ファッションの役割と可能性について。
ファッションの役割と可能性について。
わたくし自身がファッション(美容分野)に関わっている人間ですので
その中で感じたファッションのあるべき役割と可能性について書かせていただきます。
ここで記すファッションというのは私たちは日々生活する中で、もちろん裸で外を歩くと公然猥褻罪なんかで捕まってしまうので、社会生活においての秩序や習慣の上で成り立つ着衣、という概念でのミクロの視点でとらえたファッションという意味ではありません。
つまりは個人の快楽や幸福につながる、自己表現方法としてのファッションです。
日々生きていく上で、ファッション(もっと言えばファッションだけではなく思想や趣向などもですが)にたいする束縛や、社会の常識や仕来りに順応しなければいけない、いわば不自由さを頻繁に感じます。
具体例をあげますと、アルバイトをする際に頭髪が黒でなければいけないだとか、ピアスがNGだとか、プールや温泉での刺青禁止などの、ファッションに対する一種のボーダーです。
たしかに、飲食店において衛生面の観点からピアスがNGだというのは理に適っていると感じるのですが、それにしてもピアスや頭髪や、ファッションに関して寛容な分野というのが限られすぎているのではないでしょうか。
人は見た目が9割、とよく言います。
たしかにその通りだと思いますし、第一印象が10秒以下で決定され、いわば他者に対してのその先入観というのはコミュニケーションにおいてとても大きなウェイトを占めていることは事実です。
しかしここでわたくしが感じるのは、現代の一般的な人々が、たとえば江戸時代にタイムスリップしたときに、さてどう思われるか、ということです。
つまりわれわれの第一印象やイメージを裏付けているのはその社会の常識や風潮であり、個々のリアルな意思や判断ではないと思う訳です。
ファッションが個性的だからといって、出来損ないな訳でなければ、仕事をさせた時点で個性的なファッションの者よりも普遍的なファッションの者が優れている、という説明をすることは不可能ではないでしょうか。
所謂マイノリティなファッションの人間が、社会生活で生活をしていく上で不自由な理由をわたくしなりに考えてみますと、その理由はおそらく
自由にファッションできる人間⇒組織に所属していない人間の割合が高い
組織というのは、例えば学校であったり会社であったりです。
ようするに自由に生きている、つまりだらしがない、と思われているのではないかと。
どうにかして、現代のマイノリティ的ファッションの考え方(つまり自由にファッションを楽しむことで精神的幸福やある種の自己の存在を示す)が、マジョリティに変わらないかと思う訳です。
どんなファッションをしているかは関係ない。
大切なのは人間性であり、能力なのではないでしょうか?
個性的なファッションだから、協調性がないのだろう
そう判断されがちな世界にとても閉塞感を覚えてしまいます。
皆さんはその点においてファッションをどのようにお考えですか?
どのような意見でもいいのでお答えください。
駄文失礼いたしました。