「幸福」とは何か?『ジョーカー』と『幸福な監視国家・中国』読書会【闇の自己啓発会】
闇の自己啓発読書会は、2019年11月9日、都内某所で梶谷懐・高口康太『幸福な監視国家・中国』の読書会を行いました。が、恒例の脱線により、映画『ジョーカー』の話が多くなってしまいました…。伊藤計劃『ハーモニー』や、映画『天気の子』の話も交えつつ、その模様をお伝えしていきます!
※これまでの活動については、こちらをご覧ください!
※読書会記事、募集してます。
※以下、『ジョーカー』『天気の子』のネタバレがあります。ご注意ください。
■参加者一覧
役所暁:編集者。最近はゲームの影響で紅茶ばかり飲んでいる。好きな紅茶はベルガモットティー。
ひでシス:Webエンジニア。最近は会社の下にファミマがある影響で紅茶ばかり飲んでいる。好きな紅茶はファミマの900mlペットのやつ。
木澤佐登志:文筆家。最近は会社の下にファミマがある影響で紅茶ばかり飲んでいる。好きな紅茶はファミマの900mlペットのやつ。
江永泉:ブロガー。最近は特に影響はないがモンスターばかり飲んでいる。好きなモンスターはキューバ・リブレ。
■映画『ジョーカー』について
【暁】今日は、皆さんと『ジョーカー』の話をするのを楽しみにして来ました。
【ひで】 ジョーカー観ました。ジョーカーって「虐待児のその後」とか「貧困層と上級国民の対立」とかそういう観点で語られることが多いみたいですが、ぼくは人間の人生に興味がないので「ちゃんと貧困対策をするべき」みたいな経済政策的な感想しか出てこなかったです。市の福祉カウンセリングが切られたのも緊縮財政のせいですしね。
【暁】 なるほど。僕はアーサー(ジョーカー)に感情移入しすぎて、1週間くらい戻ってこれなくなりましたね…。「世間は病気の者に『普通であれ』と言って追いつめる」みたいな独白シーンで激しく首を振りまくり、アーサーがパンパン撃っていくシーンで拍手喝采しそうになりました。最後はスカッとジャパンならぬスカッとアメリカで、ハッピーエンドだったなぁと。アーサーが僕に笑顔をくれた。
『天気の子』でも金のない主人公が偶然銃を手に入れたけど、人には当たらなかったのと可愛げがあるから救われて、一方のジョーカーは可愛げがない上に銃を撃って当たっちゃったからああなったと思うと、銃のウデマエがありすぎるのも困りものですね。無論、全てが彼の妄想という説もありますが…。
僕も愛想がないと言われる人間なので、可愛げのない人間がどうやって社会に居場所を作っていけば良いのかというのは、考え続けなければいけないなと思います。
【ひで】 ジョーカーの居場所かぁ。ぼくはまず金と自尊心の問題が大きかったのかなぁと思うんですが。木澤さんはジョーカーに本当に必要だったものはなんだと思いますか?
【木澤】 LSDじゃないですかね。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』でブラピがLSDを受け取りますが、「チェーホフの銃」ならぬ「チェーホフのLSD」(!)で、あれがちゃんと最後に大活躍(?)する。あれを見ると、同僚から銃かLSDのどちらをもらうかというガチャがすべての分かれ目という気までしてきます。まあ実際、少量のLSDには抗鬱作用があるとも言われてるし、毎日”紙”食ってたら光属性のジョーカーに「変身」してたんじゃないですかね。PEACEでLOVEなヒッピー版ジョーカー、皆さん見たくないですか?
あと、アーサー(ジョーカー)って酒をほとんど飲まないんですよね。代わりにタバコをめっちゃかっこよく吸ってみせる。もしアーサーがアル中だったら絵面が本当に酷いことになってたと思う。僕のオールタイム・ベストに『バッド・ルーテナント/刑事とドラッグとキリスト』(1992)っていうハーヴェイ・カイテル主演の映画があるんですけど、主人公の汚職警官がどうしようもないアル中かつヤク中で、ひっきりなしに飲むか吸うか打つかしてるんですよね。それで後半になるにつれてまともに歩くことすらできなくって、常に壁にもたれたり這いつくばったりしながら移動していくという、まあそんな感じの映画です。その点では『ジョーカー』における「身体」の扱いは対極ですよね。どんどん身体性が解放されていくというか、ある意味で一種のダンス映画ですしね、もはや。
【江永】 そうですね。冒頭の化粧による顔づくりしかり、「オヤジ狩り」的なものに遭って袋叩きにされるところしかり、顔や身体のポーズがとても印象に残る映画で私は元気になりました。
身体性、動ける身体とか動けない身体とかの話は面白いですよね。例えば、現代演劇で、チェルフィッチュ『三月の5日間』(初演2004年)っていう作品がよく知られているはずですが、話す内容と乖離した、なめらかで不可解な身振りを見せる演劇というのが現在形であって。(暗黒)舞踏などとも身体動作のありようでは似ている気もするのですが、そういう、身体動作のレベルで規律に上手く従えない、従わないカラダを見せるという思潮が脈々とあるっぽいです。
即時に言われた通りの動作をする身体が要求される制度があるとして、それへの対抗の一形態という感じで(近年のものだと、2018年初演の、オフィスマウンテンによる『能を捨てよ体で生きる』などが印象に残っています)。よくもわるくも兵士になれない身体、指令を受け付けない身体や周囲に同調できない身体がなすこと、できることを評価する文脈があるのかなと思います。
【ひで】 ジョーカーのやるダンスは喜びや達成感を全身で表現するものの部類だった感じがあります。
【江永】 そうですね。でも同時に、ただ手前勝手に手足を動かしているという訳でもなかったと思います。むしろ、途中でやっていたTVショーの動きとかに近かった気がするんですよね。アーサーはピエロとして踊ったりもしつつ、TVショーにでる夢を抱いていたので。
踊りのボッチ感とスタイリッシュ感で言うと米津玄師の「LOSER」のMVとかを重ねてみたくなりました。
【木澤】 僕は『ジョーカー』のダンスシーンを見ながら山戸結希監督の諸作品を想起しました。彼女の作品でも身体性やコンテンポラリーダンスがとても重要なファクターとして取り入れられている。『5つ数えれば君の夢』とか全人類に観てほしいんですけど、とりあえずYouTubeで見れる作品だったら、おとぎ話「COSMOS」のMVでしょうか。これもとてもエモい映像作品になってます。
【ひで】 へー。たしかにジョーカーのダンスと似てますね。突然街中で人目をはばからずに踊りだす感じが
【江永】自分が想起した、踊りのあるMVだと、amazarashi「スピードと摩擦」っていう曲もありました。
【暁】OPとEDは良かったけど本編はイマイチだったアニメのOPでしたよね。
【江永】なまじ登場人物をまっとうな市民にしようとして失敗している印象のあるアニメでした。それはともかく、この実写MVを連想した理由は、トイレです。ジョーカー(アーサー)も、電車から駅構内にかけてWASP系のサラリーマン三人衆を銃撃で絶命させたあと、たどり着いた公衆トイレの中で踊ってますよね。
あと、学生時代はDQNだったのかと思わせるような傍若無人さを見せる酔ったWASP三人衆についてですが、発作を起こして笑い続けるアーサーを3人でタコ殴りにする前は電車内で非WASP系っぽい黒髪の女性にクソ絡みをしていたはずで、ある種、細部がすべて陰惨なバージョンになった『電車男』の一場面を見せられてるみたいな感触もありました。
で、さっきも話題にあがりましたが、『天気の子』のキャッチの男性を銃撃しようとする場面がそうした方面からも容易に連想されました。キモくてカネがなくて家族から逃げ出せずに介護を続けてオッサン化した帆高としてのアーサー? そういえば帆高が拳銃を所有しているのって陽菜にとってどういう重みがあったのでしょうか。その後の展開的には大して気にならない武力だったのか。
すみません脱線しました。で、アーサーは、ひとしきりトイレで踊って鏡に映った自分のポーズを眺める。アーサーは、鏡にせよテレビにせよ、振り付けを何度も見ている。いいプレイを反復して、自分の身体で体現しようとする(話が後半に飛びますが、TVショウに出るための自主練のところで、虚空で幻想と会話しているかのようにも映る紙一重な場面があったのが印象に残っています)。
ほかにも、メディアに描かれた歯を剥き出したピエロ風の絵を見て、自分も歯を剥き出しの顔をしてみたり。アーサーは他の奴を煽動したいテロリストじゃなくて、理想の自分になりたいナルシストなんですよね。
で、自分を邪魔する奴とか舐めたり利用したりする奴は排除する。抑圧されては発作を起こす(私の印象だとアーサーの発作のタイミングは感情が昂ってるのを抑圧してる感じのときでした)俺の悲劇を聴いてくれ、から、バリバリ動く俺という喜劇を邪魔するな、になる。
この意味でもダンスというか身振りが重要に思えます。うまく踊るコツは恥を忘れること、つまり身体をこわばらせ萎縮させる内なる常識や空気を振り払うことですから。アーサーは遵法精神も振り払っちゃったわけですが。
まあ、恥を捨てても、足腰ガタガタとか腕肩貧弱とかなら、あんな話にはならず、異様に頑丈かつムキムキの身体だから、あんな展開になるわけで、フィジカル強いだけでなく、TVショウ、ステージの映像とか見てめっちゃトレーニングしていたんだろうなと。ボンネット上に立ち上がる場面とか、ボクシングものの話で倒れた奴が立ち上がるみたいな感動がありました。
【木澤】 そういう意味でもやはり酒を飲んでない=アル中でない、というのは必然という印象ですよね。もしアル中だったら酔拳的なダンスを披露してくれたかもしれないので、それはそれで見てみたい気もしますが。
【暁】 なるほど。自分は身体性に全く関心のない人間なので、なんか嬉しそうだなぁくらいの雑な解像度で見てました。皆さんの見方が新鮮です。
映画を見て「アーサーくんはやっと自分が傷つけられない、承認されるコミュニティを見つけられて良かったな」と思ったんですが、友人にその話をしたら「あれはアーサーではなくジョーカーが承認されただけじゃない?」ってツッコまれて、結局ジョーカーというペルソナしか承認されてないんだなって思いました(ペルソナ5の話ではない)。
【江永】 でも、アーサーも、もうジョーカーからアーサーに戻るつもりはないんじゃないですか? 聴取を受けても話すのを拒否する訳ですよね。かつてソーシャルワーカーにあれほど話をきちんと聴いてもらいたがっていた、あのアーサーが。ペルソナを生きることにした感じなのかな。アーサーに戻るつもりなら、ラストで言葉を発するはずだし。
【ひで】 羽化みたいな感じかな。めっちゃいいこといいますね
【暁】アーサーが“開花”してジョーカーになり、セカイの秩序は侵される。つまりジョーカーは『沙耶の唄』なんですよね(ぐるぐる目)。
【江永】そうですね。輝きに満ちた廊下を血まみれの素足で歩いていく。リアルコメディアンとして頑張るぞ、「希望は前に進むんだ」、という感じで。
アーサーのジョーカーは、『ダークナイト』のジョーカーとは真逆だった感じがしますね。
【木澤】 そうですね。僕もそれは思いました。
【江永】 『ダークナイト』のジョーカーで印象深いのは、確か作中での初登場の場面だったと思いますが、ピエロのマスクした強盗が次々真の黒幕みたいに登場してはそれ以前のピエロ野郎を裏切ってバンバン撃っていく。で、その最後にマスクでなく、あらあらしいメイクのジョーカーが来る、ってところ。マスクの連中は所詮前座のパチモノだ、とも解せるんですけど、あれって、顔のある市民に戻ろうとした奴が次々死んでいく、という場面に解せるように映ったんですね。何者かであってはならない。
ダークナイト・ジョーカーは本当に誰でもいい誰かでしかなくて、暴力でシステムをグチャグチャにしまくって、市民が闇落ちしたらそれでいいや、ってキャラに見えたんですね。市民社会の限界としての悪、みたいなものの代弁者でしかないように映る。だから、ヒーローというキャラを壊すことにしか執着がない。それで他の連中のヒーロー面を崩そうと執着するあまり、マヌケをして捕まるわけですが。
対して、アーサー・ジョーカーは原則的に私怨で暴力を振るう。市民社会がどうこう、というのは、副次的な結果でしかない。
ピエロを辞めさせられるときに嘲笑せずに心配してくれたり、その後の場面で、アーサーの部屋から逃げようとしてドアの鍵に手が届かなくて、アーサーに鍵を開けてくれないかと頼んでくる小人(ゲイリー)には、感謝の言葉を述べる。アーサーをクレイジーな落伍者として舐めたり蔑んだり嘲笑ったりせず、ただ同僚として扱ってくれたから。
と言いつつ、彼をおどかしてビビらせたりもしていたはずなので、私はアーサーを贔屓目で見すぎかもしれませんが。
【暁】アーサーにはあのゲイリーさんと仲良くするルートもあっただろうに、彼のことを内心バカにしてたから繋がれなかったんじゃないかという説もありますね。そこで連帯せずにイマジナリー彼女に救いを求めてしまう…という難しさがあります。
【江永】社会がジョーカーを生み出さないためには、的な話で言えば、アーサーの境遇がどうというか、「オヤジ狩り」に同情した振りして自衛にと銃を渡して、後からシラ切って職場から追放するような悪事をするやつ(ランドル)をどうにかした方が、よい気もします。他人に武力を与えながら社会からの居場所を奪うとか、治安的な意味で最悪の行為だと思います。
【木澤】 観ていて『ダークナイト』の客船パートに象徴される「善良な市民」(=シティズンシップ)は『ジョーカー』の世界にはもはや存在しなさそうだなと思いました。上流階級でアーサーのような弱者をいたぶるエスタブリッシュメント側の人間と、ジョーカーを支持する(ポピュリズムに流されやすい)若年貧困層にゴッサムシティが二分されてしまっている。
【暁】 『天気の子』も新海誠監督が意図的に、メインキャラ二人を貧しい設定にしてますね。パンフレットで『君の名は。』の頃とは変わってしまった生活実感を反映したと言ってましたし、世界的にも、貧困への問題意識は高まっているのでしょう(高まってくれないと困る)。
【ひで】貧困……ゴッサムシティが貧しいのは1980年代のアメリカで金融危機後の金融街に近い都市だからですよね。1980年代以降はレーガノミクスで軍需産業が活発になるはずなので、ぼくはジョーカーは海兵隊基地のあるサンディエゴに引っ越してバーでショーをやる人になれば良かったと思います。ゴッサムシティから出て稼げる場所に行けば金銭的には救われたんじゃないかと思うんですよね。
【暁】なるほどー。稼げる場所に行くというのは一つのアンサーですね。僕も稼げる場所にいきt(略)
※ここからようやく、本の内容に入ります。
『幸福な監視国家・中国』
【 CONTENTS 】
■まずは本全体の感想を
■功利主義と墨子
■人間について
■第1章 中国はユートピアか、ディストピアか/第2章 中国IT企業はいかにデータを支配したか
■第3章 中国に出現した「お行儀のいい社会」
■信用スコアとマーケットの親和性
■第4章 民主化の熱はなぜ消えたのか
■第5章 現代中国における「公」と「私」/第6章 幸福な監視国家のゆくえ
■「合理性」とはなにか?
■第7章 道具的合理性が暴走するとき
■終わりに
■まずは本全体の感想を
【ひで】 まずはザクッとした本全体の雑感について話し合いましょうか。前半はテクノロジーの話をしているんだけども、後半は政治哲学や倫理の話をしていましたよね。中国の最新のIT・経済の話をしている本で、こういう文系的な話をちゃんとしてる本は初めて見ました。
【江永】 後半では近年のいわゆるナッジとかマーケットデザインとかの話や、アーキテクチャを整備して統治を改善しよう的な分野の議論などを、テクノロジーだけでなく、公共哲学とか批判理論とかと架橋するかたちで紹介していて、よかったですね。法哲学や政治哲学、行動経済学などの分野と言えるのでしょうか。
【木澤】 ココらへんの分野の本をもっと掘ってみたくなりましたね。意外な収穫というか。おかげでAmazonの欲しい本リストが大変なことになってしまいましたが……。
【暁】 僕もそう思います。前々回に中国ルポを読み、前回『ラディカルズ』を読んで、理論に裏打ちされた中国や日本のルポを読んでみたいな〜と思っていたところなので、合致しましたね。
【木澤】 この本の特色というか基調低音としてある一貫した主張に、中国異質(他者)論的な考えに対するアンチテーゼがありますよね。中国は全体主義かつ権威主義的な監視国家で、欧米的な自由が保証された国に住んでる我々とはかけ離れている、よって所詮は(?)対岸の火事にすぎない、といった中国を徹底して自分とは無関係な「他者」として表象する言説に対するアンチテーゼ。そうではなく、むしろ中国の情況を我々の情況とあくまで地続きなものとして捉える広い視座に立つことで、欧米や日本でも進展しつつある問題を考える上でもとても有用な見取り図を提示している。そういった点でもとても信頼できる本だなと思いました。もう少し具体的に言えば、「個人」の自律性や熟議ベースの「市民的公共性」を前提とした、言い換えれば「自由」と「幸福」の一致が可能と素朴に信じられていた19世紀以来の近代リベラリズムが20世紀から現代にかけて、AI等の新たなテクノロジーの登場やグローバリズムの加速化に伴い機能不全を起こしてて、現代中国はそれに対するひとつのオルタナティヴを追求している、という。本書の主要トピックでもある、AIやビッグデータによるアルゴリズム的統治性というポスト・ヒューマン的な方向性はまさしくそのひとつだし、その意味では我々の未来とも決して無関係ではないはずですよね。
【ひで】 あああ。たしかにAIで統治をやるのってポストヒューマンなんですね。
【江永】 公共哲学は人間レベルの水準で止まっていた、という見立てになるのでしょうか(ただ、ステークホルダー・デモクラシー論などで知られる松尾隆佑の論文「権力と自由――「自然の暴力」についての政治学」2011年など見るに、ヒューマンの側から非人間的なものを包摂する理論的な試みも進んでいたようですね)。個人がいて、個々人の熟議に根差すべき社会があって、という状態で理論が止まっていた。対して、現実はもっと先に行っていた、みたいな。
【暁】政治思想界隈だと「今こそ熟議型民主主義の時代を!」と言う人もいますけど、所詮机上の空論というか、あまり現実に影響を与えられていないという敗北感はありますね…。
その点、人や徳でなくアルゴリズムが人を統治する時代が来つつあるという話は、課題もあるけど現実味もあって面白いです。AIや「信用スコア」が人の行動を制御するというのは伊藤計劃の『ハーモニー』みたいだなと。同作で、市議会議員のおばさん(当然スコアが高い)が席を譲ってくれたのに、主人公(優しいディストピアに反逆したい)が突然キレてドン引かれるシーンとか思い出しつつ読みました。
【江永】人間をインダストリアルに統治する、って感じでしょうか。悖徳な話かもしれませんが、気にはなってしまいます。自然権どうするか、みたいな話にもなるのでしょうか。教育を投資とする物言いから、そう遠くないところに、教育を、人間を加工してよき市民なりよき国民なりよき労働者なりを生産する営みと捉える視点もある気がしますが、そういう見方で言えば、人間は教育に失敗しても廃棄できないですからね。製品は失敗した(要求される品質を満たしていなかった)ら廃棄して作りなおした方がロス込みでもコスパがよかったりしますが。
【ひで】 生産した人間を潰すのこわい。労働者をオンデマンドでサプライチェーンが生産するトヨタ生産方式で製造するわけですね。
【江永】不謹慎な話を続けると、廃棄はできないけど追放はできたり、不法投棄というか、強制的に収容したりはできる訳ですよね。いわゆる、スラムを念頭に置いて考えて見たりするならば(人間の尊厳的にはほんとうにひどい話になりますが)。
また、足りないからすぐ増産、って訳にはいかないが、外部から輸入することはできなくもない。労働者のストックは減らしたいが労働者のフローは増やしたい、ということになりそう。人倫を踏み躙るような物言いになってしまいますが。
ともあれ、アルゴリズムって、言語に依らないのがいいですよね。
【ひで】 「アルゴリズムは言語に依らない」っていうのは、日本人が中国に行ったらジーマ信用のアルゴリズムに従って中国人と同じような行動様式になる、っていう意味で言ってますか?
【江永】 はい。言語というか、自然言語というか。それともコミュニケーションのスキルとか呼ぶ方が適切なのか。
言い直してみます。サプライチェーンマネジメント風に、それまで面識のない人間たちを集めて協働させる状況を念頭に置くと、同じ行動をとらせるにしても、指示を出して説得するより、数字で誘導する方がラクなんじゃないか、ということになりそうだ、と思いました。
状況に応じて有効性は変わるでしょうが、新参の成員を教育するコストが担えない、かつ、成員の入れ替りが高い状態だと想定すると、特定の️手順に則った数字の増減を示すことで個々の挙動を誘導する方が、個々人ごとに習熟度にばらつきがある(語彙の多寡や各語の定義の粗密が個々にわかれる)言語で指示を重ねて協働を目指すよりも、ラクそうだな、と思いました。
アルゴリズムに従ってもらう、という仕方の統治が進んでいったら、人間の言語っていらなくなるんですかね。
【ひで】 いや言語は残るでしょう。アルゴリズムによる統治はただの統治システムでしかなくて、国会議事堂や政治家がいなくなっても私達の小市民的な生活は続行するんですよ。だから生活のための言語は残り続ける。
【暁】 言語とアルゴリズムというと、外国から出稼ぎに来た人たちが夜中に騒音を出してしまって、地域は言葉も通じない中それとどう向き合うか、という話を聞くけれど、アルゴリズムで「騒音を出したら点数が下がる!」っていうふうになったら一挙に解決されそうじゃないですか。
【ひで】 オモロイ
■功利主義と墨子
【木澤】 たとえば人工知能(AI)のアルゴリズムって内部がブラックボックスになっていて、どうしてその結果が出力されたのか外側にいる人間にはわからないって言われますけど、中国においてはそういった一種の超越的な不可知論と「公共性」概念として重視されている儒教の「天理」概念が癒着した形で結びついている、という指摘が面白いですね。万物=自然を通底して支配する超越的な法則としての天理=AIアルゴリズム、というか。
【江永】 中国思想と功利主義だと、墨子がホットになりそうな感じが個人的にはしています。確か、ピーター・シンガーとカタジナ・デ・ラザリ=ラデクの共著『功利主義とは何か』でも、墨子が功利主義の先駆として挙がっていたはずです。
墨子って一般には、平和主義と博愛思想という売り文句で知られているっぽいのですが、私が読んだ感じだと、緊縮支持、(奢侈)文化不要論、有能者による支配、生産力至上主義、で、オルタナティブを許さない監視国家を推奨するという、近年のヤバいと言われそうな考え方のデパートみたいな側面もあるように感じられました。
【木澤】 それはどういう方法で功利主義を導き出すんですか?
【江永】 「法儀」(第四篇)だと以下みたいな感じでした(これは墨子のメインとされる諸篇、いわゆる十論には含まれていませんが、十論のうちの「天志」上中下篇を要約した内容と言えます)。
どんなことにもモノサシというか則るべき法がある。統治のモノサシは何か。人間は、しばしばクソなのであてにならない。だから、天、つまり自然だ。天はすべてを有らしめてすべてを食わせている。ゆえに、天は人がたがいに愛し利することを欲している。逆に、天は人がたがいに憎み害することは欲していない。天はすべてを統括している。ということで天に従ういい人には幸福が与えられ、天に従わない悪い人には災禍が与えられる。
法儀篇はだいたいこんな感じです。
で、それを念頭に墨子の十論を雑にまとめるとこうなります。天に倣って愛と利を増やすのが大事。だから、生活への実利のないものへの経費は削減しつつ少子化対策しろ(「節用」)。無駄に費用かかるものは廃止、葬式は簡素でいい(「節葬」)。いい音楽聴いて旨いメシ食ってるエスタブリッシュメントは自重しろ(「非楽」)。侵略戦争は豊かにならないのでダメ(「非攻」)。身内しか大事にできないやつはダメだから共同体は解体、家族も身分も解体、自他の区別もダメ、誰もが誰であれ誰もを天に従って愛して利するのでなければならない(「尚賢」「兼愛」)。階層は全部スペックで決めること。天の人間版の代行者が高スペ人間ハイエンドの天子になり、天子の代行、その代行、代行の代行、と連なる、高スペから低スペまでの監視社会のみが正しく治まるので、皆でより下位の不正を監視して、より上位(より高スペな存在)からの指令には服従すること(「尚同」)。これらができないのは努力不足であって宿命とか持ち出したらダメ、人間の自己責任(「非命」)。もしズルしようとしても天はもちろん監視しているし鬼神が天罰くだしに行くから、絶対に(「明鬼」)。――ネオリベ感を強調してしまいましたが概ねこんな主張です。主君や家族を愛するとかイデオロギーやんけと批判するところに、人類種の特権視はイデオロギーだから撤廃せよと迫る、ある種の功利主義的な議論と同じ、凄みを感じさせられます。
天の意向に逆らう有害なやつは、鬼神がやってきてボコボコにする。天や鬼神は人間ヒエラルキーの上位にあるわけですね。人間のトップがいて下々まで監視の目が張り巡らせられるわけですが、ヒエラルキー組織の途中のやつがおかしかったらソイツ以下が末端までダメになるので、天が災禍を与えるし、鬼神がやってきてボコボコにするという理屈になっている。
【ひで】 あ、墨子のいう『鬼神』って実在の役職じゃなくて想像上のものなんですね。
【江永】 はい。というか、人間よりハイスペックな連中で、実在する利害関係者たちという設定になっているはずです。天や鬼神の利に反する人は罰や災禍をくらう。天が単に君主などの徳と相関する自然ではなく、まさに唯一の人格神のようになっている(見えてしまう)し、鬼神が実在すると主張しているところは、墨子の思想でも特にヤバいところです。
【暁】かつての中国では一般に、天に選ばれたのが天子であって、天子の統治が悪いと「天命を失った」として天災が発生するとされた。だから元号を変えたり天子を入れ替えたりするというのはわりと共通見解なんだけど、そこで天や鬼神を擬人化?するというのは墨子さん斬新すぎますよね。ちょっと世に出るのが早すぎた感じ。余談ですが、こういう天命などの概念が出てくる骨太な中華風ファンタジーが、今久しぶりに新刊が出て話題の小野不由美『十二国記』です。めちゃおすすめです。
ところで、墨子って「愛」のイメージもありますが、武装集団でもありますよね。 そもそもなんで武装集団だったんですか?
【江永】 『機動戦士ガンダム00』のソレスタルビーイングみたいな感じです。雑に言うと。侵略戦争をする側が懲りるように防衛側に加担してボコる。誰彼問わず、侵略戦争を起こす奴の敵に回る。という感じです(そういえば、『ガンダム00』には量子コンピューター「ヴェーダ」が登場しますが、墨子のいう「天」は、地球環境を掌握した超AIというか、いわゆる「コンピュータ様」だと考えるとしっくりくるのでは? と思ったりします)。
魯迅が短編小説にしていますが(「非攻」1934年執筆)、墨子が新兵器を開発した大国の責任者と戦争シミュレーションで勝負してリアル戦争を止める話とかがあり(「公輸」第五十篇)、胸アツです。戦争学バリバリ修めてる感じ。
ちなみに墨子は、侵略戦争を起こすやつを死なせるのは、昔の聖人も(暴君といった)天に背く敵を誅していたしOKで、例外です、という正当化をしていたはずです。ノリが荒らし対策に近い。ネットの荒らしは「人間」として相手にせずに削除していこう、みたいなノリだと思います。
なお、墨子とそのフォロワーの行末に関しては、正確な記録が残っていないらしい。ただ、コミュニティで内部分裂があったり、防衛戦で負け、契約不履行したからと集団自決した連中もいたとの逸話もあったり、中々、長くはやっていけなさそうな武装集団の雰囲気が、残存文献から醸し出されている模様です。
あと、儒家を倒すための想定問答集めいた文献があるんですけど、めっちゃ性格の悪いインテレクチュアル・ダークウェブ言説みたいな感じでした。独自の論理学(論理学とは言っていない)とか、軍事的な技術にも関わりそうな自然科学的な知見とか(「経」「経説」「大取」「小取」などの諸篇や、「公輸」以下の諸篇。科学史家が墨子を高く評価したりするところ。ただ文の欠落や乱れも多い)もあり、また「非儒」篇という、いわば「儒家の偽善は完全論破なんだが?」とでも言いたげな文章も残されている。
【暁】なるほど。特殊な理論を形成し、その後の消息がわかっていない…。墨子は、異世界転生者だったのかもしれないですね。
【木澤】 嫌な異世界モノですね。
【暁】 統治と功利主義がこうやって根付いていた中国が、今本書のようなアルゴリズム社会になっているのは面白いです。
【江永】 そうですね。儒墨だけではなく、道家や法家とかも含めて、現代政治と絡めながら評論や研究をする流れが膨らんでいったら面白いな、と思います。
【木澤】 墨子関係でオススメの本ってありますか?
【江永】 中公クラシックスの『墨子』(金谷治 訳2018年)がいいですよ。解説(末永高康)が良かった記憶があります。また、湯浅邦弘『諸氏百家 儒家・墨家・道家・法家・兵家』(中公新書2009年)など。
■人間について
【江永】 この『幸福な監視国家・中国』の後半の話って、東浩紀『一般意志2.0』などが論じた熟議なしの統治という夢が、まがりなりにも一部は実現されたんだという内容にも解せる気がします。不本意な形での実現ということになりそうですが。(追記:十分に適切な表現ではなかったので、補足をする。『一般意志2.0』は、情報技術の進展によって直接民主制を再興しようとするような(A)「新しい熟議民主主義」や、メンバーの経歴や動向を収集しサービス改善に活用するプラットフォームビジネスに似せた仕方で国家を運営しようとするような(B)「データベース民主主義」とは異なるモデルとして(C)「無意識民主主義」を提案している。それは「大衆の呟き[ビッグデータを利用して可視化される非選良の人々の思いや願いの表現]によって選良[各々の熟議に参加するための専門知識や技能を持つ人々。該当者は論点ごとに異なる]の暴走を抑制する」(第11章 文庫版212頁 [ ]内は引用者注)というものとして構想されている。「熟議なしの統治の夢」が相当するのは、(B)の「データベース民主主義」であり、後述の第15章での「ユートピア」は(C)が念頭に置かれた記述になっている。ちなみに、2011年時点での「代表的なネットサービスの名前を借りて」(第13章 文庫版243頁)、比喩的には、(A)を「ミクシィ民主主義」、(B)を「グーグル民主主義」、そして(C)を「ツイッター民主主義」と形容してもいる。第14章での三者の説明も参照のこと。)
『一般意志2.0』は人間を信じている本なので、教育にこういうアルゴリズムの力を利用できると論じていたんですよね。
『一般意志2.0』第15章でこの本が目指す統治の実現したユートピアに住む人物が例示されています。その人物は学歴のない無職で、ひきこもっていて身の回りの社会問題とかに無関心だけど、オンラインゲームをやるうちに、ひょんなことから森林破壊という環境問題の存在を知って、自分でめっちゃ勉強して環境活動家というかネット論客になる。
そうした、うっかり独学でネット論客になる人々がする「政治」と、インフラを整備する企業と化した国家がある、という状況を『一般意志2.0』は思い描いていました。
【暁】 うーん、ネガティブなネット論客というか、ネットで「真実」に目覚めちゃったり党派性に染まりきっちゃう人とかはいますよね。ネットを介して真面目に勉強できる人って多分少数派で、思想家の考える熟議型民主主義とかは一般人の教育・思考レベルを見誤っているのがダメなんじゃないかと思ってしまいます。エリートが期待するような方向に行ける人はそんなに多くないし、地方の公立学校でいじめられていた人間から見れば、熟議なんて無理ってわかるはずなのです(酷すぎる私見)。そこにある種のユートピアや希望を見出だしたくなる気持ちはわかるけども。東氏はTwitterもやめちゃいましたしね…
【木澤】人間をいまだに信じているからこそTwitterに耐えられなくなるのかも。
【暁】確かに。ネットで異なる思想や知恵を見つけて学んでいくのがあるべき人の姿だと思ってしまうと、異なる意見の相手を袋叩きにするだけで対話の成立しない今のTwitterが嫌になるというのはわかる気がします。
【江永】 人間ってダメだよね、っていう話でいうと、開発経済学系の本で『貧乏人の経済学――もういちど貧困問題を根っこから考える』ってのが面白そうでした。いわゆる貧乏人がお金の使い方をミスっているように映るのは、実は当人からすれば合理的判断の結果で、というのを解き明かしていく。
【暁】著者のバナジー教授らが今年、ノーベル賞を受賞していましたよね。いま気になっている本です。
■第1章 中国はユートピアか、ディストピアか
/第2章 中国IT企業はいかにデータを支配したか
【ひで】 ジーマ信用スコアと政府のやっている社会信用スコアが日本の報道では混同されている、という指摘がされていたのが信用できるなという感じでした。ただ一方で現在は違うと言っても、向かう先の未来の方向性はいま一般で報道されている内容と合致しているんでしょうけど。
【江永】 信用スコアって、お金で買えるんですかね。
【ひで】 ある程度はお金で買えるんじゃないですか。献血するとか募金するとかもそうですし、ちゃんとお金を借りてちゃんと返すとかも貧乏人だと難しい。
【江永】 最近、暗号通貨に関連して、あらゆるものが証券化されていくだろうという話をしている記事に出会いました。信用スコアもそうなるのだろうかと気になっています。
【ひで】 奨学金を債権化して売る、みたいなかんじですね。「俺は高等教育を受ければこれだけ追加的に多くお金を稼ぐことができる、という主張をするから、その未来を奨学金という形で買ってくれ」みたいな感じ。
【江永】 ただ、信用スコアのほうが、就活サイトでCookieを使って面接で落とすよりもよいのかも知れませんね
【ひで】 リクルートのあの事件はマジで邪悪ですからね(座談会後、新卒採用サイト「リクナビ」が企業に対して「内定辞退率」を販売していた事件によって、リクルートキャリアからプライバシーマークが外されました)。
【江永】 中国だと信用スコアでおおっぴらになされていることが、日本だとベールをかけられて小賢しい方法で行われている(あるいは行われていた?)だけなのかも知れません。
■第3章 中国に出現した「お行儀のいい社会」
【暁】 中国政府の社会信用スコアが実質機能しておらず、「紙の上でのディストピア」になってしまっているという話が出てきましたけど、日本のマイナンバーでも同じことが起こってますよね。
【ひで】 そうですね。日本でもマイナンバーができるときの触れ込みは「個人情報を串刺しにすることで事務効率を上げる・コスト削減」って話だった。それなのに、たとえば所得をマイナンバーに紐付けていても、確定申告や健康保険料算定基準の書類は自分で作成して出さなきゃいけない
【江永】 マイナンバーを推進した側に、ディストピアにするほどの能力とか余裕とかがなかった(そもそも、そういう管理が目的ではなかった?)。
【木澤】 官僚が無能なおかけでディストピア社会化を免れている、というのもなんだか皮肉というか。
【暁】 でもそのせいで、マイナンバーを出しても煩雑な手続きをやらなきゃいけないという実害が出ている。むしろ諸々面倒になってますよね…。ちゃんと管理社会にしてほしい。まあ文書もろくに管理できない現状では厳しいのでしょう。
【木澤】 税申告しなきゃいいんじゃないですか?
【ひで】 それはダメですよ。マルサの女がアルゴリズムでなく人間力を使って後から追い詰めてくるので。
【ひで】 税を納めないといえば、フリーランスのエンジニアとかだと、「俺はエンジニアでもあり旅行ライターでもあるんだ」って言って旅行に行きまくって旅行ブログを書きつつ全部経費で落として税金を納めないという方法もあるらしいですよ。
【暁】それ合法なんですか!?
【ひで】OKらしいです。黒字事業と赤字事業を抱えてるだけ、みたいな感じらしいので。
【暁】っょぃ…
【木澤】 税金をあえて納めないという選択は、アメリカとかだと「市民的不服従」の伝統として立派(?)に存在してるんですけどね。たとえば、批評家のエドマンド・ウィルソンは所得税を十年近く納めてなかったことがバレて、内国歳入庁の追求を受けてるんですけど、その後開き直って『冷戦と所得税:ある抵抗』という本を書いて市民の税金がソ連との軍拡競争に蕩尽されていることを猛烈に批判してみせた。とてもかっこいいですよね。良心的納税拒否。批評家はかくあるべきという感じがします。
【暁】 この章(104ページ)でも少し言われていますが、Apple等大手企業による事前検閲も最近問題になっていますよね。それでソシャゲのキャラクターのデザイン変更とかもありますし。そう考えると、『アズールレーン』って色々とホットな作品だと思うんですよね。中国でできない表現を日本でやろうとしてるとか(たまに露出がAppleの検閲に引っ掛かってるのではと言われてはいますけども)、最近だとユニコーンちゃんが手で「6」のサインをしてるのが香港の人に「五大要求だ!」って言われて、本社が否定するみたいな騒動もありました。
【木澤】 どうでもいいですけど、『アズレン』の赤城と加賀のスキルの「先手必勝」って明らかにパールハーバーのことですよね。最初見たとき笑っちゃったんですけど。こういうところは日本の『艦これ』には(良くも悪くも)真似できない。
【暁】スキルにも史実ネタをガンガンぶち込むのがあのゲームですからね。結構あの二人強くて、一時期は長門と一緒によく使われてました(笑)。アズレンは日本艦めちゃめちゃ充実してますし、運営は多分単純に、日本のカルチャーが大好きなんだろうなって思います。中国で出すには日本艦を敵にしないといけない事情があったのだと思いますが、生放送とか聞いてるとずっと日本の美少女ゲームの話ばかりしていたり、愛を感じます。ゲームとしてはお色気感が強いですが、駅の広告として出すときは細心の注意を払っているという話もしていましたし、表現のこととか、中国発のコンテンツとして日本で流行しているも含めて批評性があるのかなと思います。
■信用スコアとマーケットの親和性
【江永】 信用スコアの計算方法がわからないっていうことは、これはオカルトが流行りそうですね。ブラックボックスのあるゲームは常に裏技のウワサを生み出す気がします。
【ひで】 「妊娠した妻が最近夜になると台所で壁にぶつかっているんですが」っていう質問に対して「それは乱数調整をしてるんですよ」って回答するみたいなポケモンコピペがありましたね。
【暁】この壺を買うと~みたいな雑な商売も流行りそうです。
【江永】 『小説家になろう』をはじめ、ネット小説とか二次創作のプラットフォームって、作品のアクセス数や読者のつける評点などでいくつかの数値がつけられていて、ランキングで表示されたり検索エンジンで利用されたりするんですけども、あれって信用スコアに近いですよね。社会構成員の統治じゃないけれども、草の根レベルで、そういう評価スコアが使われてもいる。
【暁】なろうは作者じゃなくても時間ごとのビュー数とか見れるので便利ですよね。商業化する出版社側もそういう風に人気が一目でわかるから扱いやすいのかな。
【ひで】 YouTubeも同じですね。自分で動画をアップロードすると、ユーザーがどこで抜けたとかそういうデータがすべて見れるんですよ。
YouTubeに動画をアップロードすると、例えば「動画のどのシーンで視聴者が抜けたか」もグラフでわかる
【木澤】 本書の中で「モノ軸のEC」と「ヒト軸のEC」っていう話がありましたよね(第二章)。なぜ中国のアリババがAmazonやイーベイの参入に対抗できたかという話。中国のタオバオではショップ単位での評価スコアが決まってくる。(Amazonのように)「何を買うか」ではなく「誰から買うか」が重要になってくる。というのも一度信頼できるショップを見つければ、ずっとそこから買い続ければいいので、買い手側にリテラシーがあまり要求されないというのもある。実はこういう「ヒト軸のEC」のあり方ってダークウェブのブラックマーケットとも完全に似てるんですよね(だからどうしたという話ですが)。ブツのクオリティをネット越しに見極めるのは至難ですし詐欺も多いから、必然的に信頼できるプッシャーに顧客が集まる。「ヒト軸のEC」はブラックマーケットでは上手く機能している。それこそタオバオのように、顧客がプッシャー=ショップの信用評価をする仕組みがあり、悪い評価がつくと売上に響くから良質な品質やアフターケアを保証するインセンティブが売り手側に発生する。
【ひで】 ぼくタオバオの世界版のAliexpressをかなり前から使っているんですけども、システムはヒト軸のECですね。購入者がショップを評価するだけではなくて、購入者側もショップから評価されます。ちなみにダークウェブって購入者側も評価されるんですか?
タオバオの全球版「Aliexpress」。自分のスコアがなぜか下がっているが、理由はわからない
【木澤】 どうだったかな…。そこらへんはマルチシグネチャ・エクスローみたいな暗号化技術を用いたアルゴリズムによって購入者側の不正を防止するのがベーシックなやり方だと思います。それこそダークウェブは法も公共空間も存在しないので、個人と個人を仲介するためには、こういった評価システムやアーキテクチャによるアルゴリズム的統治に頼らざるを得ない。このあたりは現在の中国とも似てくるのかもしれませんが。
【暁】 でも同時にAmazonでは評価のステマも問題になってて、評価を信用していいのか?ということを判断するのにリテラシーが要求される時代になってますよね。難しい…。
それはそれとして、婚活もこの人物評価システムを導入してほしいですが。
【ひで】 それめっちゃ思います。同じマッチングアプリ上で二股とかかけるやつとかってなんやねんと思う。入会時に20万円ぐらい払う結婚相談所だとそこら辺をケアしてくれるんですよね。
■第4章 民主化の熱はなぜ消えたのか
【ひで】 ぼく思ったんですけども、この読書会みたいなものって中国でできないですよね。信用スコアが下がりそうでし、再教育キャンプにつれていかれるかも知れない。
【暁】 少なくともネットにアップロードはできないですね。
【江永】 例えば毛沢東語録を読むとか、推奨される図書でならば大丈夫なのでは?
【ひで】 ぼくが中国人だったら毛沢東語録読書会をやってたかも知れない
【江永】もっとも、 読書会を娯楽としてやるのは結構難しいのかもしれませんが。
【ひで】 ぼくら日本でこの読書会をやっていて弾圧されるかもみたいな感覚は全くないですからね。
【江永】どちらかというと、私刑が発生したらこわいなと危惧したりしています。
【江永】章の冒頭で指摘されていた、 検閲するときに「めんどくさくする」っていう手法は面白いなと思いました。
【ひで】 金盾の壁超え(VPN)の話ですよね。そうやって「なんとなく」で人々を誘導するのがリバタリアンパターナリズムだと。たしかに、健康的なメニューをレストランのメニューの一番上に大きく書いておくと、みんながその食事を食べて健康になる、みたいなのと構造としては似ている。
【江永】 ゲーミフィケーションも面白かったですね。トークンエコノミーは、自分にはとても身近に感じられます。夏休みの朝のラジオ体操のスタンプラリーとかとも似ている。
【ひで】 ゲーミフィケーションだとちょっと関係ないですが、いま京大の熊野寮祭で放学者スタンプラリーっていうのをやっているんですよ。おもしろくないですか。やっぱりこういうのをやって本人に触れ合うと親しみを覚えますよね。
【江永】 あと、習近平政権になってから出てきた言葉にポジティブエネルギーというのを見て、自己啓発的な言語センスを感じています。証券化ではないけど、いろいろな質があると言えそうなものも、力なる名称で、量的なものに置き換えられる対象として捉えようとしている。
■第5章 現代中国における「公」と「私」
/第6章 幸福な監視国家のゆくえ
【木澤】 この辺りから俄然内容が法/社会哲学寄りになってきますね。功利主義や、幸福と自由のトレードオフなどを大きな軸として中国における監視社会化が考察されてます。
功利主義は、ベンサムの定義によればすべての人々の最大幸福を、人間の行為の唯一の正しい目的であるとする、というのを基本原理としています。つまり「社会の幸福が最大になること」が目指される。この功利の原理は最大幸福の原理とも呼ばれてます。もちろん、こうした古典的功利主義には批判も多い。社会全体の「幸福」の総量=集計値にのみ関心を持つということは、それ以外の要素、たとえば人権や平等(再分配)や民主主義などはそれ自体では価値を持たないということにされる。こうした、全体の幸福をさながらGDPのように単純に加算集計して、その値が大きければ大きいほど良いというアプローチは、功利主義の中でも総和主義と呼ばれています。映画『天気の子』を例に取れば、一人の少女を生贄として犠牲にすることで、社会全体の幸福量が増大するのであれば、(功利的には)それで良しとするのが総和主義の態度ですが、クライマックスにおける主人公の決断はそれに対するアンチテーゼになってるわけですね。でも本書を読んでいると、中国だけでなくグローバルなレベルで功利主義の方向に向かっているという感覚を覚えます。
【ひで】 中国のいう功利主義の幸福っていうのは「快」なんですよね。一方で『ジョーカー』で低所得者層が見出したのは「自己決定権」なんです。中国が功利主義において「快」しか評価基準にしていないことをぼくはめちゃくちゃ批判するんですよね。
【木澤】 快=幸福と自己決定=自由のトレードオフ関係を描き出したのが伊藤計劃の『ハーモニー』。要するに、自律的な意識(自由意志)は不幸=苦痛の元なので、意識というハードウェアを消去することで人類が絶対的な「ハーモニー=社会の最大幸福/快楽」に到達するという図式。
【江永】 著者の遺作長編となった小説ですね。悪性腫瘍が頭から足まで六ヶ所に転移したりしていて、抗癌剤を服用し放射線治療を受けながら書き上げたという。
【暁】その彼が健康ディストピアである『ハーモニー』を書いたというのが凄いですよね。
【ひで】 終末医療でモルヒネを打ってまどろみの状態にあったんでしょうか。
【木澤】 もちろん『ハーモニー』には法哲学的な土台もあったと思います。たとえば、伊藤計劃が『ハーモニー』を執筆する際におそらく参照したと思われる元ネタのひとつに、法哲学者の安藤馨が当時二六歳という若さで書き上げた『統治と功利』(2007)という、鮮烈であると同時に難解で知られる書物がありますよね。(『幸福な監視国家・中国』の中でも言及されてますが)安藤氏は功利主義の中でも統治功利主義と呼ばれる立場の擁護者で、これはアーキテクチャによる支配の浸透をむしろ積極的に評価しようという立場です。
まず前提に、功利主義が抱えてきた問題点のひとつである帰結主義の限界というのがあります。帰結主義は、行為の評価・正当化に際して行為の帰結のみが重要であるとするもので、これの対極に義務論があります。ところで、帰結主義は行為から生じる帰結について完全な情報を行為者が持っていることを前提にしています。ですが、当然というべきか人間の知識や認識能力には限界があるので、帰結主義は現実的でないわけです。言い換えれば、個人の選択や行為は往々にして非合理的であり、そこに理性的な個人やホモ・エコノミクスを暗黙の前提に置く19世紀以来の近代リベラリズムの理念からの乖離が少なからずあるわけです。
では、どうすればいいか。ひとつは、行為の決定手続ではなく評価基準として功利主義を採用する間接功利主義です。ここから、行為を評価する人と行為を遂行する人が分離されるべきであるとする主張、より具体的には、統治者が効用計算を行って制度を設計すれば充分であり、被治者が功利主義に従って生活を送る必要はない、彼らは社会の規則に従っておけばよい、とする考えが出てくる。これが統治功利主義です(参照:『法哲学』瀧川裕英・宇佐美誠 ・大屋雄裕 )。
ものすごく乱暴に要約すれば、安藤馨はこの統治功利主義を徹底的に突き詰めた結果、アーキテクチャによる完全な統治のもとでは「人格」や近代的な「個人」は無用なものになるだろう、という過激(?)な、と同時にきわめて『ハーモニー』的な結論を引き出しています。もちろん統治功利主義にも問題は存在します。たとえば、上述したように功利主義(帰結主義)が人間の認知能力を超えたもの要求するとすれば、当然統治者側にも全知の能力が要求されるはずです。言い換えれば、統治者は人間を超えた存在、すべての帰結が予知可能である神のような存在でなければならない。しかし、この問題も人工知能の飛躍的発展によって乗り越えられるのは時間の問題かもしれません。シンギュラリティ(!)の到来と、神となったAIが統治するアーキテクチャのもとで、「自我」を消去した人類が完全な幸福=ハーモニーを生きる、という未来像……。
また安藤によれば、自他の区別、人格のあいだの境界こそが快楽=幸福の最大化を妨げている要素であるといいます。たとえば大半の人は、今日の自分と明日の自分をほとんど区別しないので、そこでの快楽の最大化=功利計算はほとんど失敗しませんが(例:明日の食費のために今日の食事は少なめにセーブする等)、自分とは異なる人格=他者に対しては、そこには厳然たる区別を設けます。つまり、私たちが他者の快苦を概して自分のものとは等しく計算しないことによって、人類全体の幸福の最大化に不可避的に失敗してしまっている、ということです。
であるならば、功利主義的な観点からすれば、これらの「障害」は取り除かれるべきである、という結論が当然(!)導出される。すなわち、すべての「人格」のあいだの境界をとりのぞき、他者の快苦に対して自らの感覚とまったく同じように配慮することが可能となること。法哲学者の大屋雄裕は『自由か、さもなくば幸福か?』の中で、こうした構想を「感覚のユートピア」と名付け、「我ら人類がすべてソラリスの海へと溶けていくこと」と表現しています。
伊藤計劃の『ハーモニー』、スタニスワフ・レムの『ソラリス』……。このリストにもうひとつ付け加えるとしたら、やはりミシェル・ウエルベックの『素粒子』でしょうか。あの小説の結末も、クローニング技術が発展したシンギュラリティの果てにおいて、自他の区別が廃された、すべてが単一のクローンとなって快の中に溶け込んでいくユートピアの未来世界が描かれていました。
【暁】時雨沢恵一『キノの旅』でもありましたけど、同一クローンだらけの世界だと、一つの病原菌が入ったら全滅しそうですね。それもまたある種の幸福ではあるのかな…。
【木澤】 「自由」とか「個人主義」とか「アイデンティティ(自己同一性)」とか、そういう近代リベラル的な価値観が人間の不幸の源泉なんだということをウエルベックは言いたいわけでしょうね。それらを捨て去って神の領域に参入してはじめて人類は「愛」に到達することができる。
【暁】エヴァの人類補完計画そのものですね。
【ひで】 ハァ〜〜〜。ホントに悲しい。そりゃみんな同一者になれば善も愛も得られますよ。
【木澤】 『素粒子』の種本というかウエルベックが意識してるのは、テイヤール・ド・シャルダンとかジュリアン・ハクスリーらによる進化生物学的テーゼですよね。ジュリアン・ハクスリーは『すばらしい新世界』のオルダス・ハクスリーの兄で、シャルダンの『現象としての人間』に序文を書いたり、「新しい神性」とかいう優生学とキリスト教神学をマッシュアップしたような宗教的なテキストを書いてたりする、なかなか香ばしい進化生物学者なんですけど。実際、ハクスリーは自身が提唱する「進化的人間主義」を新しい宗教であると主張してます。一方、カトリック司祭でかつ古生物学者のシャルダンは、人類の生物進化とともにいずれ人類の集合精神は地球や神と一体化してオメガ点に到達する、みたいな所謂「ヌースフィア」の概念を唱えて、のちのニューエイジ・カルチャーやロシア宇宙主義に多大な影響を与える。キリスト教と進化生物学って実は相性がいいんですよね。
【暁】あ、ロシア文学界でも似たような話があったなと思ったら、そういう流れだったんですね。キリスト教ガチ勢にとってセックスは罪なんだけど、人類の維持のためには必要な悪で、これをせずに済ますためには、人類が進化するしかない。だから進化を目指すぞ!みたいな思想が一時期流行していたと聞きました。
【江永】 日本だと北一輝が似たようなことを書いていましたね。社会進化の果てに人類から神類になるんだ、と。神類は排泄しないし生殖からも解放されているらしい。
【木澤】 ニーチェもびっくりですね。ダーウィンの進化論を素朴に(?)突き詰めるとそういった超人思想に行き着くというか。
■「合理性」とはなにか?
【江永】 そういえば、「道具的合理性とメタ合理性」(181p~)という箇所があったと思うんですが、なんか引っかかったんですよね。「アルゴリズムに基づくもう一つの公共性」(183p~)とかも。なぜ、目的自体を再設定するメタ合理性を持たなければならないとされるのか。
【ひで】 社会制度の設計は別として、社会っていうのは別に目的があって作られるわけではない、という意味での引っかかり方ですか。
【江永】 いえ。確かにそういう問いも立てられそうですが。ええと、メタ合理性は、なぜ人間的だと言いきれるんでしょうか。
【ひで】 チンパンジーには「あれ」「それ」とかいう指示語や言語中の再帰が存在しないことによって、メタ合理性を構築できないからじゃないですか
【江永】 ただの合理性とメタ合理性があるときに、なぜメタ合理性がより人間的だと言えるのか、また、なぜオススメできるのか、というのがわからない
【木澤】 ここで想定されている市民っていうのは西洋社会的な市民ですよね。
【江永】 たしかに。ここで「メタ合理性」が働かない存在者としてチンパンジーを持ち出す、というレトリックが、なんか文明化されていない人間はおサルさんだから、みたいな偏見にずれ込んでしまいそうな気配がなくもない(この自分の意見を再検討してみましたが、どうも難癖じみた感じになっていたようにも思い、反省しました。しかし、やはり気になる面もあり…)。
【暁】 それです。ここを読んでいてチンパンジーをバカにするな!って思ってしまいました。チンパンジーには確かに人間と同じような力はないかもしれないけど、道具的合理性に限らず、人間とはまた違う彼らにとっての合理性はあるだろうと。チンパンジーの数字記憶力は人間の大人より優れているという実験結果もありますし、抽象画も描けるんですよね。
また、人間のなかにも我々のように、必ずしもここで書かれたような「人間らしい」社会を構築するためのメタ合理性を信奉しているわけではない人間もいるじゃないの、と思いました。
【江永】 たしかに、ここの書き方って、チンパンジーに対して、とても失礼ですね。
【暁】人間には価値観によって諸々の判断を下すためのメタ合理性がある、という話はいいのですが、そのメタ合理性って人によってだいぶ違うと思うんですよね。市民的公共性に接続するタイプのメタ合理性を持っている人もいるでしょうが、自分的にはルソーの言う特殊意思のようなものにすぎないと思います。でも著者は「いや一般意思でしょ」って思っているっぽくて、それが江永さんの感じた違和感の正体だったのかなと思いました。
【木澤】 統合失調症のゴリラが描いた絵とかあったら見てみたいですけどね。
【江永】 合理性が2段になっている(185pの図だと、これにさらに直観みたいなやつ、ヒューリスティックが加わってくる)のと対応しているのか、行動経済学の話で、脳に2つのモードがあるってこと(174p)でしたけども、なんで2つなんですかね。
【ひで】 システム1とシステム2の話ですね。この元ネタの本を読んだことがあるんですが、別に根拠があって2つだっていうわけではなかったはずです。3つかも知れない
■第7章 道具的合理性が暴走するとき
【ひで】 道具的合理性が暴走すると日本も中国みたいになるんですかね。ぼくは嫌なんですが。
【江永】 でも中国だとクローン人間を作れますよ。
【暁】デザインベイビーも生まれてましたね。
【ひで】 あーたしかに。ぼくはマッドサイエンティストなので、人間のクローンを作ったり遺伝子操作をやってみたりはしてみたいんですよね。ただ特定集団の人権を蹂躙するのはいただけないなぁと。
【木澤】 ウイグルみたいなのですよね。まぁでも日本の入局管理局も似たようなことをしてますし。
【江永】 ハンガーストライキなさっていた方を、餓死に追いやったりとか。
【ひで】 もうやってたのか……
【江永】 エグい話はここまで種々話題にあがりましたが、この本の中で言うと、再教育系の話はエグかったですね。スローガンを毎日読むようにと強いられたり、単純労働を強いられたり。
【暁】 この本は「中国は1984的ディストピアではない!」って主張でしたが、ここだけはマジで1984みたいな感じですよね。
【江永】 この前、2019年秋になされた演劇で、ソポクレス『アンティゴネ』のn次創作と言えそうな作品があって(劇団 お布団の『IMG antigone copycopycopycopy.ply』)。クローン人間を取り扱ったディストピアSFめいた内容で、印象に残りました。以下のように、観客による観劇記も発表されています。
ざっくりとあらすじを。反体制デモなどをしていたら犯罪者にされ、人権を蹂躙さらたアンティゴネがいて、彼女を虐待するために施設で彼女のクローン人間(といっても現在のバイオテクノロジーの延長上にあるのかはわからない、人格や身体がマジでコピペ的に複製できる、という設定です)が大量につくられていき、クローン・アンティゴネたちへの体制側からの拷問が加速していくのですが、そのうち、大量の奴隷たちの管理施設のような状態になっていく。で、連行されたアンティゴネを探す妹のイスメネが、その施設で、単純労働をさせられたり、食用に加工されたりする、人権のないアンティゴネのクローンたちの現状を説明される。最後の方には、地下のアンティゴネのクローンを使って、経済的には国は復興し、イスメネは昏睡状態になり、そのあいだにうまいこと国民に地下の施設を必要悪として認めさせるつもりです、とナレーションが入る。体制側からするとハッピーエンドの話でした。
【ひで】 そのストーリーでハッピーエンドに落ち着くんですね
【江永】 もちろん、ベタに体制側目線で、よかったと感想をするような劇評はなさげですが。冒頭などで、インダストリアルな統治うんぬんと述べた際、頭にちらついていたのは、この劇の話でした。
【木澤】 中国における儒教的な「天理」による公共性の追求は、逆説的にもアルゴリズムによる人間行動の支配を(倫理的にも)正当化する方向に傾くだろう、という著者の予言的見解はとても不気味であると同時に興味深いですね。「天理」としてのアルゴリズムが人間に代わって統治する、という話は先の統治功利主義やアルゴリズム統治性とも関わってくる。近代リベラリズムに端を発する功利主義を突き詰めたひとつの帰結としての、AIによるビッグデータが支配するアルゴリズム/アーキテクチャ的統治と、そのもとでの最大幸福の追求。この方向に進んでいるのが現在の中国なわけですが、そしてそこには通常言われてきた意味での「自由(=プライバシー)」や「人権」は確かに存在しないかもしれませんが、かといって、かつて夢見られた自由と幸福の単純な一致や熟議を前提とした市民的公共性の理念が機能不全を起こしているのは決して中国だけの例外問題ではないはずなので、いずれ我々も選択を迫られるだろうと思います。
【ひで】皆さんは、中国型の監視社会と日本社会、どちらで暮らしたいですか?
【暁】うーん、僕はどっちも選びたくないです…。第三の道を選びたい…。
【江永】仕様がよくわからないと選べない。今なら限定で初期ログイン人類(新生児)に自由意志を無料配布してます! みたいな感じで、仕様が可視化されたら面白そうだなと思ったりもします。
【江永】自由意志、自動機械と責任みたいな話題で連想が生じたのですが、さきごろアメリカで、Uberの自動運転車が横断舗道を渡らない人間を人間と認識できなくて轢いてしまい、死に至らしめる事件がありましたね…。
【ひで】 あんなん自動車の前に飛び出すやつが悪いでしょ。電車の前に飛び出したら死ぬのわかってるでしょ。一緒ですよ
【暁】 自動運転車の跋扈する世界では、人間は横断歩道を渡るしかないですから。アルゴリズムに合わせて人間が行動を変えるしかないのでしょうね。
■終わりに
【木澤】 今さら白状すると、最大幸福を追求するための功利主義、といったときの「幸福」がどうも僕には具体的にイメージできないんですよね。通常の古典的功利主義では、幸福とは「苦痛が少なく快楽が多い状態」だったりすると思うんですが、たとえばすべての人格が溶け合った「感覚のユートピア」としてのソラリスの海における「幸福」ってじゃあ果たして何なのか、みたいな。どうもここには、ソラリスの海に向かって「あなたは今幸福ですか?」と尋ねることに似たナンセンスさを感じます。そもそも現在の僕たちと、未来の果てに到来する(?)ソラリスの海としての僕らの間には、乗り越えられない共約不可能性(=コンタクトの不可能性)が存在しているはずで。また、そこにおいては「幸福」と「愛」は果たして区別されるのか? 等々。たとえば自らを苦痛に晒すことによる「愛」の形も当然あるわけですよね。功利的な計算システムを内破させるイレギュラーとしての「愛」。愛にできることはまだあるかい? という問いがここで俄然アクチュアリティを帯びてくるかのようであり……。幸福の海に沈む感覚のユートピアの只中において、「セカイなんて、狂ったままでいいんだ!」と叫ぶこと。
【ひで】 じゃあ木澤さんは具体的にどういう社会を望むんですか?
【木澤】 LSDで好きなときにトリップできる社会ですかね。というのは冗談として、それはともかく、苦痛がゼロであることが「幸福」であるとしたら、ベッドの上で脳にモルヒネを常時投与しながら生きることと、あるいは「感覚のユートピア」の海や水槽に浮かぶ脳との間に実質的な差異はないのかもしれない。こうした快楽功利主義に対する異論としては、たとえばロバート・ノージックによる「経験機械」という思考実験がありますよね。自分が望むどんな経験でも与えてくれる機械――経験機械――に一生繋がれて生きていたいと思う人間はさほど多くないだろう、というのがノージックの見立てで。ここから、効用とは「快楽」ではなく「選好充足」であるとする選好功利主義がプレゼンスを高めてくるわけですが、いずれこのあたりについては深く考えてみたいですね。
【江永】 何がやりたいことか、というのは大事そうですね。例えばニック・ランドは、資本主義が、生命と生物学的な知性を費やして、人間の予期を超えて広がる新たな生や知性の平面を創造した、と語っていて、つまり主語が資本主義で、さらにそれを人外的な目線で評価している。人外目線というと論外な態度に思われるかもしれませんが、例えば種差別的偏見のない功利主義とか、宇宙的価値としての平等とかを考える際の目線と、そこまでかけ離れたものでもないのではないか、と私は懐疑してしまいます。
私は、私が何かの役に立っていることを私の幸福と呼びたい気持ちがあります。私が自覚できようとできまいと、私が何かの役に立っていた方が、より幸福です。自己決定というか、自己効力感はあった方が私はうれしいです。けれど、そのうれしさは幸福であることなのか、私にはわかりません。
【暁】ひでシスさんにとっての幸福は、やはり自己決定権の追求ですか?
【ひで】そうですね。
【暁】 僕にとっての幸福は、生活に困らないだけの健康とお金があること、異物が排除されない世の中になることですね。衣食住足りて礼節を知るというか、最低限そこが満たされないと生きるのは苦痛でしかないので。同時に、みんなの幸福を優先する幸福の最大化の社会は、僕みたいな人間がはみ出し者になっちゃうっていう自覚があって、嫌なんですよね。先程の木澤さんの話にもありましたが、例えばみんなが日常系萌えアニメを見たいと決まってしまえば、ハートフルよりもハードコアなアニメが好きな僕の幸福は無視してもいいってなりかねない。かつて教室の片隅で震えていた自分を思い出し、つらくなります。「俺は青空よりも陽菜がいい!」と思うし、周りの「肉塊」たちが正しいとされる世の中で、帆高や沙耶たちのような少数派による価値の転換、「愛」による革命が起きることを望んでいるのかもしれないです。
【木澤】 「幸福」の定義を今こそ練り直さないといけない機運が出てきましたね。
次回は、『現代思想 2019年11月号 特集=反出生主義を考える ―「生まれてこないほうが良かった」という思想―』読書会を予定しています。お楽しみに!