国語辞典で、辞書内では誤用説と非誤用説を併記しているが、同辞書の編纂者が執筆する『問題な日本語』及び『続弾!問題な日本語』では誤用ではないと明記している。

ここで問題にしたいのは、当該コラムで援用される論文や書籍の記述はいずれも古く、①2001年、②2004年、最も新しい新野氏の解説記事③でも2013年である。これをもって「学問的にほぼ解明済み」というのであれば、少なくとも2013年以降の辞書には「誤用ではない」と書いていないとおかしいことになる。学問的に決着したはずの事柄を、大学の研究者が知らないはずはないし、知っているなら今更別の説を載せるはずがない。悪意を持って考えるなら、現在「汚名挽回」を誤用と言っている研究者は、この様な学問的常識を知らない不心得者であると言っているに等しい。勿論、「ほぼ」と書いているのだから、まだ完全には解明されていないという言い訳も可能だろうが、当該コラムやこれまでの一連のツイートを見ればそういうニュアンスで語られていないことは明らかだ。

では何故、この様な不整合が起きているのか少し考えてみたい。実は、飯間氏が「学問的にほぼ解明済み」という根拠にしている各説(①~③)には総て、氏が触れることなく無視している重要な記述がある。

高山説①は、高島俊男氏が著書の中で紹介したことで一般の目に触れる様になった訳であるが、この説を紹介した高島俊男氏は、「挽回する」の目的語には、「社運」や「劣勢」の様に「運」や「勢」が付く語が多いと書いた上で、最後にこう付け加えている。

われわれが汚名を挽回するという言いかたに抵抗を感じるのは、「名」というものが、「運」および「勢」のごとく流動することをその本質とするものではないからだろう

つまり、高島俊男氏は高山説の論理に負けてその通りだと認める一方で、「汚名挽回」には何か引っかかる違和感があると述べているのである。この言語感覚は非常に重要である。私も含めて「汚名挽回」を素直に受け入れられない人には、こうした違和感があって「どことなく座りが悪い感じがする」のではないかと思うからである。

順序が前後するが、先に新野説③を見てみよう。ここでも高島俊男氏の『お言葉ですが…⑤』を始め、『問題な日本語』等「誤用でない」とする幾つかの文献を挙げて検討した後、次の様に結論している。

筆者は、多くの実例(中略)の調査・分析をふまえている「非誤用派」の主張には、説得力があると感じている。

しかし、それに続く文章で次の様にも書いているのである。

その一方で、「衰運を挽回する」や「劣勢を挽回する」と「汚名を挽回する」とをまったく同じように扱うことには、いささか引っかかりをも感じる。

そして、先ほど引用した高島氏の「名・運・勢」に関する指摘について言及し、「当を得ている」と同意する。つまり、新野説においても、誤用とは言えないが違和感が残ると述べられているのである。

「汚名」を分析する

ここで、過去の文献調査ではなく独自に分析を行った佐々木説②について再検討してみたい。詳細は割愛するので各自で論文を確認していただきたいが、この論文では、「汚名」と結び付く動詞の検討、「挽回する」「晴らす」の用例の検討、「汚名回復」の用例の検討、「返上する」が取る目的語の検討を行っている。その結果、「汚名」というマイナスの状態を表す語を目的語として「挽回する」ことは十分に文意の通る表現であるので、誤用とは言えないと結論する。高山説、新野説と同様、佐々木説もここで検討が終わってしまっているのであるが、ここでは、この論文を別の視点からもう少し検討してみることにする。

佐々木氏は、まず「汚名」と結び付く動詞にはどの様な語があるかについて、小説作品を調査し用例を採取している。それによると「受ける・負う・着る・着せる・つける・なすりつける・取る・持つ・こうむる・かぶせる」等延べ54例があったとされる。ここで、総ての説(①~④)において、「汚名」は「状態」として認識されていたということを思い出していただきたい。ここに挙げられた動詞はいずれも「状態」には使いにくいものばかりである。一方、汚名を受けた状態が回復することに使われる動詞としては「雪ぐ(すすぐ/そそぐ)・流す・消す・消える・清める」等19例が認められた。

この用例採取の結果から考えて、「汚名」を単純に「状態」を表す語と認定するには無理があるだろう。これら「汚名」に接続する動詞は、評価対象となるある人物に対して、「汚名」という負の評価を伴った標識を「付着させたり除去したり」しているのである。これまで、総ての説において特段の議論もなく暗黙裡に「汚名=状態」と仮定されていたが、実際には「汚名=標識(≠状態)」と考えるほうが妥当なのである。

次に、「晴らす」の用例について検討した部分を見てみよう。「晴らす」がどの様な目的語を取るか検討したところ、既に紹介した通り、佐々木氏は、目的語を5つのカテゴリに分類し、「汚名」は「他人に疑われている状態」と「他人に疑われて罪を着せられている状態」という2つのカテゴリに該当する語としている。ここでも何の断りもなく「状態」として扱われているのであるが、実際に「汚名」以外の目的語としてどの様な語がカテゴライズされているのか見てみよう。

a~cは省略
d 他人に疑われている状態
  疑い・疑念・疑点・疑問点・容疑・嫌疑
e 他人に疑われて罪を着せられている状態
  無実の罪・無実・罪・冤罪・濡れぎぬ・誤解

「晴らす」の目的語になるだけあって、いずれも除去することが可能な語が列挙されており、やはり「状態」と捉えるよりも「標識」と捉えるほうが適切だと考えられるが、中には「疑い」「疑念」「誤解」の様に「状態」と捉えることも可能な語もある。つまり、このカテゴリに属する語は、「汚名」も含めて基本的には「標識」と捉えられる語であって、場合によっては「状態」と捉えることも可能な語を含む語群と言えそうである。

「汚名」をその様に捉え直すと、「汚名挽回」を認めるか認めないか意見が分かれる要因の1つは、「汚名」を「標識」と捉えるか「状態」と捉えるかという立場の違いに起因すると考えることができよう。これまでの誤用/非誤用の議論では、「挽回する」の目的語として「マイナスの語」を取れるのかどうかが主な争点となっており、「汚名を取り戻すのはおかしい or 汚名の状態から汚名のない状態に戻すのだからおかしくない」という話が中心であった。しかし、実際にはマイナスの語を取れるかどうかではなく、「汚名」が「標識」か「状態」かの違いが重要と考えられ、現状の非誤用派は総て「汚名=状態」派であることから違和感なく「汚名挽回」を受け入れることができるのに対し、誤用派は「汚名=標識」派であるために「挽回する」という動詞に接続することに違和感があるのだという推論が可能になる。それ故、負の評価を伴った標識である「汚名」には、「挽回」よりも付着させたり除去したりする表現のほうがより自然に感じられるのではないだろうか。高島俊男氏が示した「汚名を挽回するという言いかたに抵抗を感じるのは、「名」というものが、「運」および「勢」のごとく流動することをその本質とするものではないからだ」とする指摘も、家運・社運や劣勢・退勢という語が「標識」そのものではなく、変動し得る「状態」を表す語であることを、別の表現で示したものと見ることもできよう。

「汚名」という語の性質をこの様に了解すると、それまで非誤用派が全く無視してきた「汚名」と「挽回」の親和性に対する個人間の相反する反応について、合理的に説明することが可能となる。通例「標識」と認識される語と「挽回」の結合、例えば「レッテルを挽回する」とか「烙印を挽回する」という言い回しの場合、恐らくより多くの人が不自然に感じられるのではないだろうか(勿論、これとて「レッテルを貼られた状態」の様に解することも可能ではある)。「汚名」が、個人の言語感覚の違いによって「標識」とも「状態」とも捉え得る「揺れる語」であることが、今回の問題の本質を捉える鍵になるかもしれない。

総括

以上、文藝春秋のコラムに挙げられた非誤用派の言説だけでは、「学問的にほぼ解明済み」とは言い難いことを順に示してきた。何よりもまず、当該コラムで論拠としている説のうち、高山説①を紹介した高島俊男氏や新野説③の筆者自身が明らかに違和感を表明しているという事実がある。そして、①~④いずれの説でも「汚名=状態」とする根拠が全く示されていないこと、佐々木説②の用例採取の結果、実際に「状態」でなく「標識」と考えるほうが妥当な語が多数採取されていることを見ても、検証不足の感は否めず、とても学問的に解明されたとは言い難い。そしてそれは現行辞書の記述状況を見ても明らかで、三省堂国語辞典一書だけでなく他の追従する辞書が現れることが必要ではないか。国語に限らず、総ての学問領域に共通して言えることであるが、「学問的に解明済み」と言うからには、少なくとも関連学会で多数の賛同が得られる説でなければならないだろう。

結びに代えて

さて、冒頭でも述べた様に、本稿は「汚名挽回は誤用である」と主張することを目的としてはいないことを再度確認したい。「汚名」を「標識/状態」という視点で捉えるべきという主張は、筆者個人のものであり異論もあろう。所詮は一個人の素人仮説に過ぎないし、それに対して多くの反証が示される可能性は十二分にある(そもそも、これは仮説の仮説の段階で未検討の部分が多く、今回の件がなければ公表するつもりは毛頭なかった)。しかし本稿で見てきた様に、本件を解決済みとするにはまだまだ検証すべき事項が残っていて、現状の非誤用派の言説では論理的整合性に乏しい上、学術論文として議論を終結させることなく、Twitter上の発言や雑誌コラムで独善的に「解明済み」を宣言するのは科学的妥当性を欠いているとしか言いようがない。国語の専門家でもない一個人がこのような無謀な反論を試みるのは、安易な誤用/非誤用のレッテル貼りを危惧するが故である。無論、様々な個人が独自の研究に基づいて多様な説を唱えられ、侃々諤々の議論を交えられる自由でアカデミックな空気が醸成されることは、SNS全盛の時代にあって大いに結構なことだ。しかしそれ故、この様な方法で既成事実が作られることがあってはならないと思うのである。

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