オーディオマニアとの闘い
今回は、約二十年前——まだ私が楽器店の正社員として働いていた時のお話になります。当時のお客様の中に、誰もが調律に行きたくなくて、罰ゲームのような扱いで担当を決めないといけない方が一人いました。その方の名前を、ここでは仮に岸田さんとしましょう。
岸田さんは、当時は五十代前半の独身男性。それだけを聞くと、ネガティブなイメージを抱く方もいるかもしれませんが、ところがどっこい(死語?)、彼は客観的に見てもなかなか渋い方で、昔は相当なイケメンだったと思います。
しかも、高身長、高学歴、高収入という、いわゆる「三高(コレも死語?)」のスペックにオシャレなセンス、優雅な佇まいに紳士的な言動……バブル期には、きっと相当モテたのではないでしょうか。
ただ、岸田さんから調律依頼が来ると、社内は恐怖に慄き、技術者は逃げ惑いました。皆んな、行きたくないのです。
岸田さんは、ある一点に関しては、相当な変わり者に豹変するのです。具体的には、過度な「オーディオマニア」だったのです。
生涯に数千万円もの資金をオーディオに費やし、超マニアックな音の微細な違いを楽しんでいるのです。何でも、コンセントを差し込む電源タップも、電線からのノイズを拾うからどうのこうの、ってことで、屋内の配線から電源タップまで、全て交換しているそうです。それでどのぐらい音質が変わるのかなんて、多分人の聴力で聞き分けられるものではないと思うのですが、オーディオマニアの方は皆さん同じようなことを仰るのです。
もちろん、オーディオ専用のお部屋も、有名な方に音響工学を駆使して設計してもらった(らしい)防音室で、室内の調度品も音の響きになるべく影響しないものを選んだとのことです。
当然ながら、使用機材にも、ものすごいこだわりがあるそうです。数個ある自作の真空管アンプを含め、アンプやスピーカーは数種類あり、色んな組み合わせで音が変わるそうです。また、それらを繋ぐコードや端子も色んな特性があり、それらを使い分けています。もっと言えば置く場所や向き、台との接地など、ありとあらゆる条件に意味があるそうで、細かいパーツにも拘りがあり、音作りに余念がありません。
その熱意や向学心は逆に痛々しいぐらいで、熱すぎて誰も相手にしてくれないのです。と言うより、あくまで彼曰く、ですが、突き詰めている音の違いが細か過ぎて、誰にも理解してもらえず、楽しみを共有してくれる人がいないとのことです……調律師を除いて。
いやいやいや、そんなのは彼の思い込みに過ぎません。別に調律師に特殊な能力なんてありませんし、一般の方のイメージほど、耳は良くありません。なので、そんな細かいオーディオの音質の差異なんて、少なくとも私にはちっとも分かりません。そもそも興味もないし、私の場合は音楽なんてそこそこの音質で聴ければ十分満足なのです。なんなら、スマホでも不満がないぐらい。
でも、岸田さんは調律師なら分かってもらえると思い込んでいるようです。もっと言えば、「俺は調律師にも判別出来ない違いを楽しんでいる」と思いたいのかもしれません。なので、岸田さんの調律に行くと、色んな音を無理矢理聴き比べさせられ、帰してもらえないのです。
残念なことに、岸田さんは所有ピアノも超一級品です。当時の価格では、一千万円を優に超えているドイツ製の高級機種。そんな名器をご購入くださった以上、会社としてはメンテを拒絶するわけにもいかず、金払いも良い上顧客なので、年に一度の調律は誰かが我慢して生贄にならないといけなかったのです。
そして、その会社に入社して四年目のこと。
ついに、私にもその時が……生贄になる時が訪れたのです。先輩方から散々話は聞かされており、嫌だけどいつかは回ってくるだろうと覚悟は出来ていました。
ちなみに、岸田さんは必ず夕方に調律を指定してきます。そして、岸田さんは調律中に料理をしており、調律後に、手の込んだディナーをご馳走してくれるのです。
実は、岸田さんはレストランを数店舗経営されていました。実業家として成功された方ですが、元はコックだったのです。なので、料理の腕は超一流。それだけは、生贄の唯一のメリットなのです。
私の時は、カボチャのスープ、アンチョビとアーティチョークのサラダ、そして、手作りのナンに羊のキーマカレーという、豪華なディナーを準備してくださいました。ビックリするぐらい美味しかったのですが……途中から、食事は苦行へと変わるのです。
そうです、オーディオタイムが始まるのです。
「櫟さんは、どんな音楽が好きなの?」
岸田さんにそう聞かれた時、キタっ! と思いました。どうやら、噂の苦行が始まるようです。
「学生の時オケをやっていたので、オーケストラが好きです。あと、やっぱりピアノは好きですし、最近はジャズもよく聴きます。キースとかチック・コリアとか、有名どころだけですけど」
「そうかぁ、ジャズはいいねぇ。そうそう、このスピーカーでジャズを流すと臨場感がすごい伝わるんだ。ちょっと待ってね、何かジャズのCD探してくる」
頼んでもいないのに、岸田さんは席を離れ、オーディオルームの隣のウォークインクロゼットのような小部屋に入って行きました。そして、僅か数分後には両手いっぱいに何やら沢山抱えて出てきました。
「ジャズのCD、何枚か持ってきたから聴いてみよう」
そう言って、今度は何やら機材を弄り出しました。
「このスピーカーにはね、このコードでこっちのアンプに繋ぐと良い音になるんだ」
そんな説明しながら手際良くセッティングを終え、曲を流してくれました。ハービーハンコックです。幸い、私も持っているアルバムのようです。確かに、目の前で演奏しているような臨場感で、とても心地良い音色です。同じCDでも、家で聴くのとは雲泥の差です。
「すごいですね! ベースの指板の音とかハービーの息遣いも聞こえます!」
「えっ? ハービーって何?」
「あ、ごめんなさい。勝手に、ハービーだと思い込んでいました」
「そうなの? ハービーってピアノのメーカーか何か?」
「えっ……あの、ハービー・ハンコックってアーティストのスピーク・ライク・ア・チャイルドってアルバムかな、と思ったので……」
「へぇ……ホントだ、そう書いてるね! それで、音はどう?」
どうやら、岸田さんは自分のCDなのに、ハービーのアルバムだと知らずにかけていたようです。いや、そもそもハービーを知らないのでしょう。
「クリアと言うよりウェットなのに、生音のような膨らみとか奥行きを感じます」
「でしょう! 櫟さん、さすが調律師さんだね! よく分かってる。じゃあさ、少し配線変えてみるね。違い、分かるかなぁ」
岸田さんはいきなり音楽をぶつ切りで停止し、何やら配線を弄り出した。そして、すぐにまた再生。
「どう? 何か変わったの、分かる?」
正直、何も分かりませんでした。いや、何となく変わったと言われればそう思わなくもない……でも、気のせいと言われれば否定出来ないレベルだし、少なくとも、言葉や感覚で具体的に表現出来るほどの違いなんて、何も感じませんでした。
「ごめんなさい、よく分からないです」
私は正直に答えることにした。
「そうかぁ、さすがの調律師さんも、オーディオの超上級編は分からないか。じゃあ、コレはどうかな」
と言いながら、また何やらゴソゴソと弄り始めました。ちょっとカチンとくる言い方でしたけど、辛うじてそこはスルー出来ました。
音の方は……今度は、明らかに変わりました。かなり音が曇り、モヤが掛かっている感じです。そう伝えると、ニコニコし出して、もうそれからは地獄……曲を変え、アンプを変え、組み合わせを変え、コードを変え、置き方を変え……と、色んな聴き比べを強いられました。
あんなに美味しいと思ったキーマカレーもスッカリ冷めてしまい、食べたことのないぐらい不味いカレーに感じました。胸焼けを起こしそうです……違う意味で。
かれこれ二時間以上も、私は岸田さんのオーディオ講釈に付き合わされ、聴き比べの強要という拷問を受けました。次第に、最初のハービー・ハンコックの時のような丁寧な感想は面倒になり、「明るくなった」「輪郭がハッキリした」など、当たり障りのない適当なコメントでやり過ごしていたのですが……時々、それがクリーンヒットしてしまったのでしょうか、岸田さんを喜ばせてしまい、また新たな講釈が始まり……と、終わりの見えない一方通行のオーディオ談義にげんなりしてきました。
同時に、私も少しずつ分かってきたことがあります。
この人、音にしか興味がない——。
先ず、曲のチョイスがメチャクチャです。一貫性もなく、好みの傾向が掴めないと思ったのですが、そうじゃなくて、音楽の好みなんてそもそもないのです。彼の関心は「音」だけなのです。
だから、ジャズに始まりクラシック、歌謡曲、アニメソング、演歌、洋楽、ヘビメタ……と色んなジャンルの曲を聴かされたのですが、彼にとっては、どんな音楽なのか? は重要でなく、そのセッティングに相応しい「音」を追求してるだけだったのです。
当然ながら、演奏の良し悪しも問題じゃないようです。演奏技巧や表現力、感性、解釈……そういったものには全く興味がないのです。つまり、彼は演奏を聴いていません。音楽も聴いていません。物理の音波を「聞いて」いるだけです。
そして、「あ、もうこんな時間だ」なんて白々しいセリフを口にし、ようやく解放されそうな雰囲気になった時、社交辞令として心にもない御礼を伝え、ついつい気になった質問をしてみたのです。「岸田さんは、コンサートとかライブを聴きに行くこともあるのですか?」と——。
すると、図らずも、彼の本音を垣間見ることになったのです。
「コンサートかぁ、何年も行ってないかもな」
「なかなかお忙しくて行けないですよね」
「と言うよりもね、僕の場合、コンサートがあまり好きじゃないんだ」
「え? それは、どうしてですか?」
「だって、生の演奏って音が悪いじゃん」
私は、思わず笑い出しそうになるのを必死に堪えました。やはり、岸田さんは、音楽が好きなのではなく、音だけが好きなようです。
家に帰って、ハービーを聴き直そうと思いました。
(2024.01.11 追記)
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本記事を恣意的に悪意に改竄し、動画配信のネタに使われておりましたので、リンク先はその反論記事になります。