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場を移りながら生きるものたち

 今回は「薄っぺらいもの(スクリーン・05)」「音もなく動くもの(スクリーン・06)」の続きです。

 両記事で引用した川端康成作『名人』の一節の最後のセンテンスを取りあげますが、話を広げるために、記事のタイトルから「スクリーン」というシリーズの枠は外してあります。


結論


 まず、引用します。

 二日目の対局室は、明治時代のさびのついたような二階で、襖から欄間まで紅葉づくめ、一隅に廻した金屏風きんびょうぶにも光琳こうりん風のあてやかな紅葉であった。床の間に八つ手とダリアがけてある。十八畳の次の間の十五畳まで明け通しなので、大振りの花も目にさわらない。そのダリアの花は少ししおれていた。稚児髷ちごまげの少女が花かんざしをして、ときどき茶の入れかえに来るだけで、人の出入りはない。名人の白扇が、氷水をのせた黒塗りの盆に写って動く静かさ、観戦は私一人だ。
 大竹七段は黒羽二重くろはふたえの一重にの羽織の紋服だが、今日の名人は少しくつろいでか、縫い紋の羽織だった。盤は昨日のとはちがう。
(川端康成作『名人』新潮文庫・p.35・太文字は引用者による)

 引用文の最後のセンテンスですが、私にとっては衝撃的な一文なのです。

 私がどう感じたかの結論から書きます。

・場を移りながら生きているものがある(いる)のではないか。
・「移る」というよりも「遷る」を感じる。

盤、ボード、ボードゲーム


・「盤は昨日のとはちがう。」:

 この「盤」とは碁盤を指します。この日に対局室で使用された碁盤が、前日のものとは「ちがう」という意味です。

 盤を移しても、つまり「ちがう」盤に変えても、対戦が継続している点が、囲碁を知らない私にはとても興味深いどころか、衝撃的にさえ感じられます。

 なんとなくは知っていましたが、改めて考えたことがこれまでになかったのです。

「盤は昨日のとはちがう。」というセンテンスは、盤(碁盤)が変わっても対局は続くという、囲碁を知っている人であれば、きっと当たり前であることを、あらためて教えてくれたという意味で、私にとっては目を開かせる指摘だったのです。

 確かに、このセンテンスのあるページの前のページには「こういう対局に一手でも打ってもらうと、碁盤に箔はくがつくので、自慢の名盤が幾面も持ちこまれているわけだった。」(p.34)があり、この作品の冒頭近くには「六月二十六日に芝公園の紅葉館で打ち始め、伊東の暖香園で打ち終わったのは十二月四日であった。一局の碁にほぼ半年を費やした。」(p.6)という記述が見えます。

     *

 碁盤はいわばスクリーン、そこでは白と黒の石という影がうつり動く。スクリーンだから、そこにうつる影は別のスクリーンにうつっても一向にかまわない。次々とスクリーンが移り変わってもいい。

 囲碁だけでなく将棋でもありそうだし、ひょっとすると、チェスや他のボードゲームでもあるのかもしれないと想像しました。

 もしそうであれば、なぜなのだろうとも考えました。で、思いあたったのが、棋譜というものの存在です。

 この『名人』という作品でも、新潮社版のp.164とp.165には「本因坊秀哉(しゅうさい)名人引退碁」というタイトルで棋譜が載っています。

 棋譜とは「囲碁・将棋の対局の手順を示した記録。」(広辞苑)だそうです。

場を移りながら生きる


 上で述べた「場を移りながら生きているものがある(いる)のではないか」について、箇条書きにします。

・ボードゲームでは、ボード(盤)を移して対局を続けることがあるらしい。

・そんなことが可能なのは、ゲームにおいては立体としてのボードの平面性(二次元性)が最も重要だからではないか。

・極端な話が、ボードや盤と同じ図(模様)――点と線と面からなる――が描いてあれば、場は二次元の紙でもいいにちがいない。現に将棋の対局中に、テレビで紙や板(スクリーン)に描かれたらしい「盤」をつかっての中継や解説がおこなわれている。

・話は飛躍するが、一つの同じ対局中だけにとどまらず、そもそもボードゲームというのは、プレイヤーがいてルールさえ守られていれば、いつでもどこでも誰でもが、どのボード(盤)の上でもプレイできるものなのにちがいない。

・要するに、ルールというものが場を移りながら存続している。ゲームとは、ルールが場を移りながら生きている、ルールが場を移りながら生き続けている、ルールが場を移りながら生き延びている――ということができるのではないか。

・その場は、ルールがルールとしての機能を果たせるだけの条件を備えたものという意味での「常に同じもの」、つまり複製でなければならない。

 以上のように感じたというか想像しました。

ルール、ストーリー、旋律


 ルールが場を移りながら生きる――このイメージが今私にはとても魅力的に感じられます。自分で想像して勝手にこしらえた話を魅力的だなんて、世話ない話ですけど。

 世話ない話ついでに、さらに話を広げてみます。

 ルールが場を移りながら生きる
     ↓
 ルールはボードゲームの命、ボードはその命が生きる場、生き延びる場
     ↓
 場を移りながら生きる命が他にもいる

 ルールがあるものとしては、ボードゲーム以外に、ゲームと呼ばれるものがたくさんあります。スポーツがそうでしょう(数学もそうなのかもしれません)。

 それぞれのスポーツにはルールがあります。プレイヤーの数や装備や技なども、ルールブックに載っているという意味でルールのはずです。

 また、プレイがおこなわれるフィールドやコートやリングや畳などの面積や形や模様などの広義のデザイン(設計)も、ルールにちがいありません。審判や審判のルールや得点やポイントの方法なども不可欠な要素だと考えられます。

     *

 次にプレイ(play)という文字にこだわってみます。プレイについては以前に考えたことがあるので以下に紹介します。

・play、プレイ、演じる、演奏する、遊戯する、競技する、賭ける。
・play、プレイ、演技・芝居・上演・放映、演奏・旋律、遊戯・戯れ・ゲーム、競技・競争・パフォーマンス、賭け・博打。

 プレイにおけるキーワードは、「演じる」「パフォーマンス」です。要するに、身体をもちいて、ある身振りや動作や振りをする、これがプレイにほかなりません。

 振りを演じる、振りを装う
 流れに沿う

・ルールというよりも、流れというか、たとえば旋律とかコードやストーリーやシナリオといった、広義の筋書きのようなものに沿い従う

・プレイヤー(演奏者や俳優や演技者や競技者や駒など)とプレイの場(舞台やステージやフィールドやグランドやフロアーやリングやマットや畳やボードやスクリーンやディスプレイなどの広義の平面)は変わっても(移っても)かまわない

 このようにイメージしています。

主役は「誰・何」なのだろう?


 話が広がり抽象的になってきたので、具体的に想像してみましょう。

 以下のどれにもプレイヤーがいて、プレイやパフォーマンスがあり、プレイをする場があります。

・野球、サッカー、ボクシング、柔道
・舞台でのお芝居、テレレビドラマ、映画、バレエ、ストリートでのパントマイムのパフォーマンス
・ステージでの音楽の演奏とその撮影と録音、スタジオでの演奏とその録音、ストリートでの演奏とそれを見ている人のスマホによる撮影と録音  

 プレイする舞台(ステージ)があり、そこでプレイヤーが入れ替わり立ち替わりプレイを演じるさまざな様子が断片的に浮んできます。

 主役はなのでしょう? というかなのでしょう? 

 ひょっとすると、主役はルールや旋律やストーリーや技や型なのかもしれない。そうしたものが守られていれば成立するのが広義のプレイなのではないでしょうか?

 ルール、決まり、決められたもの・こと、規則、法則、旋律、コード、流れ、方向性、ストーリー、シナリオ、技、型、形式、様式、スタイル

 生身の人間であるプレイヤー、ルールや旋律やストーリーや技や型という非人称的でニュートラルなもの、プレイヤーの演じるプレイが演じられる場のうちで、どれが主役なのかが不明に感じられてきます。

 主役は人なのか、抽象的なもの・ことなのか、場・空間なのか?

 個人的には、非人称的でニュートラルなものが主役であると考えたくなります。そうした抽象的な「何か」が次々と場を移るのです。私は人も場だと思います。

 話を戻します。

かげ・影


・「盤は昨日のとはちがう。」:

 このセンテンスから、以下の言葉(音声)と文字が浮んできます。

 うつる、写る、映る、移る、遷る、乗り移る、付く、憑く、取り憑く

 何が、あるいは誰が、うつり、のりうつり、つき、とりつくのでしょう?

 私の好きなイメージでは「かげ・影」なのです。「かげ・影」だという気がしてなりません。もちろん、個人的な印象の話です。

     *

「かげ・影」というと、実体や実物や本物があって、それらが「うつる」のが「かげ・影」であるという一般的なイメージがありそうです。つまり、「かげ・影」は、いわば刺身のつまであり、二義的なものというイメージです。

 でも、実体とか実物とか本物と呼ばれている「何か」が、そもそも人に知覚できるものかどうかという疑問が私には浮びます。そもそも人が知覚しているものもまた「かげ・影」ではないかという意味です。

 とはいえ、どう考えるか、どう感じるかは人それぞれであるにちがいありません。

「移る」というよりも「遷る」


「うつる・うつす」が好きな私は、以前に漢和辞典で「遷」を調べていて、以下の記述を見掛けたことがあります。

「遷」:「もとの場所・地位をはなれて、中身だけが他にうつる」「魂が肉体からぬけて、自在に遊ぶようになった人。仙人。」(漢字源・学研)

 刺激的であるだけでなく、なにか怪しくて妖しくて魅力的なフレーズに感じられます。

 遷移、変遷、左遷
 司馬遷
 遷都、遷宮

 都、宮

 以上のフレーズや文字から私が受けるのは次のイメージです。

・場所を変えても位置関係や機能や役割・役目は維持される。
・移されても、写されても、映されても、その役割は変わらない。
・場を移っても、どこでも「同じ」もの。場を移りながら生き延びているもの。
・中身だけが「うつる」。
・転写可能なもの。

 これは複製ではないでしょうか。ルール、ストーリー、旋律、型という言葉でも言い換えることができる複製です。さらに言うと、移る場も複製であるはずです。

 盤、板、像、形、転写、遷、複製

     *

 漢和辞典にあった、上述の「遷」についてのフレーズをいじってみます。

 ある場から別の場へと、中身だけがうつる。
 魂が器からぬけて、別の器へとうつる。

 その中身とか魂は命やルールやスタイルとも言えるでしょう。場や器はたとえ立体であっても、大切なのは表面なのです。人の目にうつる表の面なのです。

 話が飛躍しますが、文字にも似ている気がしてなりません。

 文字は紙や広義のスクリーンの平たい表面に書かれたり、印刷されたり(写される)、映しだされたりします。

 そうであれば、文字は薄いものだと言えるのではないでしょうか? 

 薄いものでありがら、あちこちにある。複製され、拡散され、保存され、流通し、継承されている。人はありとあらゆるものを文字として残す。

うすい、薄い、淡い


 さまざまな場で同じものとして存在する文字は複製なのです。誰が(何が)、どこで、いつ、書いても同じでなければ、文字とは言えません。

 複製である文字は、希薄でありながら、それでいてしつこい。しぶといのに、薄っぺらいとも言えます。

 場を移りながら生きる(存続している)ものがあるとすれば、それは複製として存在している文字ではないでしょうか。

     *

 ルール、ストーリー、旋律、型もまた、広義の複製と呼んでいい気が私にはします。

 ルール、ストーリー、旋律、型もまた、場を移りながら生きて(存続して)いるからです。

 ルール、ストーリー、旋律、型は、平面上の文字や図や譜のたぐいに置き換えることができます。その特徴を箇条書きにすると以下のようになります。

・抽象でありながら具象でもある。
・白を地に描かれ、黒の点と線と面で構成される。
・紙や広義のスクリーン上にあるインクの染みや画素といった物でもある。
・非人称的でニュートラル。

付く、憑く、憑かれる


・「盤は昨日のとはちがう。」:

 人は板に付き・憑き、板に付かれ憑かれ憑かれてもいる――。そんなふうにかねがね感じている私は、上のセンテンスに目を開かれる思いをしました。その理由を説明するために、『名人』から別の箇所を引用してみます。

碁の天分は十歳ごろに現われ、そのころから勉強しないと、ものにならないと言われているにしても、私には大竹七段の話が異様に聞こえた。碁にかれて、まだ碁に疲れていない、三十歳の若さであろうか。家庭も幸福なのにちがいないと思えた。
(川端康成作『名人』新潮文庫・p.15)

「碁にかれて、まだ碁に疲れていない」では、意識的に掛詞が使われているようですが、その掛詞の意味を考えてみます。

 まず、上で述べた「人は板に付き・憑き、板に付かれ憑かれ憑かれてもいる」の意味を説明します。スマホやパソコンやテレビを思い浮かべると分かりますが、どれにも画面があります。

 画面は板です。現在、人は画面に代表される「板に付く」、つまり「板なしでは生きられない」生き物として日々を過ごしているようです。板は画面だけではありません。

     *

 板状のものという具合に意味を広げると、スクリーン、プレート、パネル、ボードもまた板だと見なすことができます。さらに、もっと薄っぺらいものまでを板に含めるなら、シート、フィルム、プレート、幕といった紙や布やプラスチック製のものまでが広義の板と見なせそうです。

 広義の板の共通点は、表面が平らで、そこに文字や映像が書かれて(描かれて)いたり、映しだされていることです。書かれるものとしては、古くは石板があり、今でも黒板があります。

 誰もが一日のうちかなりの時間を、板を「見入る」ことに費やしているとなれば、「人は板に付き・憑き、板に付かれ・憑かれてもいる」と言えるのではないでしょうか。

 付く、付かれる、憑く、憑かれる
 見入る、見入られる、魅入られる

 一方的ではなく双方向的にも私には感じられますが、これは人が一方的に双方向的だと感じるのであって、基本は一方的で一方向的なかかわりだと考えてもいます。ヒトは自意識過剰であり思い込みが激しい生き物なのです。

     *

 上でも述べましたが、碁盤をもちいる囲碁をボードゲームに含める考え方があります。

 板、版、盤

 ばん、ばん、ばんというわけです。

 そうした考えに沿えば、「「碁にかれて、まだ碁に疲れていない」という川端康成の言葉は、「碁かれて、まだ碁に疲れていない」とも読めそうです。

 碁盤、つまり碁に執着している。碁に取り憑かれていて、飽きてもないし、まだまだ碁というものに疲れてもいない、という感じです。

 盤・ボード・板という広義のスクリーンに取り憑き、飽きもしなく見入っている。こうした人の状況を、取り憑かれ、魅入られていると見なすことも可能でしょう。

まとめ


 碁盤というと重厚な立体をイメージしますが、大切な部分は上の平面です。平面状の板であり、さらにはスクリーン(画面)だと見なせます。要するに、なのです。

 テレビで囲碁の番組がありますが、大きなスクリーン状の「碁盤」が出てきます。新聞にも、印刷された「碁盤」が載っています。碁盤で大切な部分は二次元で表せると言っても言い過ぎではなさそうです。

 棋士によって「打たれる」という形で盤上を「移動する・移る」碁石の動きと位置による関係性こそが、碁というボードゲームの要である。そんなふうに私は感じています。

・「盤は昨日のとはちがう。」:

 石が盤上を移る、石の動きと位置がスクリーン状に写る、映る
 石が移る、写る、映る、遷る

 このように考えると、碁盤がスクリーンであることがわかるのではないでしょうか。

 棋譜は碁の対局というストーリー(流れ)、つまり「うつろい」を「うつした」もののようです。

 うつろいを ひたすらうつす うすい板

まぼろし、うつろう、まろうど


 うつす、写す、映す、移す、遷す
 
うつる、写る、映る、移る、遷る
 うつされる、写される、映される、移される、遷される
  うつらされる、写らされる、映らされる、移らされる、遷らされる

 こうした身振りと動作に「主」はいないのではないでしょうか?

「主」について、漢和辞典(漢字源・学研)で面白い記述を見掛けました。

・あるじ、ぬし、つかさどる、おもに、おも
・あるじ。所をかえて転々と寄留する者を客というのに対して、ひと所にじっととどまって動かない者を主という。
・霊魂が宿るしるしとして、じっとたてておくかたしろ。位牌(いはい)。

 万物が「客・まろうど」だという気がします。動きのある世界で「主」はまぼろしであり、「客・まろうど」は「主」を求めてうつり続けるのかもしれません。うつろうのです。きっと「うつろい・変遷」だけがあるのです。

 うつろいだけがある
 うつろいだけしかない
 あるとないのあいだでうつろうだけ

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