恋愛と友情の違いがラベルの違いでしかないなら?―含意を考える
前回の記事で、恋愛関係と友情関係の違いは、本質的なものではなく、単なるラベルの違いでしかないと主張した。
本記事ではこのことが正しいとしよう。つまり、恋愛関係と友情関係に本質的、実質的な違いはないとしよう。本記事では、この場合にどのような含意が生じるのかを考える。
異性愛と同性愛
超当たり前の話をするが、まず、恋愛関係が異性愛に限定されることはない。男女の友情が成り立つのかという議論があるが、そんなことはもう考える必要はない。「男女の友情が成り立つのか」という議論は、「男女の関係は恋愛関係になるか、そうでないなら友情関係になることはできず疎遠になってしまうか、いずれかである」という主張の正否をめぐるものだと私は解釈してるが、この議論は恋愛関係と友情関係の区別を前提にしている。だがその前提は間違いなので、このような議論はスタート地点から間違ってる。問いを変えて、同性愛者間の関係を含むものとしても同じである。
こんなことは同性愛者の存在を規範的に認めるなら、当然のことだと思われるだろう。恋愛関係と友情関係の区別の否定からわざわざこの結論を導出する必要はないと思われるかもしれない。
とはいえ、別個に実質的な議論ができると思う。私の前回の記事の議論を前提とすれば、関係と感情の関連性は分離できる。そのため、いわゆる異性愛者は、異性に対して恋愛的感情(もしあれば)を抱く人で、同性愛者は、同性に対して恋愛的感情を抱く人、として説明できる。
そもそも何らかの恋愛関係か友情関係かという区別をもはや認めてないのだから、ある関係が異性/同性愛関係であるのか友情関係であるのか、という問いすらナンセンスである。重要なのはラベルだけだ。もしそうであれば、感情と関係の関連性を否定してラベルを自由に使えるなら、異性愛者同士の「同性カップル(同性愛関係)」、同性愛者同士の「異性カップル(異性愛関係)」というラベルの使い方もできることになる。これは関係性の可能性を広げる重要な一歩だと私は思う。
モノアモリーとポリアモリー
次に恋愛関係を1対1に限定するべきかどうかに関する議論を考えよう。先に、まず、友情関係(とラベル付けされてるもの)が複数対複数であることはよく見られることである。そうであれば、今私たちは恋愛関係と友情関係の区別を認めてないので、当然、恋愛関係(とラベル付けされてるもの)についても複数対複数があっていいし、何もおかしなことはない。
逆に、今の1対1恋愛規範(アマトノーマティビティ、恋愛伴侶規範)を先に考えて、友情関係(とラベル付けされてるもの)について1対1の関係があってもいい。ある特定の1人としか「友情関係」というラベルを使わない、という実践があっても何もおかしなことはない。
以上のことは、恋愛関係と友情関係の区別を認めないことで、より考えやすくなったことである。もちろん、最初からポリアモリーの存在を規範的に受け入れてる人にとっては当たり前のことだ。
だが私がここで実質的な議論ができてると思うのは、友情関係(とラベル付けされてるもの)が1対1であってもいい、ということである。たぶんこれは意外な含意だと思うので、興味深いと思ってくれるなら嬉しい。
恋愛関係・友情関係の規範の中身
現状の性愛規範を前提にすれば、ある人と恋愛関係になれば、その人と密な関係を形成し、例えば性的関係すら伴うかもしれない、という期待が生じるだろう。他方で、ある人と友情関係であるなら、恋愛関係にある人ほど密な関係を形成することはなく、まして性的関係を伴うはずもない、という期待が生じると思われる。
恋愛関係と友情関係の実質的な区別を否定することで、このような抑圧的な性愛規範も意味をなさなくなる。当の規範が命じている実質的な区別がある関係は存在してないのだから。
私たちは、恋愛関係にある(とラベル付けしてる)人と、典型的には友情関係に期待されることをしてもいいし、逆に、友情関係にある(とラベル付けしてる)人と、典型的には恋愛関係に期待されることをしてもいい。もはやどっちがどっちなのかは重要ではない。
もちろん、前回の記事で述べたように、多くの人はまだラベルに固執してるので、ラベルから勝手に推測、期待され、すれ違いが生じる可能性がある。そうしたことを避けるなら、無難には(つまりマジョリティ友好的には)現状の規範を所与としたラベルの付け方をするのがいいだろう。だがこの抑圧的規範に抵抗していくなら、期待に沿わないラベルをつけていくこともいいかもしれない。意図的にそうすることができる。例えば、上で言及した例のように、異性愛者同士の「同性カップル(同性愛関係)」、同性愛者同士の「異性カップル(異性愛関係)」というラベルの使い方もできるとか、「友情関係」というラベルを使う人を特定の1人に限定するとか、「恋愛関係」というラベルを使う人を複数人とするとか。規範を撹乱できるはずだ(と思いたい、実際に成功するかどうかはわからない)。
クワロマンティック
このトピックに最も関わるセクシャリティとして、クワロマンティックがある。これは以前の記事で紹介したように、恋愛的指向は意味をなさない、というセクシャリティとして考えられている。
私がこの記事や前回の記事でも述べたように、関係性と感情を分離できると思っているので、この定義は使いにくいと思っている。とはいえ、今回重要なのはそこではない。
恋愛関係と友情関係の間に本質的な違いがないなら、クワロマンティックの人々の経験が何か異常なものとして扱われてるのは不当である。問題はむしろ逆だ。非クワロマンティックの人々は、恋愛関係と友情関係に実質的な違いを見出しているが、そっちこそむしろおかしなことであり、それはないものを見出しているからである。(この区別に関して仮に何らかの説明が求められるべきだとするなら)説明が求められるべきは、むしろ非クワロマンティック側である。クワロマンティックの人々は「どうして恋愛がわからないの?」などと言われるわけだが、そんなことを言われる筋合いはない。むしろ何か区別があると思ってる方に(あるとすれば)説明責任がある。
(ここまで何度も括弧で書いてるように、そもそもそんな説明責任は誰にも生じてない、と私は思っている。)
恋愛関係と友情関係以外の親密な関係
恋愛関係と友情関係の間に区別がないことはいいとして、これらは他の関係とは区別があるのだろうか。関係にはいろいろある。例えば、職場での同僚関係、家族関係、師と弟子の関係(教員と学生などもそう)、などなど。私自身は関係性についての一般理論を別に考えてるが、ここでは、こうした関係とは別のものとして、「親密な関係」というものがあり、恋愛関係と友情関係はこの「親密な関係」という名の関係のもとに括られる、と考えておこう。
そうだとすると、親密な関係の中には恋愛関係や友情関係以外の関係があるかどうか気になるだろう。例えば、クィアプラトニック、重要な他者、名前のない関係など、クィア実践をしている人々は関係のラベルを作り続けている。私自身は、これらの間にも本質的な違いがあると思ってない。それはラベルの問題である。しかし、そうやってラベルを多種多様に作ることもまた重要な実践だと思っている。それは既存の誤った抑圧的規範を撹乱すること、自分達の関係をよりうまく説明するためにも重要である。
以上のように、恋愛関係と友情関係の区別を否定することで、興味深い含意がいくつも出てくる。まだ検討できてないことも多数あるだろう。いずれにせよ、恋愛関係と友情関係が単なるラベルであるとすれば、思ったよりも多くの含意が生じる、ということを本記事で確認できれば十分である。