ちきりん氏の「終末期医療について考えよう!」によせて
終末期医療について考えよう!
http://blogos.com/article/140351/ (リンク切れ、H31/1月確認)、https://chikirin.hatenablog.com/entry/20151021 について
H27/10/22
一部加筆修正 H27/10/23
H31/01/28
この投稿を見た時、終末期医療に関わる一医療者として非常に危ういものを感じました。非常に誤解を招きかねない、あるいは誤りを多く含んだ文章であるとおもったのです。
まず先に申し上げるならば、一般の方・家族がこのブログのように誤解して考えることはよくあります。そのようなとき私達医療従事者は丁寧に説明を行い、そして一緒に患者のことを考えます。ですので一般のかたの理解としては私はそこまで責められるものだとは思っていません。
ですが、ちきりん氏という、有名な方が誤解を大々的に広げる(それも最後に示しましたが一方の偏った参考文献を持って)ということは非常に危険だと思いました。これは一般のかたが誤解をもつこととは違う意味があります。
私はちきりん氏の誤解・問題点を、大きく3つにまとめようと思います
1)今の日本で 本人・家族が希望しなくてもルーチンで延命治療が行われるという誤解
2)モルヒネという、むしろ患者の生活の質を挙げるために使用されている薬が、積極的安楽死のとどめのために使用されているという誤解
3)患者の尊厳を保つために延命治療の是非を考えるべきという論と、医療経済の危機のためお金がかかる延命治療を今後どこまでするべきかという論を混同して議論することの危険性
この3つに関して、冗長ではありますが現場でどのようになっているかということを書き連ねようと思います。
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H27/10/23 死因・死亡診断書の部分について加筆修正
終末期の定義に関するコメント、修正
H31/01/28 リンク切れのため元記事リンクを記載
モルヒネが塩化カリウムに訂正されていることを確認、それについてのコメントを追加
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>このトピックは、10年後くらい後には大問題となり、おそらく法制化も議論されているはずだからです。
今すでに大問題です…
>これ、本当は“高齢者”に限定された話ではないのですが、今回は平均寿命付近まで生きてきた高齢者に限定して考えます。概ね 85歳を超えた人がこういう状態に陥ったら、という前提でお読みください。
以後私もその前提で書いていきます。もちろんそこまで生きない方に問題がないわけではないのは言うまでもなく、さらにちきりん氏も触れているように、平均寿命に達した時点で考えればいい問題では無いことは当然のことです。
>昔は、多くの人が自宅で亡くなっていました。でも、今は大半の人が病院で亡くなります。
資料提示の通り 正しいです。
>これにより私たちは、死ぬその瞬間まで「死なないよう」万全の医療を受けることになりました。
「万全の医療」の定義にもよりますが、今回の私のこの文章はこれに対する反論が主です。
>出血したら輸血、呼吸ができないなら人工呼吸、ご飯が食べられないなら鼻チューブイや胃瘻(いろう、胃へのチューブによる直接的な栄養補給)、血液が浄化できないなら人工透析、心臓が止まったら電気ショックに補助人工心臓です。
ここまでフルコースな「延命治療」(特に補助人工心臓とか人工透析とか)を行える病院は非常に少ないと思われますし、85歳を超えた方にここまでする医者は私はいないとはいいませんがごく僅かだと思います。ただし、例えば急性心筋梗塞に対し一時的に補助人工心臓を使った とかはまた別の話だと思います(この場合、必要ない状態にまで改善したということなので、そのチャンスが事前に十分期待できれば私は問題ないと考えます)。
延命治療が実際どの程度私の周りで行われているかに関してはあとでも触れます。
>それも数日や一週間という話ではありません。>医療技術が進むにつれ、こういった延命治療によって年単位で、時には十年を超えて人間は生きることができるようになりました。>もちろんベッドの上で、です。
健康寿命と平均寿命の差を考えると(これがだいたい9年から12年)、延命治療の効果「だけ」をもって年単位でベッド上で生きれるようになった というのは論に疑問を感じます。
というのは健康寿命とは「日常生活に制限のない期間の平均」であって、それと延命治療の間に「制限はあるけどベッド上で延命治療は必要ない状態」があるからです。
http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/dl/chiiki-gyousei_03_02.pdf
http://toukei.umin.jp/kenkoujyumyou/syuyou/santei_setsumei.pdf
>これらの「できる限りの治療」は、本人が「無駄な延命治療をしないでほしい」という意思を持っていたとしても、病院にいる限り必ず行われます。
DNaRオーダーの事例がありますので、「必ず」は明確な誤りになります。自分の周囲の話をさせていただければ、むしろ85歳を超えた患者にはこのような延命治療をしないことのほうがずっと多いように思えます(私の私見では8割を超える患者がDNaRであって、結果延命治療が行われていません)。
>なぜならそうしないと、医者は殺人罪に問われてしまうからです。
であるため、この文章も明確に誤りです。
>たとえ妻や息子、娘が医者に「お父さんは延命治療なんて望んでいなかった。止めてください」といっても、簡単には止められません。>今の法律では、家族であっても勝手に他人の命を止めることはできないし、そもそも「家族のひとり」の意見は、「家族の総意」ではありません。>息子と娘の意見が異なる場合もあるし、妻と子供の意見は一致して「父は延命治療を望まない。その意思を尊重したい」と言っても、>ほとんど会ったこともない父の兄弟が見舞いに来て、「たった二人の兄弟なんだ。最期まで、できる限りのことを!」と言い出す可能性もあります。>そういう人からの訴訟リスクもあるので、医師はその職業的な使命に忠実に、「できる限りの(延命)治療」を行います。
この辺りは「正しいところもあるが、誤解を招きかねないところがあるな」と思いました。一旦始めた治療であっても医学的に無益・害と判断される場合治療の中止は可能です。それは延命効果があれば続けるべきというものですらなく、QoLなども判断材料になります。ただし、人工呼吸などはあとに出てくる安楽死などの絡みで中止にナーバスになっている現状があります。
逆に言えば輸血や、鼻チューブ・胃瘻による栄養補給、人工透析などは開始後も中止が可能ということです。
>唯一延命治療が止められるのは、「始める前」です。
ですのでこれは誤りです。
>(この場合は死因検査が行われ、「家族が殺したわけではない」というチェックは行われます)
実はこれは自治体によっては正しいようです。私はある自治体の警察から「家で死亡されたなら、可能なら全例警察を呼んでもらいたい」という話を聞いたことがあります。
▼(10/23加筆)
厚労省の死亡診断書マニュアルをご存じの方で、上記の私の記載に関して疑問を持たれた方がおられました。もっともだと思いました。
http://www.mhlw.go.jp/toukei/manual/
によれば(p4)警察署に届け出るのは非常に限定された場合になるだろう。ということです。私も上記の警察の話(電話で再確認しています)を聞くまでは建前通りでいいだろうと思っていました。
しかし、ある事例でその時担当になった警察官と話をする機会があり、それで本当だろうかと確認して上記のような返答を頂いたのです。曰く「診療に関わる傷病と関連したものかどうか、医師だけで自信を持って判断できますか? 私達も一緒に確認したほうがあとでトラブルにならないと思うのです。ネグレクト、つまり助けられる状態だったにも関わらず家族が放置したかもしれませんし」とのことでした。
ですので、建前と実際の運用で違う部分があるかもしれない、と思い上記のような書き方をいたしました。誤解を招く書き方であるのはご指摘の通りで、加筆いたします。
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>もうひとつは、体に傷を付ける必要のある延命治療を始める前の選択です。たとえば胃瘻については胃に穴を開ける必要があるので、家族の同意なしに医師が行うことはありえません。(と理解してます)
ここからの文書は非常に誤解を招くか、あるいは誤りを含む文書が続きます。医療行為は全て(私はこれ全てと言っていいと思います)「患者を傷をつける必要のある行為(もしくはその可能性がある行為)」です。問診や診察も患者の精神を傷つけうる行為です。ですから医療従事者が行う医療行為は全て(家族というよりも)患者の同意が必要です。
もちろん傷つける可能性や程度は様々ですから、医療行為によって必要とされる同意のレベルは異なります。医療機関を受診し、診察室に入った時点で少なくとも問診に関しては同意されたと私は解釈します。ですが、そうであっても「患者が予想していなかったような話(例えばがんの告知など)」をするときにはワンクッションおきます(「以前行った検査の結果なのですが、今ここでお話をしてもよろしいでしょうか」「それともご家族と一緒にお聞きになれれますか」など)。診察する際は「診察しますね」と口頭で同意を取ります。薬に関しては「このような薬を出しますのでこのように服用して下さい」と説明し、口頭で同意を得ます。対して胃瘻の作成は簡単な手術を行うので文書で同意を取ることがほとんどでしょう。
いずれにせよ我々医療従事者は「患者が」同意しない医療行為を行うことは基本的にはできません。それはたとえ診察であってもです。
>ただし、体に傷を付ける必要のない治療は、病院にいる限り(救急車を呼んだ段階で)自動的に行われると思ったほうがよいでしょう。
上記の通り私は「体に傷つける必要のない治療」はないという立場です(例えば点滴は明確に体に傷をつける医療行為ですよね?)。ですが、救急車で病院に運ばれた時点である程度の治療に合意されていると判断することはもっともだと思います。
さらに言えば、救急車を呼んだ患者がいて、仮に救急車で心停止が起こったときは救急隊は特段の理由がなければ蘇生処置を行うのも同じ理由からだと考えます。
>家族の意思は、「入院させた」「救急車を呼んだ」時点で「死なないように、あらゆる治療をやってほしい」ということだと判断されるからです。
ですので、これも誤解を招く文書です。仮に救急車で来院したとしても、例えば胃瘻の作成は別途同意書をとるからです。
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さて、ここで元ブログを離れて少し意思確認について大切なことを。前段で私は「本人の」同意と書きました。現時点の日本では本人の意志を最重視すべきだということにはコンセンサスが得られています。では高齢者の延命治療の施行については例外となるか。それも本人の意志が明確であれば建前上は家族の意見よりも重視されます。かと言って家族を無駄に敵に回すのも適切ではないですし病院は本人だけ見ればいいわけではないですからそこで話し合いは多くの場合行われるでしょう。
では本人の意志が明確ではない場合、建前上どうするか。「家族の希望に従う」は誤りでして、まずは「本人の意志を推定する」ことになります。それが不可能な場合は「患者にとって何が最善であるか」を家族と十分に話し合うことになります(参考資料:厚労省、人生の最終段階における医療の決定プロセスに関するガイドライン http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/0000079283.html)。
これは「家族がどうしてほしいか」とは異なる可能性もあります。
蛇足ですが、このガイドラインを読んでも延命治療をしなければ医師が殺人罪となるという風にはとても読めません(そうならば延命が最優先である、とガイドラインに書くだけで済むからです)。
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>でも今は、そしてこれからは、大半の人が病院で最期を迎え、進んだ医療技術の恩恵を受けて、ベッドで寝たきりのまま 10年、20年と生き続ける可能性がでてきています。>もちろん本人の意思に拘わらず。というか大半の場合、本人の意思は確認できないままに、です。
年数の問題はさておき、病院で死ぬ人はそう簡単に減らないのは確かでしょうし、現時点で本人の意志の「推定」すら難しい場合が多いのもまた確かです。
>そして(敢えて書いておきますが)、その治療費はすべて「若い人達が働いて納めた税金や保険料」から支払われます。
費用の問題と 本人の意志どおりに治療を行う/行わないを決める問題は 私は別の問題と思います。あえてもう一つ難癖をつけるならば高齢者であっても自己負担はあるため「治療費はすべて「若い人達が働いて納めた税金や保険料」から支払われます」も明確に誤りです。
>最大の問題は、本人の意思を反映する法的な枠組みが整備されていないことです。「リビングウィルの法制化」といわれるものです。
ここは一般の方だけではなく、医療従事者も様々な意見があるところだと思います。法制化は場合によっては個人の意志がかえって反映されない可能性が生じると李啓充氏は日本緩和医療学会で指摘しています。法に沿った方法以外で延命治療の不開始・中止を認めなくなることが危惧されるというのです。これは私はもっともだと思います。あくまでバランス論でありますが、現状で話し合いのもとに患者にとって何が有益かの評価はそこまでないがしろにされているわけでもないと思っています(ただし、まだ本人の意志確認が可能にもかかわらず「最期の時の話)を本人とするのが難しいという現状もまたあり、そこは改善が必要とも思います)。
>ちなみに、「延命治療を拒否して自然死を迎えること」は「尊厳死」と呼ばれます。
安楽死と尊厳死は定義論ですらなかなか難しい要素を含みます。一見上は正しいようにも見えますが、これは消極的安楽死のようにもなります(参考:《1》 安楽死か尊厳死か ことばの整理 - 終末期医療を考える - アピタル(医療・健康)http://apital.asahi.com/article/endoflife/2015092500017.html)。
>別の言葉として「安楽死」という言葉があります。これは、不治で末期の病状にある人が、本人の意思により、医師など第三者に、薬物などを使って死期を早める措置を行わせることです。
こちらは積極的安楽死になります。とはいえ参考記事にもあります通り海外では別の意味になることもあり、また日本国内によっても団体によって多少定義の向く方向が異なっており、法律論(このような積極的安楽死は合法ではない 的な)以外ではなかなか難しい概念です。
>病気の苦痛に日々耐えかねている患者さんに、モルヒネを打って命を終わらせると共に、その苦痛から解放する、といった感じですね。
これは非常に危険な記載だと強調しておきます。モルヒネで人の命を奪おうとする場合非常に大量の薬剤が必要になります。ですからモルヒネは積極的安楽死に適切な薬剤ではありません。
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H31/01/28にモルヒネが塩化カリウムに記載変更されていることを確認しました
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《2》 諸外国の法制度の現状 - 終末期医療を考える - アピタル(医療・健康)http://apital.asahi.com/article/endoflife/2015100200016.html を読んでも積極的安楽死が合法化されている国であってもモルヒネで行ってはいません(睡眠薬とか心臓を止める薬とか書いてありますね)
私は専門分野でモルヒネを非常に頻回に使いますが、それは積極的安楽死目的ではありません(もしそうならこのような記事は書きません)。主に悪性腫瘍による疼痛や呼吸困難を軽減するために使用しています。そしてそのようにモルヒネを使う限り患者の命は短くなりません(ですから安楽死ではありません)。
積極的安楽死が認められている国でもその目的でモルヒネが使われていないこと。日本でも「それ以外の、非常に重要な目的のために」安全にモルヒネは使用されていること。この二点は強く強調しておきます。
>世界では、この安楽死さえ合法化している国があります。有名なのはオランダで、 2001年に法制化、最近は年間に死亡する人のうち 数パーセントは安楽死だそうです。
これは正しいです。 オランダでは前に示した記事でも全死亡の4%程度が積極的安楽死です。
>また、アメリカではやオレゴンやワシントンなど、いくつかの州のみで安楽死が合法化されているため、末期の病状にある患者さんが他州から引っ越してくる、という現象も起こっています。
これも正しいです。
>さて、延命治療が必要になるような状況では、多くの場合、本人の意思確認はできません。たとえ意識があっても、まともな思考力が残っている状況ではないからです。>そして、たとえ尊厳死が法的に認められても、医者が単独でその決定をすることはありません。
これは多くの場合そうだろうと思われます。また医師が単独で尊厳死を決定するような法整備は今の日本では考えづらいです。
>・本人の(意識不明になる前の)意思が確認されたり、(法律がそれを許すなら)家族が尊厳死を望んだ場合に治療が止められる(治療をしないと決められる)だけです。
安楽死と尊厳死の違いはありますが、安楽死を認めているオランダでさえ「本人の自発的な意志」が条件となっています。ここに「家族の希望」だけで尊厳死が可能になるような法制化が日本だけできるとは 私はあまり考えていません。
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ここに日本特有のファジイさがあると思われます。先にDNaRについて書きましたが、私が今まで勤務した病院で患者本人と「終末期に延命治療を希望するか」と話し合いをした経験は少ないです。多くは家族と、そしてそれも本人の意志を推定するのではなく、家族の希望を聞いていたように思われます。もし、尊厳死が法制化された時はこのようなファジイさは失われるかもしれません。
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>だから今もそうであるように(たとえ法制化されても)「本人の意思も家族の意思も確認できない患者」は、ベッドの上で延々と生き続けることになります。
今は上に書いたようなファジイさがあったり、あるいは「患者にとって有益な医療は何か」という話し合いのもとに延命治療の中止・差し控えは可能であったりしますが、こういうケースがないとは申しません。
>治療費はどうするんだって?>ケースワーカーなどが家族を探すのだと思いますが、誰も見つからない場合は入院したまま生活保護が受けられますから、医療費は国から支払われます。(生活保護を受給すると医療費は完全に無料です)
医療費に関する議論を安楽死・尊厳死と絡めるのは私は危険だと思われます。尊厳死も安楽死も「患者自身が自発的に選択した死のあり方」に関する議論だと私は考えています。
保険が破綻するから、医療費が高騰するから、仮に患者・家族が希望したとしても、またそれが医学的に見て適切だったとしても、医療保険では提供しないことにするか、という議論はまた別のものだと思われるからです。
>とはいえ、話が複雑なのは家族がいても同じです。からの段落
そういう家族が皆無だとは申しません。むしろ時折見かけます。ですが、それが大多数であるかのような表現は嫌悪感を感じます。
>そもそも親が元気なうちに孝行をしていない子供に(=親の生き方や人生についてじっくり話をしたこともなかった子供に)、親の人生を左右する決断なんてできるわけありません。
親不孝であった子供に決断なんてできるわけがない という表現にも私は反発します。たしかにそれまで話し合いなどしていない家族の方が多い(これをちきりん氏は親不孝と評していますね)家族でも、時間を掛けて話し合うことで本人の意志が推定できたり、意志の推定まで至らなくとも今後どうするのが本人にとって良いことか、という決断は多くの場合、医療従事者とともに行うことができています。
>先ほども書いたように、延命治療が延々と続けられれば、膨大な医療費の負担が必要になります。それらは、人数も少ない若い世代(今の子供達)の負担になります。>命を「コスト」で語ることを、不謹慎だと思う人もいるでしょう。
不謹慎だとは私は思いません。むしろ非常に重要な観点です。ですが前に書いたとおり、安楽死・尊厳死と密接に絡めて論ずると非常に危険だと考えます。
最後にちきりん氏は一冊の書籍を薦めておられますが、私はこの本は非常に偏った視点からのみ書かれていると思われます。緩和ケアの重要性が欠けている点(病院に行くことは延命のため「だけ」ではありません)、結果現代医療忌避の立場が濃い点などです。私はTwitterでDr.Pooh氏に薦められたこの本をおすすめします。今回記事を書くにあたってKindle版を購入しました。平方氏は緩和ケア医ですが、その実体験も交えて、一般の方にもわかりやすく、また現在の日本の医療が抱える問題点も指摘しつつ、とバランスが非常に取れていると感じました。
医者とホンネでつきあって、明るく最期を迎える方法
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B00JE5EBQ6
以上 ご意見・ご感想・ご批判お待ちしております。
Poker_April
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略語
DNaR:do not attempt resuscitation
終末期の方針の一つ。心肺停止が生じた際に心肺蘇生(人工呼吸、胸骨圧迫など)を行わないこととする事前の取り決めのこと
QoL:quality of life
直訳すると生活の質
命の長さだけに着目するのではなく、質にも目を向けるという考え方。
そのために身体的・精神的・社会的・霊的な問題の予防や対処をしようということが緩和ケアの大本である