死を覚悟した話
2019年のある日、非常に鮮明に「死」を感じたことで確実に生き方が変わったという話です。
(誰に向けての話?)
まずひとつ目に自分のためです。この鮮烈な情動も、恐らく(悲しいかな)時間とともに薄れていくので、文字として残しておくことで未来に少しでも思い出しやすくするようにしたい。
もうひとつは、なにかずっと憧れや夢、行きたい場所、なりたいもの、そういったものがあって「でも」とためらっている、足踏みをしている自分をぼんやり感じている、それでいてやはりその憧れや夢を捨てきれず時折ふと検索窓にそれを打ち込んでみたりするような、温度の低い火をずっと胸の中で飼っている人に向けて書きたいと思っています。
死を覚悟した
2019年のある日、職場にて。
突然ガツン!と右側頭部を殴られたような痛みと共に、サーッと血の気がなぜか突然引いていくのを感じました。同時に、目の前の視界が狭くなっていくような、暗くなっていくような、なんともいえない閉塞感に包まれて、手足がしびれて脱力し、唇および顔がぼんやりと鈍く痺れ、すぐにろれつが回らなくなりました。
私は祖父が何度か脳梗塞で倒れており、そのへんの知識がふんわりとあったので「あ、これは脳だ」とすぐに思いました。脳出血か脳梗塞か脳溢血か、なんか名前はわからないけど何か「ヤバイ」ことが起きたぞ、と。
正直、私はそこまで詳細な知識があったわけではないので、それらについてよくよく知っている人からすれば、その後すぐ同僚に「救急車呼びます」とか声かけをして自分で救急車を呼んでいる時点で大したことないじゃん…と思われると思うのですが、正直本当にそのとき私は確実に、死がものすごいスピードで自分を追いかけてきているように感じていました。救急車が早いか死が早いか、みたいな感じです。
どんどんぼんやりしていく顔まわりの筋肉、目の前が狭窄していくのは「それ」のせいなのか、それとも死を覚悟して極端に緊張した精神のせいなのか。どこか冷静に「ああ、めちゃくちゃ焦って動揺してるからクラクラしているんだよな」と自分を見ている自分がいて、同時に「ああ、脳はなあ、脳はだめだよなあ。そうか、私はこれで死ぬんだなぁ」と死に対面して思考している自分もいました。
その一瞬に何を考えたか
真っ先に、生存可能性について考えました。
くも膜下出血の予後は、ざっくりいうと1/3が死亡、1/3に重篤な障害が残り、1/3がもとの生活に戻れる、ということをなんとなく記憶していました。(今一応ググりましたが記事によってこのへんのパーセンテージが違うので、正確な数値とは違ったらごめんなさい)
つまり、かなりの確率でもとの生活には戻れないということです。
2つの気持ちが同時に去来しました。
1つは、周囲の人たちに対する気持ちです。
久しく会っていない両親や、今朝もDiscordでしょうもない会話をした友人、TLでワイワイやっているいつメン、VRCで絡んでくれているいつもの人たち、そういった人たちに対して「ああ、もっと----しておけばよかった」という気持ちがとんでもなく強く大量に沸き立ちました。
「あのときはごめん」と
「いつもありがとう」と
「あのときありがとうって言いだせなかったけど本当はすごく嬉しかった、照れて上手に気持ちを伝えられなくてごめん」と
「あのときもしかして傷つけたかもしれない、気にしないでほしい、むしろ私の言い方が悪かったように思う、申し訳ない」と
「こないだ教えてくれたあの曲聞いたよすごくよかったよ」と
「実は驚かせたくて黙ってたことがあるけど言えそうになくてごめん」と
「この間打ち明けてくれた相談だけど答え伝える前に死んでごめん」と。
もう、思い出せる限りすべての個人に対しての「ありがとう」と「ごめん」がものすごい速度と量で溢れてきて、それらすべて私が今死ぬことで伝えられないまま終わるのだ、という強烈な後悔が襲ってきました。
もう1つは、自分の未来に対する気持ちです。
これは両腕が痺れてうまく文字が書けないことを実感した瞬間に(上手に表現しづらいのですが、両手がキンキンに冷えて指がうまく動かないような、軍手をはめて鉛筆を握っているような、なんともいえない「いつもの感覚ではない」感じです)ああ、もう自分は絵では食べていけないんだ、と絶望を感じました。死ななかったとしても、もう両腕は今までのように自分の思い通りに動かないのだろう、と。
私は手を使う仕事(主に絵)に特化して生きてきましたし、仕事抜きにしても私にとって「頭の中にあるものを手を使ってアウトプットする」ということは非常に人生のコアになる部分です。それを失うのだと実感したとき、巨大な絶望を静かに飲み込んで、それでも生きていくしかないのだ…とある種の覚悟を決めました。
この間、ものの数秒のことです。
頭の中に猛スピードで思考が走り、胸に強烈な孤独が生まれ、無理やりそれを飲み込んで、巨大な後悔と絶望と覚悟が腹の底に静かに着地しました。
一応、精密検査などしました(※余談です)
結論からいうとそのあと搬送先の病院につく頃にはピンピンしておりまして、CTスキャンを撮りましたが何もありませんでした。
恐らくパニック発作に近い、心療内科的な問題じゃないか?との決着だったので、とりあえずは過度に不安になる必要はないと思っています。
とはいえ、あまりにも怖かったので(※実はこの後もう一度同じような症状で自宅で倒れており)精密検査をしていただきました。
結果としては、脳動脈瘤がありました。(※上記の頭痛案件とは全く関係ありません)
字面だけ見ると「マジか…」ってなるんですが、子猫の乳首みたいにちっちゃいサイズの動脈瘤の「芽」のようなもので、破裂の可能性もオーナインシステムばりに低いものです。交通事故で死ぬ方がよっぽど確率が高いです。
一応今後、年に1度ほどMRIを撮ってその脳動脈瘤が育っていないかを確認しましょうね、という程度の軽い経過観察という形で決着がつきましたので、ご安心ください。
ニューゲームはじまる
やはり、あんなに強烈な後悔を噛み締めたあと「やっぱ生きてる!」ってゲーム続行したので、とにかくあのとき走馬灯のように頭によぎった人たちに「いつもありがとう」や「あのときはごめんね」等をなるべく素直かつ率直に伝えるようにしはじめました。恥ずかしいとか、言いづらいとか、あの巨大な後悔の念に比べたら屁みたいなものです。
今まで付き合いがあった人たちにそうしてちゃんと姿勢を正して向き合うことはもちろん、これから出会う人たちにも同様に即時でちゃんと感謝や謝罪はしっかり伝えていこうと心に決めました。
「あのとき言っておけばよかった」はマジで辛い後悔になります。ソースは私です。あんなに悔しい死に際はありませんでした。本当に辛かったです。
また、なんとなく日々「やりたいな〜」とか「行ってみたいな〜」とか漠然と憧れていた物事に対しても、「マジで人はいつか死ぬ、突然死ぬ、避けようがない死が突然来たりする」ということを痛感したので、とにかくやりたいことはどんどん実行していこう、と前のめりで生きていくことに決めました。
絵もそうです。今まで「時間が出来たら描きたいっすね〜」とかヘラヘラ笑って逃げていたものを、途中で挫折してもいいからとにかく手を出してみようと手を動かしはじめました。(※それゆえ今BLゲーム作ってます)
いつ腕がおじゃんになるか分かりません。腕だけではない、目や声帯、足、体のパーツすべてが「突然使い物にならなくなる」可能性があります。今動くなら、今やってください。やらなかった後悔よりやった後悔の方がマシといいますが、さらに、「やらなかった」の理由が明確ではなく「なんとなく」とか「後回しにしていた」とかの場合、本当に未練を残して死ぬことになります。かなり辛いです。
道を完走できなくてもいいです。少なくとも道半ばで死にたい。そう思ったので、私はもう、一歩目を踏み出すことをためらうのをやめようと思います。
2020年、すでに結構楽しい
そんなこんなでそれ以来スパッと素直に生きるようになったら、なんか人生がちょっと楽しくなってきました。
嬉しいときには素直に嬉しいと伝えたり、申し訳ないと思ったときには素直に頭を下げたり、常に後悔のない態度で人に対面していると、なんか心が楽になったような気がします。結構おすすめです。
また、夢に関しても(多くは書きませんが)少しずつ進めています。難しいことも多いですが、夢を見ながらも実行しなかったあの期間の、泥のような怠惰からくる諦めと半笑いを混ぜたものをすすっているつまらない時間よりはずっとずっと楽しいです。
多分、これだけ素直に生きていても、またもし急な死が襲ってきたときは何かしら後悔の念を抱いて死んでいくのだろうなあとは思いますが、それでも去年のあのときの、生ぬるい生き方をしてきた自分に対する強烈な嫌悪感や悔恨よりはずっと自分を許して死ねると思ったので、この生き方をなるべく保っていきたいと思います。
最後になりますが、みんな(クソデカ主語)には健康で楽しく生きていってほしいなあと思います。
この人生を精一杯楽しんで走り抜けましょう。
zen