「反日」を一掃せよ
7月中旬、芥川賞を受賞した数日後のことである。ネット上で、そこそこ人気のある某右翼ライターがある記事を発表した。受賞会見をしている時の私の顔写真とともに掲載されたその記事によれば、「李琴峰の芥川賞受賞は、反日左翼による日台離反工作かもしれない」だそうだ。
ファンタスティック! この方のほうが私より小説を書くのに向いているかもしれないと思われるほどの、すさまじい想像力だ。これからも小説でご飯を食べていく者として、このライターの宣伝にならないよう、ひとまずここでは彼の名を伏せて、S氏と呼ぶことにしよう。S氏の該当記事の論旨は、ざっとこんなものだ。
「李琴峰は安倍前首相を批判した反日クズだ。こんなクズに芥川賞が与えられるなど、芥川賞も随分と安っぽい賞に落ちたものだ。実際、日本の文学界は左翼と反日作家に乗っ取られて久しい。村上春樹などの反日文学者ばかりがチヤホヤされるから反吐が出る。しかし、台湾は親日国家のはずだ。だから台湾人である李琴峰の芥川賞受賞は、日本と台湾の仲が悪くなることを望む反日左翼による日台離反工作の陰謀かもしれない。反日の台湾人を見つけてきて、芥川賞など箔をつけて反日を語らせることで、日台関係を粉々に打ち砕こうとする算段だ。反日左翼はそういう策略くらいはやる。これからも反日台湾人が発掘され続けるに違いない」
なるほど、Qアノンも顔負けの陰謀論だ。このような陰謀論を編み出すS氏は右翼で万を超える信者を従えるだけのことあって、実にイケてるお頭脳の持ち主だ。それほどイケてるお頭脳とすさまじい想像力をお持ちだからこそ、記事を書く前に、最低限の下調べをしておこうといった下等な考えは脳裏にないのかもしれない。世の中にはグーグル検索という便利なツールがあるという下等な常識も、S氏のイケてるお頭脳がお忘れになっていたのかもしれない。少し調べてみると、この李琴峰が日台離反工作などやっているわけがないという火を見るより明らかな、いや、日本晴れの太陽を見るより、ひょっとしたらRMC 136a1恒星(よく分からないけど宇宙で最も光度が高い恒星で、エネルギー放出量は太陽の871万倍らしい。私はイケてるお頭脳をお持ちのS氏とは違い、グーグル検索とウィキペディアを駆使することにすぐ思いついたから調べてみた)を見るより明らかな事実に、すぐ気付くはずだ。
イケてるお頭脳をお持ちのS氏が恐らくご存知ないと思われる、李琴峰に関するいくつかの事実を、以下に並べてみよう。
コロナ前に、私は数回にわたって日台文学交流講座の開催に尽力し、台湾の作家を日本に招き、公開講座を行った。これによって、日台の文学交流を深めた。
コロナ禍が日本を襲った2020年前半、私は日本の感染状況を報じる記事をたくさん翻訳し、台湾を含む中国語圏の読者に日本の状況をリアルタイムに伝えた。
私は日本語で、台湾政府が何故コロナを抑えられていたか、日本政府とどう違うのか、という分析記事を書いた。
私は日本語で、台湾の小説のレビュー(編集者に見せるもの)を書き、日本語訳の出版に一役買った。
私は日本語と中国語の二言語で、日本各地の観光スポットや文化を記事に書き、それを紹介した。
私は自分の小説で台湾的な要素をたくさん取り入れ、台湾に必ずしも興味を持たない読者に、台湾の生活や文化に触れる機会を作った。
そのほかにも、私は多くの方が日本語で書かれた、日本文化や日台関係に関するネット記事を中国語に翻訳し、台湾の読者に伝えた。
芥川賞贈呈式のスピーチでも話したが、私は自分のことを「台湾で生まれ育ち、自らの意志で日本に移住した一個人」に過ぎないと思っている。外交官でもなければ、政治家でもない。よって、日台友好といった国同士の大それたものを背負うつもりはない。以上に羅列した事柄だって、私はしかるべき報酬を受け取り、仕事としてやっているのだから、こんなことをやっている自分は偉い、などと言うつもりは毛頭ない。
それでも、自分の仕事が多少なりとも、日台友好、日台の文化交流や相互理解に寄与しているというのは紛れもない事実だろう。
そんな私がもし「日台離反を狙う工作員」だというのなら、「そうでない人」がどんな人なのか、ぜひ教えてほしいものだ。
日台離反云々はさておき、S氏の記事にはもう2つ、興味深い点がある。
1つ目は一人称だ。約3000字弱のS氏の記事に使われる一人称をテキスト分析してみると、面白い現象が浮かび上がる。S氏は「私」「僕」「俺」といった一人称単数を、一度も使っていないのだ。代わりに使われているのは、「私たちは~」「日本人は~」「私たち日本人は~」だった。
この点から判断すれば、S氏は恐らく近年ネット上で活動する排外的な自称愛国主義者に頻発する「一人称過大症候群」の重度な患者と思われる。「一人称過大症候群」の典型的な症状は、自分こそが「(普通の)日本人」の代表だと思い込んでおり、「私は~」「僕は~」「俺は~」の代わりに、「私たちは~」「日本人は~」「私たち日本人は~」といった複数形を使いたがるというものだ。それは複数形に逃げなければ自分の意見すらまともに伝えられないという臆病さの裏返しだということにも気付かずに。
なるほど、であれば前言は撤回せねばなるまい。S氏はやはり、小説を書くのに向いていないのだ。複数形しか使えないようでは、小説など書けやしない。小説というのは、「個人」と「世界」との向き合い方や、距離の取り方を表現するジャンルだからだ。ひとまず小説家として、S氏に飯の種を奪われるリスクはなさそうだ。ほっとした。よかった、よかった。
S氏の記事に興味深いもう1つの点は、「反日」というものだ。『デジタル大辞泉』によれば、「反日」とは「日本や日本人に反感をもつこと」とのこと(繰り返しになるが、私はS氏ほどイケてるお頭脳を持っていないので、やはり辞書を調べてしまう)。
私は別に日本や日本人に反感を持っていない。日本は大好きだ。それは私が書いてきたものを読めば、RMC 136a1恒星を見るより明らかなはずだ。私が反感を持っているのは、ごく一部の差別主義者と政治家だけだ。にもかかわらず、S氏は記事で、私を「反日」と表現している。どうやらS氏は辞書とは違う意味で、「反日」という言葉を使っているらしい。
イケてるお頭脳をお持ちのS氏の表現意図を勝手に推し量るなど恐縮だが、恐らくS氏は、これもまた近年ネット上で活動する排外的な自称愛国主義者に頻発する「何でもかんでも反日認定症候群」(長いので「ハンニチガー症候群」と呼ぼう)の重度な患者ではないかと思われる。典型的な症状は、(多くは政治信条に関連するがその限りではない)自分の気に入らない人物を全て「反日だ」と認定するというものだ。相手が外国人の場合、なお認定しやすい。ハンニチガー症候群の患者は、反日主義者だらけの世界に自分は生きていると思い込む傾向があるらしい。
さて、S氏のみならず、多くのネット上で活動する排外的な自称愛国主義者から反日認定されて困惑しまくっている筆者としては、ハンニチガー症候群の患者たちの反日認定基準を、ぜひとも把握しておきたいものだ。したがって、自分もハンニチガー症候群にかかったつもりで、その思考回路をシミュレーションしてみよう。
「中国人は反日だ。韓国人は反日だ。であれば日中国交正常化に尽力した田中角栄元首相は反日かもしれない。安倍前首相は日本のために尽力しているから、彼を嫌う全ての人が反日だ。そう言えば安倍前首相は2014年に親中派の政治家を重用したっけ? 2020年も習近平を国賓として日本へ迎えようとしたしなあ。やはり彼も反日だ。村上春樹は反日だ。大江健三郎も反日だ。ならば大江健三郎にノーベル文学賞を与え、村上春樹を候補に挙げたスウェーデン・アカデミーも反日に違いない。高市早苗さんは日本を愛する素晴らしい人だから、彼女を支持しない人は全て反日だ。共同通信の調査によれば、自民党員における高市さんの支持率は16%くらいらしい。自民党員の84%が反日だなんてがっかりだ。毎日新聞の全国世論調査によれば、国民における高市さんの支持率も15%らしい。日本国民の85%が反日だなんて世も末だ。そもそも毎日新聞も反日だ。李琴峰って人はTwitterで高市さんを支持しないと表明しているから、きっと反日に違いない。彼女に芥川賞を与えた日本文学振興会もきっと反日だ。そう言えば、李琴峰は『芸術選奨文部科学大臣新人賞』なんて賞も受賞したっけ? これは文部科学省が与えた賞だし、萩生田文部科学大臣が直に賞状を彼女に手渡しているから、文部科学省も萩生田さんも反日に違いない。文部科学省は日本政府の一部だから、日本政府も反日だ――」
……そろそろ馬鹿馬鹿しくなってきたのでこの辺にしておこう。このままでは、世界中の人が反日認定を食らってしまう。このようなハンニチガー症候群患者は日本の全人口のせいぜい0.0001%くらい(と信じたい)で、大多数の日本人はこの奇病を免れているのだから、ハンニチガー症候群なんて無視すればいいだろう。しかし、もしこれらの哀れな患者に敢えて1つアドバイスをするならば、まず、自分の中にある「反日」という決めつけや固定観念を一掃するところから、始めてはいかがだろうか。きっと世界は違って見えてくるはずだ。
そして残念ながら小説家にもなれそうにない上に、「一人称過大症候群」と「ハンニチガー症候群」の二重の病に侵されているS氏におかれましては、ご愁傷様でしたとともに一言申し添えるならば、こんな感じになるだろう。
「反日左翼の陰謀でも日台離反工作でも、好きなだけ書けばいいさ。どうせ100年後、あなたも私もこの世からいなくなった後、日本語として後世に伝わるのはこの私の名であって、あなたのではない」