西武・そごうの元旦広告は、1980年の答え合わせ?
西武・そごうが元旦に出した新聞広告が、ツイッター上で反感を呼んでいる。一部の指摘を引用しよう。
コピー・デザインとも、世の中から色々と指摘が入っているようだ。
以下、コピー。
女の時代、なんていらない?
女だから、強要される。
女だから、無視される。
女だから、減点される。
女であることの生きづらさが報道され、
そのたびに、「女の時代」は遠ざかる。
今年はいよいよ、時代が変わる。
本当ですか。期待していいのでしょうか。
活躍だ、進出だともてはやされるだけの
「女の時代」なら、永久に来なくていいと私たちは思う。
時代の中心に、男も女もない。
わたしは、私に生まれたことを讃えたい。
来るべきなのは、一人ひとりがつくる、
「私の時代」だ。
そうやって想像するだけで、ワクワクしませんか。
わたしは、私。
コピーに覚えた違和感
さんざん騒ぎになった後に言うのもかっこ悪いが、ぼくもこのコピーを読んだとき違和感をおぼえた。内容がスッと頭に入ってこない。
…つまり、何を主張しているんだろう?
女だから、強要される。
女だから、無視される。
女だから、減点される。
女であることの生きづらさが報道され、
そのたびに、「女の時代」は遠ざかる。
元旦広告のセオリー通り、前年を振り返りつつ今年の方向性を示す。そういう意味で、東京医科大学の女子一律減点問題を起点として、依然として強く残る女性の差別問題に対する提言をしようとしているんだろう。それはわかる。
でもこの「女の時代」って何だ? どうも、耳になじみがない。
コピー全体の主張を超ザックリと要約すると、こうなるだろう。
「女の時代」を目指していたけど、色々と問題が多かった。そうじゃなくて、男女関係なく一人ひとりがつくる「私の時代」を目指したら、ワクワクしませんか?
こうして見ると、違和感がくっきりしてくる。
コピーライティングの世界では、こうした「ものの言いよう」によって問題を解決しようとするアプローチが多用されるし、実際にそれが功を奏することもよくある。
しかし、すでに色々な人が言っている通り、この問題は「ものの言いよう」で解決できない。女性差別の現状を知り、「人それぞれ」ではなく世の中がひとつの方向に向かっていかなければ解決しない問題だ。
あわせてぼくが指摘したいのは、「来るべき」と主張されている「私の時代」は、もうとっくに来ているのではないか? ということだ。
世の女性たちは、女らしく生きたいとは思っていない。それよりもまず、私らしく生きたいと思っている。しかし、そういった「私らしい」生き方を、女性であるという制約が阻害してしまっている現状が問題なのだ。
ここに語り手と読み手のズレがある。世間の空気は、とっくに「私の時代」だ。すでに「私の時代」が到来しているにもかかわらず問題が露見している以上、「『私の時代』を目指せば大丈夫」という主張は筋が通らない。
なぜ、こうなったのか
ぼくが感じた「女の時代」という言葉に対する違和感の原因はこれだった。この言葉自体が、すでにかなり時代錯誤なのだ。
しかし不可解だ。
「若い女性の気持ちがわからないオッサンが作ったからこうなった」という感情的な指摘もあるが、そうだろうか?
元旦の新聞広告は広告の中でも花形で、こういった大きな仕事には、人の心の機微が読み取れる優秀な広告クリエイターが起用されるはずだ。
悶々とするうち、ひとつの広告事例を思い出した。
残る広告、残らない広告の違いは? 世紀を超える「コトバ財産」を考える - Adver Times
いま、どのくらい「女の時代」なのかな。
あーーーーーーっ!!
これじゃんこれじゃんこれじゃん。
ぜんぶ繋がった。
1980年の名作コピー
このコピーは、1980年に出稿された西武鉄道グループの新聞広告に掲載されたものだ。コピーライターは、糸井重里さん。
今よりも輪をかけて、女性の社会進出に対して世の中が不寛容だった時代のコピー。時代を的確にとらえた名作として知られている。
そうか、あの広告は、この名作広告に対する新しい解の提示なんだ。
1980年は「女の時代」を目指していたが、元号も変わる時代の節目である2019年、この方向性は古くて、これからは「私の時代」を目指すべきなんだ、と。
これだけの名作、広告クリエイターなら知っていて当然だ(ぼくは忘れていたが)。
しかしなぁ…。
言ってしまうと、引用元が古すぎる。「女の時代」から「私の時代」に移るべき、という主張はもっともだ。もっともだが、前に述べた通り、「私の時代」はとっくに来ている。
提言を待つまでもなく、この39年の間に時代はすでに変化したのだ。
(厳密にいえば、世の女性の意識はすでに「私の時代」を迎えている、ということ。「女の時代」すら突破できていないのは社会構造のほうである。このコピーが主張するところに従えば、改めて女性が考え方を変える必要はない。)
とはいえですよ…
色々と言ってきたが、ぼくはこの広告を担当したコピーライターの方を非難するつもりはない。
たしかに、配慮に欠けていたのかもしれない。女性を取り巻く過酷な環境を「気の持ちよう」で解決しようとするアプローチは、見る人によっては失礼にも映っただろう。
でもね、コピーライティングって難しいしね、こうなっちゃうこともあるんですよ。
この件には、広告代理店・クライアント企業と合わせて多くの人が関わってきたことだろう。色々な議論がなされ、最終的にこのコピーにGOサインが出たのだろう。もう仕方ないじゃないか。
関係者の中にも悪意ある人間はいなくて、女性が前向きになってくれるようにとの思いでこの広告を打ったはずだ。
せっかくのめでたい正月なんだから、不買運動なんてしないで、気持ちよく収められるといいなと思います。
ぼくは、社会について、広告について、色々と考える機会をくれたこの広告に感謝したい。
追記
結論部分について「女性の気持ちへの配慮がない」という指摘を受けたので、補足させていただきます。
この件について女性たちが声高に叫んでいる理由の一面として、「この広告を契機に女性に対する世の中の考え方を見直してほしい」という思いがあるのだと思います。
その点、広告会社・広告主側を擁護するような表現となり、女性に対する配慮に欠けてしまったことはお詫び申し上げます。
ですが、広告業界の一員として、「糾弾されるべきは社会であり、広告の制作者ではない」という立場を取らせていただきたいと思います。
そうしなければ、広告会社や広告主は炎上を恐れ、メッセージ性の薄い広告しか作れなくなってしまうからです。
色々な意見があるとは思いますが、ご理解いただけますと幸いです。
※記事本文はすでに発信してしまった意見なので、これ以降修正しません。