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関東地方のエリアや、その他、いろいろな仮説が立てられた場所で見つかってませんね。

 ここいらで、今まで埋蔵の仮説すら無かった。でも、大阪城があって幕府の近畿支配の中心だった大阪に埋まってる可能性は皆無ですか?
 と、大阪人の質問者はスコップを持って回答を待ってます。

で、ついでに真面目な質問ですが、
 そもそも徳川幕府って、国家の運営に使う莫大な資金を、どこにどんな形で保管してたんですか。今なら日銀など銀行に預けますね。
 当時の財産というと、米、小判など貨幣、金塊などを想像してしまいますが、橋などのインフラ、江戸城などの改築や補修、台風や地震など災害の時などの国家の運営に使う費用は、どんな形で貯め込んだ資金をあてていたのですか?

 徳川幕府は江戸城の奥深くに、金塊などを蓄えていたのですか

A 回答 (3件)

いつの世でも、山下大将の隠し軍資金など、枚挙に暇がないくらいに


囁かれるのです。
徳川埋蔵金成る物があれば、徳川幕府は崩壊しませんよ。
佐渡金山の枯渇と東アジアと欧州の金と銀のレートの違いを利用
されて小判が大量に欧米に流失して物価高になったのが、一番の
要因です、薩摩や長州のテロリストが騒いだだけでは、幕藩体制は
崩壊しません。

田沼意次は、今で言う民間活用で新田開発をしようとしたら
汚職の汚名を着せられ失脚しました。

水野忠邦は商人に売上税(消費税)を課そうとしましたが、猛反対
され失脚しました。
金の含有量を減らした小判を造りましたが、バレバレで庶民は小判を
使い分けて使用したので効果は無し状態でした。

徳川綱吉は佐渡金山の枯渇を予想して、現在の為替レート(紙幣)
みたいな制度の導入をこころ見ましたが、400年早かったので、
受け入れられませんでした。

人口増加に伴う物流の増大に、貨幣の流通量が金・銀山の枯渇により、
不足し、それに対処出来なかったので各藩の財政維持が困難となり
幕藩体制が崩れたのです、オランダだけの交易だけでは、外貨を
大量に稼げず、その外貨も金と銀のレートの違いを利用されて、
傷口を広げる事に成り万事窮の状態だったのです。
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公共工事の多くは全国の諸藩に命じて行っていましたので、幕府の財布は使っていませんよ



幕藩体制下の財政の基本は年貢の米です
大阪や江戸の米蔵が基本です
この場合も、幕府直轄の米蔵も有ったと思いますが、基本は札差などの民間業者に米の管理は委ねて、帳簿上での資産という扱いだと思いますが
金銀などは江戸城内の御金蔵ですね


そもそも幕末の頃に埋蔵金として隠すほどの財政的な余裕が有ったと言えるんでしょうか?
水野さんの天保の改革も財政赤字の改善が目的の一つですしね
開国後にはフランスなどに借款を求めているくらいですし

軍艦整備や兵備の洋式転換などでいくら金があっても間に合わないような状況だったと思いますが
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秀吉は、大阪城の金蔵に貯めてました。

大阪の陣前に、いろいろ出費がかさんだので、持ち出してます。
家康は隠居城・駿府城に貯めてました。死後、江戸城に移動するとき、よくこれだけ貯めたと話題になったようです。
この2例を参考にすると、幕府の資産は江戸城の金蔵に貯めていた。
ただ、幕末の少し前、泥棒に盗まれた話。蝦夷を担保にして、フランスから借金しようという話などから、ほとんど資金は残ってなかったのではないでしょうか。

幕府のインフラ事業は、大名家を指名するだけで、1円も出さない。そのための資金をためる必要性はないですね。
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