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映画『ルックバック』というタイトルの本当の意味について


(多少ネタバレを含みます)

京都アニメーション放火事件から今日で5年。

あの事件を知った時、私はいろんな意味で凍りつきました。

あの日たまたま伏見にいたこと、京都アニメーション制作の作品のファンだったこと、そして何より、何の罪もないクリエイターの人たちが一瞬にして理不尽な暴力で命を奪われたという事実に対する底知れぬ恐怖です。

そして一昨日、今公開中の映画『ルックバック』を観てきました。 

誰が見ても明らかな、あの事件についての話です。
主人公の藤野は作者の藤本タツキ氏、相棒の京本は京アニからとった名であることが想像されます。

そして、これも多くの方が指摘していますが、この映画にはそこかしこにクエンティン・タランティーノの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の影響を受けたシーンがあります。

シャロン・テート事件が失敗し、彼女がマンソンファミリーに殺されなかった世界線を描いた映画です。

これから伝えようとしていることを、私がうまく書けるかどうかわかりません。

でも、これは私自身の人生にも深く関わることであり、ものを書く人なら誰でも多少は心当たりのあることだと思うので、可能な限り誠実に、正直に、思ったことを書かせていただきます。

ひとすじになれない

まず初めに、これは今まで恥ずかしくて誰にも言ったことがなかったのですが、私はあの映画の主人公と同様、かつてはプロの漫画家を志していたことのある人間でした。

ものごころついた頃からコマを割り、わりと本格的に継続的に、あの映画の主人公のように誰ともつるんで遊ぶことなく、ひまさえあればひたすらに漫画ばかり描いていました。

それが筆を折ったのは、これもまたあの主人公と同様、高校の時に自分より遥かに絵がうまい人に出会ってしまったからです。

というより私の場合はもっとひどく、高校に入って所属した漫研がトキワ荘みたいなところでした。

在学中からプロをばんばん輩出するレベルの高い部で、同期もべらぼうに絵が上手い人か、ありえないほどセンスの良いお話を書ける人しかいませんでした。

私のささやかなプライドが粉々に打ち砕かれたのは言うまでもありません。

そして、あの映画の藤野のように「応援してくれるたったひとりのファン」すら持つことができなかった私は、Gペンとケント紙とスクリーントーンをかなぐり捨て、普通の大学生になりました。

ただそれでもなにか書きたいという強い欲求は捨てきれず、絵が駄目なら文章で、と今度は小説を書き始め、さまざまな職を転々としながら結局作家になりました。
(軽く言ってしまいましたが、大学出てから15年かかってます)

そこからは脚本や俳優業にも手を出し、『マツコ会議』にも出させてもらっていまに至るのは周知の通りです。

苦手だった人間関係も接客業を10年やることで克服し、その代償として黒髪は失いましたが、社交はできるようになりました。
(今は2週間にいちど美容院で髪を染める生活です。お金がかかって仕方ないです)

幸いお勉強は好きだったので脚本を書きたくなれば学校へ通ってやり方を習得し、芝居がやりたくなればこれまた学校へ通って1からメソッドを教わりました。

人間、なにごとも必死でとりくめばある程度の結果は出せるもので、その結果、私は脚本を書いたり映画に出たりしてお金がもらえるようになりました。

けれども、やってもやっても結局どこまでも澱のように残るのは、「自分はしょせんこの道ひとすじの人間にはなれなかった」という思いです。

よく言えばマルチタスクですが、悪く言えば器用貧乏。
結果的にこういう人生になったことを後悔してはいませんが、私がいまだに「この道ひとすじ」の人に対して気後れしてしまうのはそのせいです。

ひとりでもほめてくれるひとがいたら

だから、あの事件を知った時に私が受けた衝撃は半端ではありませんでした。

なぜなら、あれは私がなれなかった「この道ひとすじ」の人たちが、「なれなかった人間」の手によってその道を無惨に断たれた事件だったからです。

こんなことがあってよいものか。
自分でもびっくりするくらい動揺したのを覚えています。

そしてあの事件を知った時、私が真っ先に感じたのは当然ながら加害者に対する強い怒りでした。

どんな事情があるにせよ、許せることではありません。
したことの重さを思えば、どんな罰を受けても到底償い切れるものではありません。

ですが。

怒りを覚える一方、心のどこかで、果たしてこれは犯人ひとりを責めて終わる問題だろうか、と思ったのも事実です。

加害者は、被害者たちの側に「なろう」として「なれなかった」人間です。

劣悪な環境で育ち、生まれてからいちども人に優しくされたことがなかった、と供述しているとニュースで知りました。

もちろん、そんなことはしたことの重さを軽くする理由にはなりません。

ただ、と私は思いました。

この加害者に、ひとりでもほめてくれる人がいたらこんなことになってただろうか、と。

そんな折に、被害者の遺族の方によるある記事を読みました。
そこにはこう書いてありました。
被害者も加害者も生まない世界にするにはどうすれば良いのだろう、と。

怒りで過去を振り返ってはならない

詳しくは記事を探して読んでいただくとして、私がモヤモヤと言語化できなかったことがそこには書いてありました。

その遺族の方は言いました。
依頼を受けてあちこちで事件についての講演をするうちに、次第に自分と周りさえ良ければいい、という考えではいけないのではないかと思うようになってきた、と。

殺された自分の身内にはほめてくれる人がいた。
あの子には才能がある、その言葉を励みに彼女はまっすぐにプロへの道を進んでいけた。

けれども、とその遺族の方は言いました。
それはとても運の良いことで、身近から離れたところには、そんな運にはみじんも恵まれず、夢を潰された人もいるのではないかと。

その人たちの存在を無視して、運の良い自分たちだけが幸せに生きていって良いものだろうかと。

遺族の方にしか言えない言葉です。
間違っても部外者である私なんかに言う資格はありません。

でもこの記事を読んだ時、ずっと引っかかっていたものがすとんと腑に落ちた気がしたのも事実なのです。

怒りで過去を振り返ってはならない。

その時、思いつきました。

『ルックバック』の本当の意味です。

伏線の回収

そもそも『ルックバック』というタイトルには少し違和感がありました。
ジャンプ作家の作品なのに、ひとことでその内容がわかるタイトルではなかったからです。

意味は『振り返る』『背中を見る』みたいな感じですが、
それは両方とも作中で伏線が回収されています。
藤野によって引きこもりから外へ出た京本は、いつも藤野の背中を見ながら少しずつ前に進んでいきます。

そして京本が殺されてしまった時、藤野はそれが自分が京本を部屋から連れ出したせいだと思い込み、時空が歪んで過去とつながった一瞬、部屋から出る前の京本に向かって『振り返るな!』と警告します。

その叫びによって世界は分岐し、京本が殺されずに生き延びるもう一つの世界線が作品世界内で誕生します。

だけど今日、私はさらにもうひとつの『ルックバック』の意味を見つけてしまいました。

それはオアシスの『Don't look back in anger』という曲です。

この作品のタイトルはここからきている、と最近ネットで知りました。

Don't look back in anger(怒りで振り返るな)

そして恐ろしいことにこの『ルックバック』の漫画原作、ひとコマ目には「don't」という文字が、最後のコマには「in anger」という言葉が潜ませてあるのです。

(C)藤本タツキ/集英社/「ルックバック」制作委員会

タイトルに前後の単語をつなげると、

don't look back in anger
(怒りで過去を振り返るな)

という言葉が完成します。

ごく控えめに言ってこの作者の方は天才だと思いました。

そして同時に、私はこのことを知った時、もしかしたら、『ルックバック』の作者がこの作品を書いた本当の目的は、決して起こった事件へのやり場のない怒りだけではないんじゃないかと思いました。

本当の目的はかの遺族の方と同じように、このことにより「恵まれた側」と「そうでない側」に分断が生じてしまうのを避けるため、そのことへの警鐘を鳴らすことだったのではないか、と。

怒りで過去を振り返るな。
なぜなら、それはさらなる災厄を生むから。

うがちすぎかもしれません。
でも、私にはそう思えてならないのです。

なぜなら、oasisの曲『Don't look back in anger』の曲中の歌詞の中には、そのすべてのこのフレーズの前に『but』がついているからです。

“But don’t look back in anger” I heard you say.

だが、怒りで過去を振り返るな。

僕には君がそう言ったように聞こえたんだ。

だが、怒りで振り返るな。

気持ちはわかる、だが、しかし。

この『but』の重みはとてつもなく、いろんなことを考えさせられます。

今、世の中には『分断』がそこらじゅうに満ち溢れています。

互いに互いを「間違っているのは向こうのほうである」と決めつけ、双方一歩もゆずることのない最悪の状況です。

でも、その『分断』は、相手の立場や状況に少しでも寄り添い、思いを馳せてみることで、もしかしたらちょっとずつでも変えられるかもしれないのです。

そんなことは夢物語かもしれませんが。
綺麗事かもしれませんが。

昨今のいろいろな状況を見ていると、どうも私にはそんなふうに思えて仕方がないのです。


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佐伯紅緒
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