「自分が我慢していることをお前も我慢しろ」という心理
人間が備えている認知バイアスのうちもっとも凶悪なものは、自分の経験した苦労はそれがどれほど無意味なものであろうと有益だったと考えたがる傾向だろう。生が本質的に不合理なものである以上、僕たちは不可避的に全く無意味な労苦や不幸に見舞われる―――しかもこれといった理由もなく。人は、そういった不合理が耐えがたいために、自分の経験した不幸や労苦には何らかの意味があったと正当化することで精神の平衡を保とうとするのだ。
たとえば、ある会社の新入社員は毎年全く根拠のない精神論的訓練で構成された研修で人格否定を受けるのが習わしになっているとしよう。罵倒されたり大声を出したり走り回ったりわけのわからない文言を復唱させられたりする。これらの経験はその時ばかりは耐えがたい屈辱、無意味な苦行に過ぎないが、時間を経るほどに記憶に対してはこの経験を正当化しなければならないという力がはたらく。すると、これらの苦痛の経験が意味をなして、自分の何らかの美点に繋がっているという確信めいた錯覚が現出する。このために人間は、砂に穴を掘ってそれを埋め直すというような拷問的に無意味な経験でさえ後付けで「有益」とみなすことができる。
この性質は、人間の奥深くにまで根付いている、というよりは人間を定義する本質的なものだとさえ考えられる。つまり人間は、未来を良くするより判断よりも「過去を正当化する判断」に、病的なまでに固執する力に抗えないのである。
岸田秀はフロイトの「ヒステリーは回想の病である」という言葉にふれて、以下のように説明している。
時間はわれわれの重荷である。満足されなかった欲望に刻み込まれた悔恨に引きずられて時間を発明したために、われわれはますます泥沼にはまり込むことになった。過去のことは、しょせん取り返しがつかない。それを取り返そうとしてわれわれは、倒産しかかった会社を立て直そうと金を注ぎ込み、ますます深みにはまる、あきらめのわるい男のように、ますます過去に取り憑かれ、現在を見失う。(中略)
今の生活は一時の仮りの生活であって、そのうち本当の生活がはじまると考える人がいる。彼にとっては、現在はそのうちはじまる未来の生活のための準備としてしか意味がない。彼は、たとえば現在の楽しみのために金を使うのを極端に惜しむだろう。彼の信ずる未来においては、過去のさまざまな悔恨がすべて償われ、埋め合わせられるはずである。しかし、そのような未来はいつまでたってもやってこない。彼はいかにも希望あふれる未来をめざしているようだが、実は、取り返しのつかない過去を取り返そうとむなしくあがいているに過ぎない。食うものも惜しんで金を貯め、数百万円の貯金を残して栄養失調で死んだ人がいたが、彼もこの種の人たちの一人であろう。彼が金を使うのを恐れるのは、貯金のなかにすべての悔恨を閉じ込めているからであり、財布のひもをゆるめれば、閉じ込められていた悔恨が溢れ出てくるからである。(「ものぐさ精神分析」)
人間が、未来を良くするよりも失敗した過去を繰り返し、正当化することに執着する(反復強迫)ことを念頭に入れれば、大多数の人間が「未来を見据えた」「合理的な」判断をするだろうという予測は楽観的すぎるかもしれない。
ギャンブルで大金を損なった男にとって、未来を救う唯一の手段は今すぐそれをやめることである。しかし、未来を救うために過去を棄てるという判断にはつらい決断、つまり「自分は過去に全く意味のない損失を被った」という非情な現実と向き合うことを迫られる。この男にとって、別の手段をもって未来を良くするという方法では損失を被った「だけ」の過去が報われないのである。
有り体にいって、人間にとって「自分が無意味な損失を被った」そして「自分が被った損失はなんの利益にも変換できない」という不合理な現実は、今後得られるはずのあらゆる幸福を代償にしてでも拒否したいものなのである。この「過去の判断に閉じ込められた悔恨」の量に応じて、人はますます未来を犠牲にする必要に駆られる。これを図にすると以下のようなものである。
△手段を切り替えれば未来は良くなるが、過去に支払ったコストは無駄になる。
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