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 文学作品に限らず、なにかしらの物語を読むというとき、
 「登場人物の道徳意識/倫理基準と、物語そのものの評価は分離して考えるべき」(たとえば、「物語の主人公が悪人→だから、この作品はくだらない」というような評価はアリエナイ)
 というのは、現在、何かしらの物語を読み、評価するときのごくスタンダードな立場だ、と認識しています。私自身もまあまず殆どの場合、そのような読み方をする読者でありますし、私が会話する相手にもそのような読者であるということを期待します。

 しかし、こういった「読み」の在り方は、特に物語の読者となるための基本的な教養として共有している層と共有していない層がいるよな、ということが最近どうも気にかかるようになってきました。言ってみれば、小説を読む/マンガを読む/映画を観るということの「メディアリテラシー」の在る層と無い層という言い方もできるのかもしれませんが、この問題は意外と複雑な議論を含みうるような気がしています。私自身、それがどういった議論になりうるのか、ということを、まだあまり整理して考えられていないのですが、

 そもそもこういった「登場人物の道徳意識/倫理基準と、物語そのものの評価は分離して考えるべき」といった<読み方>の態度の要請は、おそらく極めて近代的な<読み方>の態度なのではないか、という気がするのですが、

(1)こうした<読み方>の態度は一体いつごろから普及したのか
(2)誰が、どういう理屈を掲げて言い始めたのか
(3)この<読み方>に対する論争史のようなものはあるのか

といったことをご存じの方がいらっしゃったら教えていただけませんでしょうか。シャルチエなどの近代読書行為論みたいな領域で扱われてそうな気もするのですが、どうもそちらのほうに詳しい知人がいないので。

 宜しくお願い致します。

A 回答 (12件中1~10件)

補足欄及びお礼欄、拝見しました。


お礼欄に記入があった旨のメールが届いたのは3/3だったんですが、何を書いて良いものやら……、と、一週間悩んでいました。

若干これまでの経緯を整理したいと思います。

まず質問者さんの最初の問題意識というのが

「登場人物の行為を道徳規範に照らし合わせて読むことは、文学作品を読む上で好ましくない読み方である。」という考え方は、近代になって、「文学理論」の成立とともに、誕生したのではないか。
この命題が登場した起源・背景を問いつつ、この命題の正当性を再度検討してみたい。

というものだったように思います。

それに対して、そもそも「道徳規範」抜きには「読む」という行為は成立しない、というのが、わたしの一貫した考え方でした。読み手は、それぞれの身体に刻み込まれた「ハビトゥス」を元手に、象徴体系としてある「文学の森」に分け入っていくのです。それぞれの「道徳規範」に照らし合わせないでは、テクストを理解するどころか、先を読み進むことさえできない。

問題は、読み手自身が作品を「鏡」として、自らの身体に刻み込まれた「ハビトゥス」としての「道徳規範」にいかに気がつくか、それが一地方的な、一時代的なもので、「自分の(あるいは人間の)本質」でもなんでもない、ということに気がつくか、ということです。

ところが、このような読み方というのは、ある程度の訓練が必要になってきます。そうでなければ、読み手がすでに持っている「道徳規範」に照らし合わせて読むだけに終わってしまい、そうなれば読書は「道徳規範」を強化・補強する以上の意味を持たなくなってしまうからです。そしてまた、それ以上の読みに耐えられない作品も、山のようにあります。

あくまでも「文学(批評)理論」というのは、多様な「読み」の可能性を開くものでなければならない。そのためにあるのです。

ですから、

> 作品論をやりすぎることで、受容の実体的な状況論がないものにされてしまうのではないか?

というのは、まあ「実体的な状況論」なんて言葉が出てきちゃう時点で、正直、わたしは頭を抱えちゃって、語るべき言葉を失います。だって、「状況」なんて、いかなる意味でも「実体」なんかじゃないですか。
それを「読む」視点を離れて、いったいどんな「実体的状況」があるんですか?

サバルタンのことも書いておられますが、現にそこにいるのに誰も気がつかないのが、サバルタンなんです。そうして、問題は「語り得ない」、さらに耳にも入ってこないサバルタンの声を、どうやって聴き取るか、ということなんです。

> むしろ、「悪者」というよりも、スピヴァクがサヴァルタンの「語り得なさ」を指摘するような意味で、文学は「語り得ない」ものの位置に置かれてしまうのだと思います。

意味がわかりません。

> 極めてドイツ教養主義的なものにかぶれた一高生徒が自殺したとしても、それが不幸であったのか、幸福であったのか。我々はおそらく「語ることができない」。

なんで他人が「幸福であったか、不幸であったか」なんてことが言えるんですか?
そもそも、そういうことを「語る」必要があるんですか?
これを問題にしようと思えば
・「幸福」をどのように定義するのか。
・「ドイツ教養主義」とは、そもそも何であるのか。
・一高生の当時の日本における社会的・歴史的な地位。
・一高生における「ドイツ教養主義」の受容のなされ方。
そして何よりも、これがなぜ語り手にとっての「問題」になるのか、ということをまず、問題にしなきゃならないんじゃないか。

> 社会に対する影響論的な問題を「語ってはいけない」ものとしても同時に現れてしまう。

そうなんですか?
むしろ、「社会に対する影響論的な問題」というかたちで取り出した時点で、それは文学としての問題ではなくなってしまってるんじゃないんですか?
文学の問題というのはむしろ、「語ってはいけない」ではなく、そこにあることすら気がつかないことを、ほかのやり方では語り得ない方法で物語ることなのでは?
そうして、説明するのではなく、示すことによってそれをしようとする文学が示すものを「読み」、そこからさらにそこから理解の及ばない部分を見つけていくのが、文学評論なんじゃないか。
わたしはそんなふうに思っているのですが。

> 作品を読む、という行為は、読者によって自発的に選び取られる行為だということになっています。

わたしはそうは思いません。
「自発性」なんてものは、「自由意思」と同じで、わたしたちが仮に「あることにしている」もののひとつでは?
わたしたちはどんな意味においても、自由に作品を読んでいるわけではありません。

> もちろん作品は、単純な「原因」の側に置かれるのではなく、無数に開かれた読みを持つ作品―読者が、相互に自己触媒的に作用して、一つの信念が形成されていく

…作用して」までは同感です。
だけど、信念なんてものが形成されるものではないと思いますけれども。
さっきも書いたように「理解の及ばない部分」を新たに見つけていく、ってことじゃないかと。
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文学とはそもそも規範をテーマにした物が多いではないかというご意見、とてもおもしろかったです。



源氏物語だとか、あるいは観ようによっては古事記日本書紀、股旅・仁侠もの、近松、等々日本で人気のある、あった文学を見ますと、どうもむしろ「登場人物の道徳意識/倫理基準と、物語そのものの評価は分離して考えるべき」(たとえば、「物語の主人公が悪人→だから、この作品はくだらない」という見方は近代的な物ではないかと思うのですがいかがでしょうか。
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先の回答を読み直してみて、なんでこんなに不機嫌なのだろう、と自分でもおかしくなってしまいました。

質問者さんとしては、いい災難ですよね(笑)。

ただ、この不機嫌の矛先は、ひとつには、こんなぬるいことを書いていたのか、という、一年前の自分にも向けられています。つくづく読み返してみて、自分の浅さが恥ずかしい。

もうひとつは、質問者さんの言葉の使い方がわたしにはあまりに無造作であるように感じられました。ポリフォニー/モノフォニーを「単純」とみなしている点ばかりではない、サバルタンにしても、東の「確率」にしても、使い方がわたしには奇妙なものに思えます。自分の文章のなかに用語として使うのであれば、もう少しちゃんとした理解が前提となっていくのではないでしょうか。

おそらく質問者さんは頭のいい方なんでしょう。たいていのことは、ちょっと見れば、ぱっぱっと理解することができるような。けれど、ある時期を過ぎると、理論なり思想なり、あるいは文学は、わかることより、わからないでいることの方が重要になってくるのだとわたしは思います。

ある人が長い年月かけて深めていったもの、それぞれの文化的社会的歴史を背負った理論や思想、あるいは文学を、適当なところで「わかって」しまうのではなく、もっとその思想を自分のなかで深めるまでわかってしまわない、ぎりぎりまで理解を遅らせることのできる、「持ちこたえる」ことができる体力みたいなものが必要であるような気がします。

質問者さんがどのようなバックグラウンドをお持ちの方か、批評理論にどれほど真剣に取り組んでいこうとしておられるのかはわかりませんが、いまのわたしは、こういう文章を読むことは、正直、つらいのです。一年前と言っていることが全然ちがうので、自分でも申し訳ないのですが、人間、先のことはわからない、不用意なことは言うものではないなあ、とつくづく思っています(笑)。

不機嫌さをあらわにしたような回答を書いてしまって、ごめんなさい。どうかお気持ちを害されることのありませんよう。
なんにしても、勉強、勉強です。
お互い、がんばっていきましょう。

この回答への補足

*お礼の後に書いた補足

 ただ、Ghostbusterさんにいただいた回答は、わたしの側にとっては、納得のいかないものです。「文学」という領域をどのように切り分け、考えるか、ということについての観察が、ちがっているということを改めて感じるものでした。端的に言えば、Ghostbusterさんが「文学」という言葉によって切り分けているものを、わたしは切り分けてないのだろうな、ということを思いました。そして、切り分けることの意味自体が、一体なんなのか、と考えております。
 しかし、こういう状態だと、なかなか続けて応答を繰り返すのも困難かと思いますので、一端ここで回答を締め切らせていただきたく思います。

 たいへん紳士にご対応くださったGhostbusterさんにあらためて御礼申し上げます。

補足日時:2009/03/12 21:26
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この回答へのお礼

 ありがとうございました。

 おっしゃられるとおり、わたしの言葉の使い方は、あまり言葉の出自にきちんと沿わないものだ、という自覚はあります。それが、お叱りを受ける可能性のある類のものだということも自覚しております。その、お叱りがGhostbusterさんにご指導いただいているような意味で、妥当であることも理解しているつもりです。

 しかし、それはそうだとしても、いつになったら私はGhostbusterさんのような方と、拙いながらの概念で対話をできるようになるのだろうか、ということも同時に考えてしまいます。ご推察の通り、わたくしは日本のがっちりとした人文の土壌そのものでの教育を受けておりませんので、言葉の歴史性よりも、言葉を紡ぐことによって何かを伝えられる可能性のほうを考えてしまいます(むろん、そこでいろいろな誤解が生じるのでしょうが。)。
 そして、またGhostbusterさんのような方からすれば、わたしの理解の程度は、わざわざ言わずとも明らかに生半可に見えるであろうと思っております。むろん、その至らなさにイラっとくる場合があるであろうことも、当然のことかとは思います。今回Ghostbusterさんがイラっときてしまったのは、わたしの書き方にそうさせるものが充分にあったからかとは思います。
 ただ、一応、こちらも、そのような力量の差は、前提にしているものと思っていただければ幸いです。

 わたしもTPOに応じて、言葉の使い方のいい加減さの度合いは変えますか、こちらではかなり甘えた使い方になってしまっております。それは、この場所で質問者側、という立場がそのような甘えをある程度、許容するという算段込みで、というのはあるのですが、
 いずれにせよ、GhostBusterさんに甘えすぎたというのはありますので、こちらこそ謝らせていただきたく思います。

お礼日時:2009/03/12 21:20

すいません。

遅くなりました、というか、ワタシ的にはやっとここまでたどりついた、という感じ(笑)。生きてここに戻ってこれてうれしゅうございます。

さて、いくつかのことを考えたのですが、ここではふたつの観点からおっしゃってることを考えてみたいと思うんです。

ひとつには、ポリフォニーかモノフォニーか、という角度から。

このポリフォニー理論というのは、ロシア・フォルマリストのひとりミハイル・バフチンの理論なんですが、きちんとした理論は『ドストエフスキーの詩学』を見ていただくとして、かなり荒っぽくまとめてしまうと、モノフォニーというのは、日本語にすると単一の声ですよね。たったひとつの声で語られる作品、つまり、作品のなかで起こるあらゆるできごと、あらゆる会話がたったひとつの意味を指し示すような作品です。言い換えれば、世界をたったひとつの解釈によって見ていこうとするものである。

ポリフォニーというのは逆に、ある出来事はこういうふうにも読めるし、またこういうふうにも読める、というもの。バフチンは、小説というものは「それぞれの世界を持った複数の対等な意識が、各自の独立性を保ったまま、何らかの事件というまとまりの中に織り込まれてゆく」ものである、というふうに考えます。

大澤真幸は『思想のケミストリー』のなかで、このポリフォニーを援用しつつ、漱石文学についてふれている。
そのなかで『三四郎』で広田先生が美禰子のことを「偽善を行うに露悪をもってする」と言った部分を引用しながら論を進めていっている(いま本が手元にないんで、曖昧な記憶にもとづくいい加減な記述です)。

つまり偽善者っていうのは、自分が善い人間だと思わせたいという意図をもって行動する。ところが露悪家というのは、これは偽善ですよ、と明らかにしながら、偽善をしてみせる。するとどういうことになるか。本来の意図が宙づりにされてしまう。

この指摘はものすごくおもしろいと思うんです(ここから大澤は漱石の『こころ』の読解をやっていて、これまたすごくおもしろいんですが、話がずれるのでここではふれません)。

いまではほとんど死語になっちゃったかもしれませんが、昔「ぶりっこ」のアイドルがいた。あれは「偽善」だ、とわたしたちは思う。ぶりっこ=偽善をすることによって、逆にそうではない彼女の「本性」みたいなものがあきらかになってしまう(それがほんとうの彼女の姿なのかどうかはわかりませんが、わたしたちは「ぶりっこ」をする彼女の向こうに、「ぶりっこ」とは反対の姿を見てしまうのです)。

「ぶりっこ」にそういう当初意図されたものとは逆の効用があることがわかって、つぎの世代のアイドルが、同じような「ぶりっこ」の格好をしながら、「わたしはこんな格好、好きなわけじゃないんです。これは事務所の方針なんです」というメッセージを、言葉ではない、なんらかのかたちで送り続けるとする。わたしたちは「ほんとうの彼女」の姿を特定できません。

するとどういうことがおこるか。
「彼女のほんとうの姿」というのは空白のまま残ります。わたしたちはなんとかその空白を埋めようと、彼女の姿を追う。

意味というのは確定した段階で、消費され終わってしまいますが、宙づりにされた意味は、解釈したい、空白を埋めたいというわたしたちの欲望を喚起し続ける。

ポリフォニーの文学は、そうした意味で、わたしたちの欲望を喚起し続けるもののはずなんです。

さて、質問者さんのご質問は、そういうポリフォニーの文学を、モノフォニックに読解することの問題点というふうに置き換えることができます。

そうするといったい何が問題点として起こってくるか。

「それぞれに独立して互いに融け合うことのないあまたの声と意識、それぞれがれっきとした価値を持つ声たちによる真のポリフォニー」(『ドストエフスキーの詩学』)から、たったひとつの声としか聞かないとしたら。
そういう人は、いったいどんな声を聞き取るんだろう。

それは、わたしたちに一番なじみのある声なんじゃないか。
つまり、わたちたちにとって、日常的な、自明な声です。わたしたちがあたりまえと思っていること。おそらくポリフォニーの文学をモノフォニックに聞いてしまうことの問題点はそこにあると思う。

「時代」というのは、その時代特有の考え方のくせ、価値観、「常識」というものを持っている。けれども、そのなかにいるわたしたちは、そうした考え方のくせや価値観や常識を当たり前のように思っていて、疑問に思うこともない。

「時代」を浮かび上がらせることがなぜ必要かというと、とりもなおさず、わたしたちが疑問にさえ思わないそうしたものに、疑問の目を向けさせるためです。ポリフォニーという手法は、本来ならそのために導入されたはずだ。

けれどもモノフォニックに聞いてしまうことによって、疑問を提示するはずのものが、いっそうその価値観や常識を補強するものになってしまう。
そうしたとき、問題になっていくだろう、と思います。


さて、もうひとつ。
わたしがポリフォニー/モノフォニーという言葉で、質問者さんの問題を書き直しました(勝手に:笑)。
それは「道徳意識/倫理基準」という用語を避けたかった、というのがあります。

上の話とも関連するのですが、たとえば、十代の妊娠が問題になるのは、あくまでも近代の枠組みという観点からです。

> 『動物のお医者さん』で、獣医を目指すのは美談
> ヤンキー漫画の主人公をロールモデルにして、がんがんと喧嘩に明け暮れたり、恋愛漫画の主人公をロールモデルにして、恋愛依存体質みたいになってる子は確実にいるだろう

こういう意識は、「道徳意識/倫理基準」と言っていいんだろうか。むしろ、ピーター・バーガーのいう「信憑性構造」に過ぎないんじゃないか。

(※「信憑性構造」に関してはhttp://www.socius.jp/lec/02.htmlのまんなかへん、「宗教的構図」のところに非常によくまとまった説明があります。)

わたしたちはやはり善い/悪い、という二項対立でものごとを見てしまう。そういう見方をしなければ、自分自身のつぎの行動を決めることすらできません。
けれども、一方で、その善い/悪いというのは、わたしたちが生きる時代の、あるいは社会のイデオロギーと無縁ではありえない。
そうしたイデオロギーの存在に気づかせてくれるのが文学でもあると思うんです。

> 佐世保の事件にせよ、佐川一政にせよ

彼らの行為を考察するとしたならば、まずすべきことは、「信憑性構造」をはずすことなんじゃないか。それが無理でも、自分たちにいったいどういうバイアスがかかっているかには自覚的であるべきじゃないか。
わたしたちは法律家ではない。医者でもない。
じゃ、わたしたちにできることは何かといったら、彼らの行動という物語を、できるだけポリフォニックに読み解くことなのではないか。
たとえばわたしたちが人を殺すということを「悪」と措定するならば、それはどういう立場からそれを「悪」というのか。まずそういうところから問題にしなくちゃいけないんじゃないかと思います。

そのことと、現実に「ヤンキー漫画の主人公をロールモデルにして、がんがんと喧嘩に明け暮れたり」する子が現実に被る不利益をどうしたらいいんだろうか、という問題とはいったん分けて考えたいと思うんです。

ただ、もしかしたらこのケースは原因と結果がとりちがえられてるかもしれない、っていう気はなんとなくします。

つまり、「喧嘩に明け暮れ」るような活動の選択肢が極めて限られているような子だから、「ヤンキー漫画の主人公をロールモデル」にするしかないのかもしれない。

小さい頃から、女といえば男とくっつく(笑)、という物語を延々と見せられることによって、「男に惚れられてナンボ」という価値観を築いてきた女の子が『NANA』(わたしはこれは読んでないからよくわかんないんですが)を選択するのかもしれない。

なんにせよ、原因と結果というのは、しょせん主体がある種の事象を自分に説明するための物語ですから、あまり客観視しないほうがいいと思います。問題はその物語を使って、どれだけ豊かな物語を自分がそこから作り上げ、人を説得できるかなんだと思うんです。


まあ、こんな具合に思ったことをいくつか書いてみました。
わたしは基本的につきあいがいい(そうでもないか、という気がしてきました。言い直そう)、おもしろそうな話には(笑)つきあいがいいので、またここから思いついたことがあれば聞かせてください。

書いてみなきゃ自分でもわからないことっていっぱいあるし。
特に、この考えは自分のうちでしか通用しないのか、それとも自分の外に出して、何らかの意味を持つのか、という不安は、わたし自身が常日頃感じているものなので。

以上、このなかから参考になることがひとつでも見つかったら、すごくうれしいです。

この回答への補足

一年ぶりぐらいのお礼で、非常に恐縮なのですが、
何度か、どうやればghostbusterさんを説得できるだろうか…!と考えていたのですが(笑)

とりあえず、いま考えていることとしては二つ書かせていただければと思うのですが、



 まず、第一に、バフチンのポリフォニーとモノフォニーの問題は、私も人文系の話にはghostbusterさんには全く及ばないないにせよ、耳学問的なレベルではなじみがあるので、こういった返答をいただくのはよくわかります。ただ、一方で、ポリフォニー/モノフォニーという分節化が妥当性を問いたいと思うのです。
 むろん、作品というのはポリフォニカルな可能性に溢れているので、それをモノフォニカルに解読するという言説が、短絡である、という批判は非常に真っ当な批判だと思います。ただ、その一方でポリフォニカルな可能性について論じる時に、作品論をやりすぎることで、受容の実体的な状況論がないものにされてしまうのではないか?という再反論に対して「登場人物の道徳意識/倫理基準と、物語そのものの評価は分離して考えるべき」という文学解釈の規範はどこまで答えられるのか?
 ポリフォニー/モノフォニーという分類だといかにも単純な構図なので、できれば、これを「偶然と確率」という区分として括ったほうがよりよいのではないか、と思っています。
 「偶然」というのは、常にどのような可能性を持つかわからず、常にどこかに対して開かれてゆく可能性を孕む。一方で「確率」という概念は、一定のランダムさや多様さを内包しながらも、全体としてはある平均値や均衡点を見いだすわけですね。その平均値や、均衡点を「唯一の解釈」として提出するような短絡は、むろん、論外だし、つまらないものだと思います。ただし、作品と、読者の邂逅の偶然性や、語り得ない可能性が常に担保される一方で、ある特定の社会的受容が実際に成立しているという状況そのものはあるのではないか。文学理論は、作品の開かれの問題を理論の中心に据えることによって、作品の社会的受容についての問題に対して、積極的に盲目になろうとしているのではないか、ということです。

 これは、少なくとも社会学とかで社会構築主義系の人だと、個別の作品の社会的影響の問題はけっこうガシガシやる印象があります。(下記、けっこう前に読んだ者なのでうろ覚えですが、、)たとえば、竹内洋『教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化』とかでは庄司薫の著作の与えた影響が論じられたり、高田里惠子『文学部をめぐる病い』なんかでも、20世紀半ばの一高のエリート学生の自殺に対していかに教養主義/教養主義の作品群が影響を与えたかというような話は普通になされている。
 一方で、文学理論系の話からの接近となると、ghostbusterさん的な態度というのは、少なくとも日本国内の人文系の方だと、かなり主流だという印象があります。
 もっとも、高田さんや、竹内さんの本では作品の「評価」が下されているわけではありませんし、善い/悪いの話がなされているわけではありません。ただ、どっちの本だったのか忘れたのですが(すみません…)、文学少年の一高生徒の一人が「文学のために死ぬ」的な理由で、自殺に行ったときに、それを周りの生徒たちが気持ちよく送り出してやって、教師が止めに行こうとしたら「あいつをいかせてやれ!」的なことを言われてむしろ、教師が止められるというような事件が紹介されています。
 むろん、このような事件があったからといって文学を安易に「悪者」にできるとは思いません。むしろ、「悪者」というよりも、スピヴァクがサヴァルタンの「語り得なさ」を指摘するような意味で、文学は「語り得ない」ものの位置に置かれてしまうのだと思います。極めてドイツ教養主義的なものにかぶれた一高生徒が自殺したとしても、それが不幸であったのか、幸福であったのか。我々はおそらく「語ることができない」。
 ただ、「語ることができない」ことの地位を、人文的にただしく認めることによって、これは社会に対する影響論的な問題を「語ってはいけない」ものとしても同時に現れてしまう。これを、悪影響論として断じるのは、議論図式として単純だと思います。しかし、一方で、この問題の「語りえなさ」だけを語ることも、同様に短絡なのではないか。
 わたしには、ここにある分裂。あるいは、共犯関係が、どうにも奇妙に捻れたものに見える、ということです。
 これが一つめです。

補足日時:2009/03/03 20:36
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この回答へのお礼

 もう一つは、強制的な条件付けと、自発的なオペラント条件付けの区別の問題を考えてみるといいのではないか、ということです。うまく着地できるかどうかわかりませんが、考えていることを述べてみます。
 たとえば、パノプティコン的な装置というのは、囚人という主体を従属させる装置として非常に上手く機能するわけですよね。この従属へのプロセスでは、囚人という主体は、従属することを望んでいるのかどうかがほとんどわからない。あまりにも囚人を意識を上手く馴致してしまった結果、自由意志とはなんぞや、という事態に陥ってしまう。
 ただ、そうは言っても、牢獄という装置である以上、『時計仕掛けのオレンジ』で囚人が強制的に、その意志を剥奪されるような描写がありますが、ああいった「身体反応の押しつけ」としてこれは位置付けることが、たぶん…できる(?)。すなわち、強制的な条件付けの一種だと位置付けられる。
 一方で、作品を読む、という行為は、読者によって自発的に選び取られる行為だということになっています。むろん、学校の教師から、性格矯正の目的で、道徳的な(!)課題図書50冊を強制的に読まされるというのでは、自発的だとは言えないので、そういうものは除きます。そうではなく、ヤンキーのお兄ちゃんが、「自発的に」友人たちの評判たちなどを頼りに作品を読むとき、作品は常に読みの偶然性に支えられている。と、同時に、むろん、読み手のハビトゥスが大なり小なり効くことで、ある特定の読解を確率的に可能にしていくような地平が拡がっていることも、実態としてあるはずです。信憑性構造の例を出していただいたのは、とてももっともなことで、信憑性とか常識が、どんどん構築されていく過程がある。しかも、その常識は、「自発的に」形成されたものなので、外部の人間が、安易に断じることができない。このとき、もちろん作品は、単純な「原因」の側に置かれるのではなく、無数に開かれた読みを持つ作品―読者が、相互に自己触媒的に作用して、一つの信念が形成されていく…というような、そういうプロセスがあるのではないか、と。
 (なんか、話広げすぎて、きちんと回収できてませんが…)

お礼日時:2009/03/03 21:46

お礼欄・補足欄拝見しました。


拝見していくつか考えたこともあったのですが、ちょっとまとまった時間がとれそうにありません。明後日くらいにたぶん何か書くと思うので(笑:お役に立つかどうかは不明です)、もうちょっとあけておいてください。
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この回答へのお礼

 どうもどうも、そんなに律儀に急いでいただくのも恐縮なので、当分あけときますね。
 わたしのほうも、なんだか、話し相手をしていただいているような感じなので、気ののったときにでも返信していただくぐらいにしていただければ。

…しかし、わたしのお礼欄もちょっとガーッと頭に出てきたことを推敲せずに書いているので、読みかえしてみると、意味のとりにくい箇所やら、ちょっと言葉の使い方つっこまれそうな箇所おおいですが…。

 基本的にはghostbusterさんの話で、わかるといえばわかる。人文系教師としては確かにそこを持ってくるのはすごくよくわかる。……けど、なんかその話だけで……ということになると、収まりのわるいところもあって…うーむ…という感触をなるべく書き出してみているのですが、書きながらわかればいいな、ぐらいの感じです。

 何がおさまり悪いんだろうなぁ…
 前半は、歴史/地域/社会階層の文化の多様性とか変化の話にもっていかれてしまうと、それはそうなんだけど、それだけだと問題意識が一つか、二つぐらい引っこ抜けてしまう感じなんですよね。
 後半は、ちょっと過激な例ひっぱりすぎましたけど。基本的には人間の合理性への期待ってどこまで持てるのだろうか、みたいな。まあ、これだけだとよくある議論のやりとりに落ちそうな気もしますが…。論じわけが必要かも、と言った割に、同じクラスターで論じようとしていてよくないかもなぁ……いや、最近、大学進学率の低い高校の子とかと、ちょくちょく話す機会とかがあり、話しをしていてて頭の良さそうな子でも、周囲の友人のリアリティとか、メディア環境のリアリティとかに囲い込まれると、ちょっと驚くような発言とかをするのを聞いてしまったりするので。。。。

お礼日時:2008/02/03 21:19

本来の御質問である(1) (2) (3)のことにおこたえするだけの知識も持ち合わせておりませんもので前回投稿では長文の割りに御質問者様の益に供することもできず失礼致しました。

ただ、プライバシー侵害の問題にしても、一般の素朴な(要するにリテラシーレベルの低い)読み手が圧倒的多数を占め続けるうちは、付きまとい続ける大きな問題に違いないと思います。まあ「高野悦子の話と、ドン・キ・ホーテの話」でしたら、いろんな意味での距離感と読みの姿勢が違い過ぎますけど(笑)
>柳さんの表現の自由は、もう少し擁護されてもいい
これが実現されるか否かにも結局かかわってくるであろう問題だと思います。
先の御回答者様の文中「くだらない、と読むのをやめちゃったらそれは困るんですが、そういう意識に対して「読者をおどろかせたいと同時に読者に信じてもらいたい」と揺さぶりをかけていく。」というくだりがありますが、ここは、まさに作者の手腕がモノを言うところでもあり、このことは特に私小説の分野で注目され易いプライバシー侵害などの問題に関連させて考えた場合、深刻なものを孕んでくるのではないかと思います。
>表現の自由の、弱者への行使は不可という佐々木譲の引用先の文は、それもまた素朴か、と…。「弱者」が純粋に弱者として機能するなどありえないので…。パラパラしか読んでないですが小浜逸郎『「弱者」とはだれか』あたりがそういう基礎的な論点はフォローしてたか、と。

「素朴」であることがマイナスの要素とは私は必ずしも思わないのですが
>「弱者」が純粋に弱者として機能するなどありえない
というのがどういうことなのか、私の投稿内容とどう繋がるのか、よくは分からないですが私は場合によっては、あり得ると思います。立場の逆転ということも含めて。
小浜逸郎『「弱者」とはだれか』興味を持ちました。御紹介有難うございます。

書き手側の一人としての正直な気持ち、最大の目的の一つとして、いわくアクチュアリティの獲得、いかに読み手側を信じさせることができるかという欲望と手腕が高いほど、読み手側が身に染み付いたような規範にとらわれず冷静な読みをするということの困難さも高まっていくということもあるかと思います。
一般的なレベルの読者つまり圧倒的多数派は、まだまだ素朴な読みかたをしているのが現状でしょう。そこをどうリテラシーレベルを上げていくかという問題なのでしたら、それこそ高等な理論のわきまえと実践とが、いずれ要請されてきてしまいますね。果たして、そんなこと現実的に可能でしょうか。また、そのことによって、確かに、いわゆる素朴な読みというものから何かが失われてしまうということがあるのかもしれない。

先の御回答者様の文中より拝借しまして、自分を支配している規範の存在に気づき、その根拠を考え、疑う、ここまでのことを果たして現状、一般的レベルとしての素朴な読み手側全員に期待できるのか。
言うところのリテラシーが低い読者は追体験を味わって、そこに興味を引かれるもの、何らかの実行意欲を刺激されるものがあれば、それに従っていってしまうということでしたら、そもそも「登場人物の道徳意識/倫理基準」それらを自己内部でしっかり弁別判断できるだけのものを持っていながら不純異性交遊だの暴走行為だの麻薬だのといった社会問題に直結するようなことを作品の登場人物を易々と猿真似してハマるわけないんじゃなかろうかと。こうした状況にハマリ込んでしまう人のなかには、見かけ以上に深刻な内部的問題を抱えている人も多いように思います。前回投稿で述べた実際の出来事の当事者だって、「楽しむ」というような、ゆとりある域は最終的に通り越していましたしね。自分自身は現実と虚構の区別が辛うじてついていたとしても、他人が全く情報を持たないことを利用して、現実と虚構の区別がつけられない世界へと無理やり引きずり込もうとしたわけですから。(もっとも早々に失敗したのだけど)第一、実際にハマってしまってからでは遅いわけでしょう?
「作品を読むことで、主人公の行為を追体験し、そうしながら自らをとりまく社会を考え、自分を支配している規範の存在に気づき、さらには規範の根拠を考え、それを疑う」これらをして「きわめて倫理的な読書行為」とするならば、その倫理というものを現状、リテラシーが低いとする一般の読み手側だけに要求して済ませられるのでしょうか。書き手・発信者側の責任は、より重くなるのではないでしょうか。

改めて、大変「貴族的な」質疑と存じます。と同時に、なかなか「アクチュアリティの獲得」も困難かと(笑)
>リテラシーの問題に回収してしまうだけではよくない
よくないというよりも非常に困難なことだと思います。
高等教育と高尚な理論を身につけること或いは持って生まれて資質に恵まれた人ばかりなら、このような問題提議の必要もないようなものでしょう。しかし現実は、そうではない。「18禁」という制度のことを挙げておられましたが、確かに必要性があるからに他ならないのだろうし「そういうリテラシーが全然ない人たちが読むことを前提にしてなりたっている作品流通の市場は確実にある。」その需要が現実にあるということでしょう。
いわくリテラシーの高い人が手にしようという気になる作品は、そういう人の需要を刺激するレベルのものでありましょう。低い人には低い人の需要がある。要するに住み分けというものがある。
>そこで「作品と規範を切り離して読む」というような物言いがいかなる効果を持つのだろうか」
困難ですね(笑)仮にリテラシーが高い人ばかりの世のなかになれば、作品のレベルだって、それなりのものばかりになるのでしょうし或いはセンセーショナルな作品が出たところで、なにしろ読者はリテラシーがお高い人ばかりなのだから、作品が及ぼす社会問題などを心配しなければならない必要もなくなるんじゃありませんか?でも、ところでリテラシーを上げるということが、どうやっても困難な人を、いったいどのようにしてなくすんでしょう?「おバカキャラという役割を演じる」のは、「演じられる」ということに他ならないのです。
>そういった読者層がメインとなる作品流通市場の問題と、文学作品を読むという読みの態度を持つ人々の問題とは切り離して考えることができるのではないか。あるいは、論じ分けがあってもいいのではないか

実際のところ、そんなもんになっているんじゃないでしょうか。ですから住み分けてるそれぞれにおいて、そのレベルならではの問題が論じられていると思います。

文学作品などに出てくる題材というものは、決して本当の意味で、その時代や社会規範と、また人間心理(作者側も含めて)と全く無縁なところから生じるわけではないのでないかと思います。それがどんなに驚異的で破天荒であったりスキャンダラスであったりしても。

昔々大昔は、文字自体が一部特権階級のもので、一般庶民にはご法度だったそうですが、リテラシーの多様性、或いは格差をどうするか?いかにも現代ならではの問いですね。こんにち、子どもであろうが幼児的オトナであろうが精神異常者であろうが、インターネットという世界の発達により、基本的に誰でもが発信者側として登場することが可能になってもいますしね。リテラシー向上委員会と称してボランティア団体でも結成しますか。
それでもやはり「貴族的」。(笑)あまり、どうもできないでしょうね。そのなかでの可能な限りの努力だと思います。
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この回答へのお礼

 ありがとうございます。
 ただ、みじかい返信でまことに恐縮なのですが、

 私の問いや(ghostbusterさんの問題化も)、かなり反語表現でなされておりますので、その点、くみ取っていただければ幸いです。わかりにくくて恐縮です。

お礼日時:2008/02/03 19:09

御質問の本旨に沿わないかとは思います。

また文学理論とか批評理論について専門に勉強したわけでもありません、現実に起きた事柄からの参考意見として述べさせていただきます。恐らく甚だしい拡散を呈するかと危ぶまれますが、御容赦くださいませ。

世のなか、自己利益を目論んでの他者への排斥行為そのものをして「文学」と位置づける人もいるのだということに驚き、いわゆる「文学」というものに該当する範囲とは?と考え込んだことのある者です。そして一応、純文学としての、また商業文としての、書き手側に身を置く者でもあります。(ほぼ頓挫状態ではありますが)
作品を書く側の一個人としては、いわく「形式」であるとか「構造」であるとか、そうした面での新味等を評価されても、それほどには嬉しくありません。確かに、書き手としての意識を中心に他人の作品を鑑賞した場合、そうした面のほうへと集中しがちになり、一読者としての純粋な素朴な楽しみかたがしづらくなるという心当たりはあります。言わば「職業意識」で読んでしまうというか。
文学作品或いは小説というものの本来、究極の目指すところが何かと問えば、それはやはり人間そのものと、それへのインパクト、インスパイアであると思います。

「他者への排斥行為そのものをして文学と位置づける」というのがどういうことかと申しますと、つまり実際の「排斥行為」そのものに、
まさに「リテラシーが全然ない人たちが読むことを前提にしてなりたっている作品流通の市場」としての、その場における「リテラシーが全然ない」私が気づいたあと、そのことへの異議申し立てと共に理由の説明を求めたところ、罵倒のコトバと共に「実験」だとか「お話作り」「ネタ」「文学」「歴史」といったコトバが差し出されてきたということなのです。最終的には「言い間違い」「錯誤」というコトバに変わっていってましたが(苦笑)
「黙秘」というコトバも盛んに発していましたが、なるほど、気づかれては困る、信じていてもらわねばならないということだったのでしょう(笑)
「お話」をよすがに「自由にご想像ください」という提案もなされていましたが、その「想像」の内容を必ず報告すべし、という義務も込み
(つまり「エンコーディング、デコーディング」と言い替えることもできるでしょう)
ということのようでした。
そう言えば「教育」とか「発展性」とか「未来の可能性」がどうだとかも言ってたっけ(笑)
そこで、私がコラージュ手法(?)を用いて仕立て上げた「想像内容報告書」を提出したところ、どうやら「尊大な発言」であるぞ、との不興を買ってしまったようでした。
何より矛盾を感じたのは、単なるテキストに騙されてはいけない、ということを、しきりに訴えながら、私が発したコトバの真意を執拗に探ろうとするのですが、このこと自体が「単なるテキスト」なる考えに反しているではないか、と思ったことでした。
また、とりわけ「ストレートな表現」というものは侮蔑すべし、とのポリシーを示しておりましたので、こちらも、それに従ったところ今度は「奥歯にモノ挟まっとるんか、はっきり言えー!」と責められてしまいました(笑)
分かりにくい流れでしょうか。でも実際に文学的創造活動(お話づくり)と銘打って(私は知らなかったわけですが)なされたことなのです。

教育から狂気まで。
原初の頃より、こんにちにおいても教育の基本形態であり娯楽であり人間心理の発露そのもの。人間の生活全て、人間がかかわる全てが対象となる。ですから先述しましたような、それこそ俗に言うイジメからペテンまでも「文学」或いは「芸術活動」と称することは可能なのかもしれない。では「文学」「芸術」の名において、どのようなことも許されて然るべきなのだろうか?

たとえば、絵画作品ならば何らかの絵の具や材質によって描かれ、それを額縁に縁取られることで、これは或る人物が、その者の眼を通してつくり上げた一個の作品世界でありますよという「お約束」のもとに鑑賞できます。「文学作品」「小説」であるということならば、図書館や書店の棚に麗々しく背表紙を見せてズラリ並べられた本という形状によって(こんにちではケータイ小説というようなものも出ていますが)とにかく、これは或る一個の人物が、そのうちから排出した飽くまで表現物である、そしてそれは、一定の時間を経てのち、いまここに、こうしてあるのだという「お約束」のもと鑑賞する安心が(第三者には)与えられています。この「一定の時間を経て」ということが作品の評価に大きく影響することも、よくみられることです。ですから、現代では取るに足らないことと見なされるような題材が過去の時代においては発禁にまで処されたこともありますね。
現実の日常生活のなかで行われる現在進行形の「排斥行為」「侵害行為」一般に繋がるようなことと、「文学」「芸術活動」との違いがあるとしたら何なのだろうか。一つ大きく言えるんじゃないかと思うことは、それは、いま現に生きて活動している人間へのダイレクトな「介入の力」です。
時間と場所の隔たり、書籍という形状またはそれ以外のものであっても、何らかの「お約束」が与えられていることを尚も超えて、人心に強い介入作用を引き起こすとしたら、それは、その作品が備えた文学、芸術作品としての力を体現し得たことになると言っていいでしょう。しかし、その「お約束」というものが前提にあると「介入の力」が存分に振るえないとして、これを最初から取り払ったとしたら、どうなるでしょうか。

作者個人から切り離して、作品そのものを一個の独立物として批評する。
これについてはシェイクスピアの逸話が思い出されます。
シェイクスピアには『マクベス』『リチャード三世』といった悪役中心の作品も思い浮かびますが
『ヴェニスの商人』この作品は、私は幼い頃読んだきりながら、主要な登場人物の全員に、それぞれの理由で反感を感じたことを今でも覚えています。かのシャイロックの独白にはユダヤ人蔑視への不満が込められていますが、その当時の英国社会においてユダヤ人蔑視は、ごく当然のこととしてあったそうで、それについてはシェイクスピア本人も個人的に何ら疑問を持ってはいなかったらしいのです。にもかかわらず作品中ではシャイロックに、時代を大幅に先取りしたかのような、あのセリフを言わせている。
ではシェイクスピア以外の、どの作家でも、こうした現象は「文学作品」と銘打たれた以上、必ず見られるようなものなのだろうか?
それとも、飽くまでシャイロックという人物像の陰影を強調する効果を狙ったに過ぎないのか?

たとえば「私小説」というジャンルを一段低いものと見なす立場もありますね。
最近では柳美里氏の作品『石に泳ぐ魚』が裁判沙汰になったことが、まだ記憶に新しいですが、以下は当該作品においてモデルとされた女性の訴訟に関わった弁護士のかたの記述です。
~その小説には、A子さんの国籍、出身大学、大学での専攻、留学先、家族の経歴や職業などの属性がそのままなぞられた副主人公が登場していました。A子さんには顔に一見して分かる腫瘍があるのですが、その障害の病状から外見までがその小説には描かれていました。つまり、A子さんはその小説の中で、自分の属性をほとんどそのまま引き写したモデルとして扱われていたのです。
 ところが小説の中でその副主人公は、外形やプロフィールなどの客観的属性はA子さんのそれをそのまま引き継ぎながらも、また、ストーリーのプロットでもA子さんと柳美里さんとの交友中に起きたエピソードをなぞりながらも、その言動や人格が随所で変容されていました。その変容は、副主人公が奇怪な振る舞いや軽率な行動に出るなど、A子さんの心にひどく打撃を与えるものでした。更にその小説では、A子さんの顔の腫瘍について、直喩暗喩含めてさまざまに侮辱的に描写していました。~
~初めてこの小説を読んだときの衝撃をA子さんは後に、裁判所に提出した陳述書で次のように語っています。
「はじめは、私の経歴がまるで暴露でもされるかのように写し書かれていることに驚愕しました。しかし、読み進むにつれ、副主人公は、私自身の人格から次第に変形してゆき、現実の私にはとうていあり得ない言動をとる、歪んだ人物に描かれていました。外観的特徴は私の姿で描かれているのに、その言動や人格は私が受け容れがたい性質の人間に歪曲されていたのです。」
「小説を読み始めてからというもの、私は部屋の中でひとり転がりもがく程苦しい思いをしました。ともかく何もかもが信じられないという衝撃で、声にならない悲鳴をあげながら、自分の皮を1枚1枚はぎ取るような思いで本のページをめくったのです。」~

以下は判決に対する柳美里氏のコメント。
~私は、事実そのものを書いた部分は『石に泳ぐ魚』の部分にはないと思っていて、あくまで作者の「私」の目を通したフィクションだと思っている。「ここは虚構でここは事実だ」というように判決文は一つ一つ取り出して断定していますが、そのような読み方自体私としては不本意だ。これによって日本でながく続いている私小説というジャンルが書きづらくなり、すべての小説家などにとって重大な問題だと思う。~

↓もし御興味おありでしたら前半部を御覧ください。真偽は存じませんが、どうやら柳美里氏御本人が登場していらっしゃるようです。(後半部分は他の一般参加者どうしの、まぁグダグダした話になってます。)
http://www.yu-miri.com/bbs/test/read.cgi/fanbbs/ …

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/study/taji …

作家 佐々木譲氏『表現の自由』を口にできる場合
http://www.d1.dion.ne.jp/%7Edaddy_jo/journal0209 …

まぁオマケと言うか(笑)
福田 和也氏『喧嘩の火だね』
http://www.shinchosha.co.jp/books/html/390905.html
『柳美里さん、どう思いますか?』
http://okwave.jp/qa389819.html

「創作活動や表現の自由」ということと「読者(一般大衆)の判断、評価の機会を奪ってはならない」ということ。
そもそも「芸術性を考慮」とやらが、実に難しい。それって「個人の単なる主観を守る」ことと、どう違うのか?
私個人は正直申し上げると「表現の自由が、芸術が、文学がナンボのもんじゃい」という気持ちもあります。(だから筆が進まないのか)

人心に影響を与える作品というものは、文学方面に限らず音楽や映像作品等でもそうですが、文学の場合はコトバを使うだけにタチが悪いのかもしれません。コトバは基本的に指示の要素が大きいですから。
幼い子どもなどはテレビ等を見て、すぐに主人公になりきったつもりになったりアイドルの真似をしたりということがよく見受けられます。それでも、ある程度の年齢になれば、現実と虚構との区別はつけて生活していくものです。ところがイイ歳のオトナが、テレビ番組等で悪役を演じた俳優を私生活でも同様のキャラクターに違いないと見なして攻撃的言動をとるというようなことが、ままあるらしい。要するに幼児的な性格とでも言えるのかもしれませんが、こういう人々が現実に存在する、し続けることは如何ともし難いところです。

「類似性」を求めるという行為は小児において、ことによく見られるように、本来的には本質を探り当てるための訓練とも見なせるかと理解していますが、この、とめどもなく「類似世界」を彷徨するかのような事態或いは、現実と虚構との区別があやふやであること、は、精神に異常を来たした人が突如として呈する病理的状態として、よくみられることです。突如として、と申しましたが、実際には早い段階から兆しはあるようです。これらは、本質を直視するにあたわないこと、または逃避、代理、代償という心理的要素が根本的な部分で作用していることも考えられます。

「人生はしょせん歩く影、憐れな役者/……/白痴の語る物語、響きと怒りに満ちてはいるが/何を意味するわけでもない」

…「何を意味するわけでもない」というのは本当でしょうか。
精神に異常を来たした人は往々にして荒唐無稽な「ストーリー」を編み出します。そして、その「ストーリー」を他者が事実と信じ本当のことと見なすことを大変に喜びます。それは、自分の主観を無条件に他者に受け入れてもらうこと、自分の主観が他者に影響を与えることの喜びに他ならないでしょう。しかし、その「ストーリー」が事実無根の荒唐無稽なものであるということに気づかれたが最後、最悪の場合はパトカーのお出ましとなるわけです。
ところで本物の精神異常ではなく、ある程度にせよ自覚がある人の場合、気づかれたら最後ということは常に念頭に置いているようです。これは、いわゆる「ペテン師」においても同様のことでしょう。
世間には、狂気の人の荒唐無稽さを羨むかのごとく、麻薬の作用によってまで、「狂気の沙汰」を手に入れようとする人もあるようですが、実に浅はかにして、いじましい印象を受けます。「天才」と呼ばれたがる心理に通じるもののようでもあります。このことには「承認欲求」ということが絡んでいるのではないかと察しております。

人間が予想したこと表明したことは、やがて実現されるのだ、というふうなコトバを、どこかで見聞した覚えがあります。
時代の規範や枠組みといったものによって表現が制限されるということは、危険が付きまとうと共に望ましい発展性が妨げられる結果をもたらす恐れがあることでしょう。しかし個人的な野心による自由な表現もまた危険と望ましい発展性を妨げる結果をもたらす恐れはあり得ると思います。こうしたことは文学だけの問題ではなく、たとえば政治の分野等でも大いに言えることではないでしょうか。

どのようなものでも作品を「世に出すこと」を意図する者は、例外なく野心家です。
書き手・発信者側に、受け手側への「野心」があるからには、リテラシーの問題というのは、受け手側以上に書き手・発信者側の意識が問われるべきかもしれません。
そして結局この二者は切り離せるものでないように私は考えております。
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この回答へのお礼

ええっと、まずはありがとうございました、というのと、

▼前半部分は、仔細は存じ上げませんので、ご苦労さまでした、としか言いようがないですが、そういうことも御座いますでしょうね。
▼柳美里さんの話は…ううむ、柳美里さんご本人の書き込みをみただけで、少し、目眩が…。……福田さんの遠回しなイヤミはいかにも福田さんらしく……福田さんのイヤミは楽しいです。この話は込み入ってそうな話なので、本題とはズレそうなのであれですが、パッと読んだ限り、この件では柳さんの表現の自由は、もう少し擁護されてもいい気はしました。(ただ、柳美里さんの該当の小説と、当人の事実関係を整理した形で理解していないので「気がした」という程度ですが)
▼あと、表現の自由の、弱者への行使は不可という佐々木譲の引用先の文は、それもまた素朴か、と…。「弱者」が純粋に弱者として機能するなどありえないので…。パラパラしか読んでないですが小浜逸郎『「弱者」とはだれか』あたりがそういう基礎的な論点はフォローしてたか、と。
▼書き手・発信側のリテラシーを!という話は確かにそう言える場合は少なからずあると思います。表現の自由は無制限な自由ではないので。ただ、どういう場合に制限を加えるか、という話としては、例示いただいた件はプライバシー権の話なので、ここでは確かにちょっとずれるかもしれませんね。

お礼日時:2008/02/03 02:04

ごめんなさい。

回答遅くなりました。

レスポンスを拝見しました。
非常におもしろい問題意識をお持ちだと思います。ここで何らかの解決を見るという性格のものではなく、ぜひ、今後とも続けて考えていっていただきたいように思いました。

ですから、これも回答というより、わたし自身の問題意識をあきらかにするかたちで、お互い、それぞれに考えていきましょう、という一種のエール交換(笑)という性格のものになるかと思います。

まず、#3の回答で
> それは単にその時代の人のリテラシーが低かったのか?
> そうとばかりは言い切れないように思うんです。
と書いたとき、どういうことが頭にあったかというと、フーコーの『言葉と物』なんです。

> 1.切り捨てられた可能性にはどうようなものがあるのか

とも関連するかと思いますので、もう少し詳しく書きます。

『言葉と物』には、ドン・キホーテの話が出てきます。
中世とルネサンスは「類似の世界」だった。人びとは「類似」という鍵概念のもと、蛇と龍をともに「博物学」として並べて論じます。
17世紀に入り、古典主義の時代となると、現実とは別個の「表象空間」が成立する。つまり、この時期、いまの時代なら子供でも知っている「お話の世界」が独立するのです。

ところが古典主義時代に生まれたはずのドン・キホーテは、中世の騎士物語を読みすぎたために、中世の類似の法則によって世界を読みとろうとする。女中を騎士物語に出てくる貴婦人として、羊の群れを軍勢に結びつけて解釈するのです。
けれども彼が実際に生きているのは古典主義の時代、そこでは表象空間は独立したものになっている。お話はお話、現実は現実、という世界です。
したがって、世界を「類似」で解釈しようとするドン・キホーテは、完全な狂人ということになってしまう。中世において世界の解読の鍵であった「類似」と徴(しるし)は、もはや狂気の徴(しるし)でしかなくなった。

フーコーはここに、中世のエピステーメーと異なるまったく新しいエピステーメーの誕生を確認しています。ある文化というのは、ときにはわずか数年で、まったく別のものを別の仕方で思考するようになる、と。

この「エピステーメー」という概念は非常におもしろい。類似の概念に「パラダイム」というのがあるのですが、エピステーメーといい、パラダイムといい、確かに時代的な考え方の枠組みというのはあるように思う。

おそらくこれはリテラシーという問題ではない。
エピステーメーというほど大仰なものでなくても、その本の「解読の鍵」がまったく変わってしまう、ある種の考え方をしなくなり、まったく別の考え方をするようになる、というのは、実際にわたしたちもまた経験するところです。

たとえば、わたしは高校時代に高野悦子の『二十歳の原点』という日記を読んだことがあるんですが、もう全然わからなかった。極端な話、明治時代に日本の東北を旅行したイザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読むより、はるかに書き手の考えていることは理解不能でした。『二十歳の…』が70年代の初頭に百二十万部が売れたということは、当時多くの学生の共感を得たのでしょうが、多少時代がずれただけで、作者の苦悩も、問題意識も、ほとんどといっていいほど、わたしは共有できず、ただ、奇妙な気持ちにしかなれませんでした。

どちらが正しいとか、まちがっているとかいう問題ではなく、わたしたちは、ただそういう考え方をしなくなってしまう。
どうしてそうなるか、というと、おそらくわたしたちの社会や文化というものがそういうものだから、としか言いようがないように思うのです。
その部分、根本にあったのは、そういう問題意識です。

ですから、これは質問者さんがおっしゃる

> 作品の評価というのは、絶対的な評価うんぬんというよりも、社会との関わりの中において評価が成立しなかったり成立しなかったりする。アクチュアリティを獲得したりしなかったりする。その一側面として、規範意識あるいはイデオロギーと作品評価というものを観察できるのではないか、とかそういう議論というのができるような気もします。

という部分とも重なると思います。そしてまた「文化」というものをどういうふうにとらえるか、文化とイデオロギーというものはどのように関連しあっているのか、ここらへんはわたし自身、大変に興味のあるところです。

この点に関しては、NHKブックスから出ている大熊昭信『文学人類学への招待 生の構造を求めて』が参考になるかと思います。文学を民俗学的なタームで読み解くところから始まって、イーザーやフィッシュ、ジェイムソンなどの現在の批評理論まで目配りのきいた、大変ありがたい本です。

> 2.読み方をリテラシーとしてしまうことにはどこまで、どのような妥当性があるのか。

カルチュラル・スタディーズでは、おもにメディア・リテラシーという観点から「リテラシー」のことを問題にしていく研究があります。わたしはCSはほとんど知らなくて、スチュアート・ホールもここで教えてもらったんですが、メディアというのが送り届けられるときに、送り手は情報を記号化して送り出す。そうやってエンコーディングされた情報を、今度は受け手が解読(デコーディング)する。このエンコードとデコードのずれのなかに「リテラシー」を位置づけていくわけです。そうやって「リテラシー」という観点から、情報の受け手がおかれた環境、教育をはじめとするさまざま問題が見えてくるわけ。

だから、「リテラシー」というところから考えるやり方も、十分「アリ」だと思います。


> もっと「極端にリテラシーが低い」――たとえば、子供とか、ほとんど本を読まない層の人々の問題をどう考えるか、という点にもありました。

> そういった読者層がメインとなる作品流通市場の問題と、文学作品を読むという読みの態度を持つ人々の問題とは切り離して考えることができるのではないか。あるいは、論じ分けがあってもいいのではないか、と。

これ、おもしろいと思います。
だけど、どうやって問題を立てていったらいいか、わたしにはちょっとわかんない(笑)。

たとえばね、このあいだ、ちょっとTVを見たんですが、何か、クイズ番組なんだけど、回答者がその知識を競うのではなく、逆に、知識のなさを競い合うような奇妙な番組をやってたんです。それがひとつやふたつではなく、あっちでもこっちでもやっている。なかに役者さんとかもいて、最初のうちは、こんなに頭が悪かったらお医者さんとか弁護士の役は回ってこないだろうな、と思っていたんですが、じきに気がついた。

あれは「おバカキャラ」という役割を演じてるんですね。ドラマの役柄とその役者さんを混同する人はいないけれど、その「おバカキャラ」というのは、演じているのか、素なのか、見ている側にもいまひとつ確定できない。たぶん素なんだろう、いや、もしかしてあれが演技だったらこれは逆にすごいぞ、みたいな、その確定不能性を、演じる側も、視聴者側も楽しんでいる(というふうにわたしは解釈したのですが、ちがってるのかな)。

> わたしがヤク中の話を読んでもフィクションとして楽しむのに留まりますが、まわりにヤク中の友人が多く、以前から勧められていて入手もしやすい環境にある人が、ドラッグの素晴らしさを描いた話を読めばドラッグに手を出す可能性は高いでしょうし、実際にそういうことはかなりあるだろうと思います。

手を出す人も、本に書いてあることをそのまま鵜呑みにしているんだろうか、と思うんです。おそらくかなり小さい子供でも、『ドラえもん』の「どこでもドア」があったらいいな、と思いながら、実際にはそんなものはないと理解しているのではないか。
むしろ、ドラッグに手を出すのは、その確定不能性、これはフィクションにちがいない、だけど、もしかしたら実際にもそんな感じが味わえるのではないか、という、確定不能性を自分の手で確かめてみたい、ということなんじゃないかと思うんです。
これもひとつのリテラシーのありようだといっていい。

わたしも当時ヤングマガジンは読んでいまして(笑)『ビー・バップ・ハイスクール』は別に好きじゃなかったけど(『柔道部物語』と『AKIRA』が読みたくて買ってたんです)、とりあえず読んでました。三五が好きだったけど、現実には柔道をやってるような男の子はひとりも知らなかったし、たとえ知ってても、たぶん、絶対に好きにはならなかっただろうと思います(笑)。

>暴走族の好きな漫画

がその手のマンガ、というのは、おそらく自分の世界に近い、という側面はあるだろうとは思います。
あるいは、『動物のお医者さん』というマンガの影響で、獣医学科の志望者が増えたり、シベリアン・ハスキーを飼う人が増えたり。

わたしたちは、フーコー流に言うなら、表象の世界の独立性はわきまえつつ、それを意図的に現実に混入させながら楽しんでいるのではないか。
そうして、その楽しみ方というのは、同じ人のなかでも、かなりのぶれがあるんじゃないか、と思うんです。

ただ、これはわたしにはうまく問題として焦点化できない、というだけのことなので、どうか今後とも質問者さんは考察を進めていっていただきたいと思っています。

非常に雑ぱくな回答となりましたがどうかご容赦のほど。

この回答への補足

 いつの間にか注目の質問にあがっていたようです…。なんかはてなブックマークもついてる…。それはさておき、

 フーコーのエピステーメーや高野悦子の話は、私の考えていたことの一部をがっちり敷衍していただいた感じがします。
*それと、これはghostbusterさんには釈迦に説法だと思うのですが、フーコーのエピステーメーの話とクーンのパラダイムの話は似ているけれども、だいぶ違う…というのは、一応後でこの質疑を確認する方のためにフォローしておきたいとおもいます。
*あと推薦していただいた本は、買うだけ買いましたが、ちょっとまだ積ん読してしまいそうです…。



 で、さて、基本的に読み手のアクチュアリティ/リアリティの変化という話は確かに、エピステーメーの話にしてしまってもよい。とは思うのです。ただ、一方で、高野悦子の話と、ドン・キ・ホーテの話を繋げて論じてしまうことにはどこか躊躇いを感じました。どう躊躇いを感じたのかを書き出せるかわかりませんが、大枠でくくってしまえば、確かに解釈共同体の構成が変化したという話ではある。
 しかし、たとえば、聖書「コリントの信徒への手紙一 / 13章 11節」にある一部で有名な言葉に、

>幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、
>幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。

 というのがありますが、この言葉の含意することは、社会のリアリティの変化というよりは、個人のリアリティの変化ですね。より、私個人の話に引きつけると、私はドラゴンボール世代なので、ドラゴンボールのアニメはまさしく「幼子」として見ていた。まさしく物語の中の孫悟空となり、悟空の親友であるクリリンが死んだときには泣き、敵であるピッコロ大魔王には恐怖しました。しかし、大人となった今、幼子のときのようにドラゴンボールを見ることは不可能です。
 これは、解釈共同体の変化という話でおさまりがつくのかどうか。
 (1).リテラシーの話、(2).コンテクスト/解釈共同体の話、(3).そして読み手が作品の登場人物と一体化する/しない という3つの話は不可分につながっているとは思うのですが、分けて論じられるのではないか、という感覚があるんです。これを論じ分けして、互いの議論の食い違いを交通整理できるのではないか、という気がするのですが、ちょっとうまくまとまりません。

>妥当性

 なるほど。積極的に妥当性を見いだすとスチュアート・ホールを引っ張ってこられたのは、おもしろいです。
 ただ、シチュアート・ホールの言う「リテラシー」の概念が「解釈共同体」の概念と接続されていて、ここで言うリテラシーの話というのは、たとえば、コンテクストという概念に変えてしまってはだめなのかな、とかをちょっと考えました。もちろん、コンテクスト、という概念だと、積極的に情報をエンコード/デコードするという感覚が弱いのです。ですが、もし、その「積極性の強弱の程度」でもってリテラシーという概念と、コンテクストという概念が切り分けられるのであれば、そのポイントにフォーカスすることに何か意味があるのだろうか、とか。
 ううん、わたしも何だか細かい話に入りすぎているかもしれません(笑)

 話を少し最初にもどすと、「読みのリテラシーという概念に回収できないものがあるのではないか」という問いを立てたときの、そこで言う「リテラシー」というのは、「メディアリテラシー教育」のような意味でのリテラシーという言葉が想定されていました。「TV、新聞、インターネットはウソを付くこともある/物語の中のことは本当のことと切り離して考えるべきだ/インターネットに顔や本名を出してはいけない/ゲームのやりすぎでゲーム依存にならないように…」といった意味でのリテラシーの話であり、言い換えれば
 「一つの」リテラシーを肯定することの意義とは何か、という問いだったのか、と思います。スチュアート・ホールの話は確かにおもしろいけれども、特定のリテラシーを肯定/否定するというよりも、リテラシーの多様性を前提にしつつ、その多様性を社会学的な興味からすくい取っていくという話になるように思うので、問いの枠組みが少しずれてしまった感も少しあります。
 確かにリテラシーは多様であり、その多様性がおもしろいことは間違いない。でも、「リテラシーの多様性が、とにかく多様なものとしてあるということは厳然たる事実である」と言われると、それはもちろん、そうなんだけど、では、あるリテラシーを肯定したり、否定したりすることは全くできなくなるのか?あるいは、こう問うてみても面白いかも知れない、「我々はあらゆるリテラシーを肯定できるのか?」または「我々はある特定のリテラシーが全くだめだ、と否定することができるのか?」

補足日時:2008/02/02 09:42
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この回答へのお礼

(続き)

>表象の世界の独立性はわきまえつつ、それを意図的に現実に混入させながら楽しんでいるのではないか。

いや、もちろん、その話は非常によくわかります。「現実と夢の区別がついていない」という批判が投げかけられたとき、再反論の基本となる理屈は、そうなのだと思います。わたしも実際、まともなオタクがエロ本を読んだり、暴力的な表現を愉しむときのありようというのは、そのようなケースがほとんどだとは信じていますし、その理屈でいいと思ってたのです。しかし、最近「それ、ほんとかな?オタクとかは頭いいけど、もっとダメなケースがこの世にはいっぱい存在するような気がしてきた…」という直感がこの質問を支えております。
 これは統計とれよ!みたいな話になってくると思うのですが、世の中の人は思われているより頭いいかもしんないけど、思われてるよりずっと素朴だぞ、みたいな排反する気持ちというのもありまして(笑)、『動物のお医者さん』で、獣医を目指すのは美談かもしれませんが、ヤンキー漫画の主人公をロールモデルにして、がんがんと喧嘩に明け暮れたり、恋愛漫画の主人公をロールモデルにして、恋愛依存体質みたいになってる子は確実にいるだろう、と。そこは、なんていうか、言葉に出してみれば合理的人間観が適用できる範囲は射程を広げすぎになりやすい気がしてしまう。「『NANA』の話に影響受けてる?」と聞けば「まさか、本気で影響受けたりしないよ」と返答する程度にはみんな理性的だけど、実際には、人間はそういう合理性の下にだけ生きてはいない。
 あるいは、佐世保の事件にせよ、佐川一政にせよ、犯行は非常に頭のいい人間がやってしまったわけです。彼らは現実/物語を区分けする程度の理性を持ちつつ、同時にそれに強力に誘惑されていた。(あるいは、この話を出すと大変にズレますが、三島は一体何のために死んだのか。現実のために死んだのか、物語のために死んだのか。)
 また、そもそも、10代前半の少年少女の物語受容というのは、「幼子」のそれに近くて<わたし>=主人公、という構図での物語受容と不可分な時期でもある。そう考えると、18禁とかって制度の妥当性をみんな馬鹿にする人が多いけれど、あれを理論的に語る人がいないが、意外とよく出来た制度のようにも思えてきたりする。
 うーん、わたしも雑駁ですが…

お礼日時:2008/02/02 11:31

 


 追論:主人公と作家の接近 ~ 神学から文学へ ~
 
 作品が倫理を問われるのではなく、主人公の行為と、作家の道徳観が
問われるのです。大学教授が痴漢で逮捕されると、学説まで非難される
ようですが、エロ小説の作家だと、むしろ本が売れるはずです。
 
 たぶん主人公と作家の“同床異夢”が、近代小説の宿命だったのです。
 かくいう下世話な視点で、過去の日本文学を思いだしてみましょう。
 姪との近親不倫で、教科書から追放された島崎藤村の例があります。
 
 夏目漱石の《明暗》などを読破して、嫂に恋情を抱いたかどうかを、
卒論テーマにした女子大生だけでも、数万人にのぼるでしょう。
 最近では、樋口一葉が漱石の嫂になった可能性も伝えられています。
 
 いっぽう松本清張《鴎外の婢》によれば、近隣の陰口を封じるため、
単身赴任の文豪軍医が、つねに複数の女中を置いていたそうです。
(現代においては、年間1000万円ちかい出費です)
 
 ドストエフスキー《カラマーゾフの兄弟》では、神は存在するか、と
いうような大命題をかかげたのに、志賀直哉《暗夜行路》は、農村なら
誰もが思いあたるエピソードで、全編を(陰鬱に)塗りつぶします。
 
 三島由紀夫の《美徳のよろめき》の流行語や《宴のあと》の裁判から、
だれが自衛隊駐屯地での割腹事件を予想できたでしょうか? 
 その夜、彼の本は、全国書店から一冊のこらず姿を消したそうです。
 
 ◇
 
 空論:地を掘るか、海に出るか ~ 地球から宇宙へ ~
 
 わたしは、文学作品には関心がありますが、文芸批評には興味がなく、
研究者でもありません。読み手であるよりも、むしろ書き手の立場から、
(書くために)拾い読みしながら、あれこれ空想をめぐらしています。
 
 通常の文学論は、問題点を絞りこんで、まとまった結論を尊ぶ傾向が
ありますが、逆に問題点を拡散して、別の状況に共通点を求めることも
一興だと思います。研究者の既得権が混乱するので、嫌われますが……。
 
 たとえば、地球が丸いかどうかを論じるに、地面を掘りさげる検証も
重要ですが、はるばる幻のジパングに向っていたら、新大陸を発見した、
というような功績もなくはないのです。
 
 以上の長々しい前置きから、もっともらしく意味ありげな結論を導き
だすのは至難ですが、近世ヨーロッパの虚実論争が、聖書の真偽を直撃
する迫力に、わが国の文壇談義は及ばないと感じてしまったのです。
 
 さいごに(せっかくの機会なので)叫びたいことがあります。
 わたしは、もう数十年前から、新人賞作家の作品を読んでいません。
 題名を見ただけで、手に取る気がしません(以下、その代表作)。
 
 重松 清《ビタミンF ~ Family,Father,Friend,Fight ~ 200306‥ 新潮社》
 綿矢 りさ《蹴りたい背中 20030826 河出書房新社》
 川上 未映子《乳と卵(ちちとらん)200712‥ 文學界》
 
(完)
 
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この回答へのお礼

御礼おそくなりまして申し訳ありません。
いろいろと、示唆深いお話いただきありがたいのですが、確かにbildaさんの話をポイントをしぼって、お話を続けさせていただこうと思うとすこし大変かもしれませんね^^

>近世ヨーロッパの虚実論争が、聖書の真偽を直撃する迫力に、わが国の文壇談義は及ばないと

 前にデリダやら何やらの話を教えていただいた某先生が「テクスト解釈の問題がこれだけ巨大な問題という話になるのは、結局は西欧における聖書解釈の話が、裏側のアクチュアリティとして機能してるからだと思うよ。うん。日本人にはそういうリアリティないよね、やっぱり。」と仰られていたのを思い出しましたが、確かにそんなもんなのかな、と思った記憶があります。テクストが、現実にいかなる変更を迫るか/迫ったかという話は日本ではそんなにたいしたアクチュアリティのある話題ではない。

お礼日時:2008/02/02 09:37

> 「登場人物の倫理観を作品評価と切断するという読み方は、実はロシアフォルマリズム的なイデオロギーをひきずっている。

社会全体として見ればある意味で、<狭い>欲望――文学を純粋な作品として評価する――を持った人々の基準に引きずられすぎているのだ!」

えーと、多少は哲学をかじった人間から言わせていただきますと、まず「イデオロギー」という言葉はできるだけ慎重に使いたい、という思いがありまして、ロシア・フォルマリズムをイデオロギーと呼ぶことには、歴史的な経緯も含め、多少抵抗があります。

そのうえで、ふたつのことが混同されているように思います。少し整理させてみてください。

まず、文学作品を前にした読者は、文字を追いながら、出来事を頭の中で組み立てながら読んでいきます。たえずこれはどういうことなのだろう、登場人物は何を考えているのだろう、と、前後の脈絡をつけながら、プロットを組み立てているわけです。

そのとき、わたしたちが想像する登場人物の動機というのは、読者が生きている社会の規範に沿ったものです。たとえば『源氏物語』などを読むときは、光源氏の性的放埒はけしからん、と考える代わりに、当時は貴族は通い婚で、一夫一婦制ではなかったのだ、と規範を置き換えて読むこともします。

けれども、そうした知識で補うことはしますが、やはり外国の物語や時代が異なる物語であっても、読者が属する社会の規範をとりたてて意識することなく、息をするように自然に当てはめながら読んでいくのです。

つまり、結局は、わたしたちは自分が生きている社会の規範というものを小さい頃から学習しつつ成長してきて、あたかも空気をふだん意識することがないように、その規範に従って生きているということなんですね。そうして、自分のまわりの人々、あるいは本を読んだり、人の話を聞いたり、映画を見たり、TVドラマを見たりするときも、そういう規範を、ほとんど意識することもなく当てはめていく。

そこで、仕掛けをする作者が登場します。
たとえば主人公に金貸しの老婆を殺させてみたりする。わたしたちは、当然規範に当てはめて、まず彼の行為を良くないもの、と断罪する。けれど、主人公が考え、あるいは悩み、とまどうプロセスを読者が共有することで、わたしたちが深く考えることもなかった規範そのものに意識を向かわせる。

あるいは、奇妙な言葉をしゃべる主人公に、薬物を摂取させた上で、仲間たちと集団で老人に殴る蹴るの暴行を加えさせてみたりする。わたしたちはこの彼の行動に眉をひそめます。ところが、彼がとらえられ、教化プログラムを受けさせられ、暴力的な行為に出ようとすると、激しい肉体的な苦痛を感じるようになり、その結果、看守のブーツをなめるような屈辱的なふるまいをするようになる。そこまでくると、読者はアレックスの側に立っていて、善いとされる行動が、自由意志によるのではなく、肉体的な強制によってとらされることのおぞましさを感じるようになる。そこから、規範と自由意志の問題について思いを巡らせる。

わたしたちは作品を読むことで、主人公の行為を追体験し、そうしながら自らをとりまく社会を考え、自分を支配している規範の存在に気づき、さらには規範の根拠を考え、それを疑うことさえしてみます。このとき、読書行為というのは、きわめて倫理的な行為となっていると言えるでしょう。

質問者さんが問題になさっているのは、こういう倫理的行為としての読書のことではありませんよね。

そうではなく、たとえば金貸しの老婆を殺すから『罪と罰』はけしからん、アレックスやそのドルーグの行動は許し難いから『時計仕掛けのオレンジ』はけしからん、作中に汚い言葉が使ってあるから『ライ麦畑でつかまえて』はけしからん、ボヴァリー夫人が不倫をするから『ボヴァリー夫人』はけしからん、という態度ですよね?

確かにこれは、そういう読み方をしてしまう読み手の側のリテラシーの問題というレベルで片づけてしまいたい誘惑にかられます(笑)。

登場人物と一緒に、泣き、笑い、あたかも自分が作中人物になりかわり、どっぷり一体化するような読み方では、前述のような読み方はなかなかむずかしいものがあります。
作品を作品として評価する、という視点がなくては、作品を読み進むうちに、自分自身のものの見方が変化していることに気がつくことはできない。作品を形式として評価することができなければ(あるいは、意図に関する誤謬や情動に関する誤謬に陥らないようにしなければ)無理だろう。
読者のリテラシーを高め、作品をより豊かに解釈するために、さまざまな批評理論というものもあると思うのです。

けれども、一方で、リテラシーの問題だけに還元することもできないように思うんです。
たとえば、あの「チャタレイ裁判」は何だったのか。
あるいは、サドの作品のように、その時代、道徳的に許されないという理由でまったく評価されず、時代を経てその価値が認められるような作品もある。
それは単にその時代の人のリテラシーが低かったのか?

そうとばかりは言い切れないように思うんです。
もっと規範、あるいはイデオロギーと人間の意識の関係というのは、単純化されないものがあるように思うんです。
わたし自身もそれ以上のことは言えないのですが。

曖昧な回答で申し訳ないのですが、意図を酌みとっていただければ幸いに思います。

この回答への補足

改めて詳しいご回答ありがとうございます。イデオロギーという言葉をghostbusterさんのような人に安易に使ってしまったのは、ご容赦くださいませ。

さて、ghostbusterさんの整理は、それはそれで、ごもっともだとは思いました。私なりの言葉で理解を再提示させていただくと

(1)規範と関わりながら読むことの不可避性と、不可避であるがゆえに規範を外側から見つめる契機を与える読み。規範を問い直す契機を与える読書ということのの問題。言うなれば、物語が規範を評価する。
(2)物語が規範を問い直すのではなく、規範によって物語が評価され、問い直される読み。

 という二つの方向になるかと思います。
 この場合に、批判のやり玉にあがるのはしばしば後者ですが「後者のような読み方をリテラシーの問題に回収せずに、再評価できる可能性があるのではないか」という態度が、おそらくお互いに共有したいと思っている出発点となる問いなのではないか、と思っています。わたしの書き方が、乱暴なので、整理した見取り図を提示していただくようなことになってしまっていて恐縮です。
 その前提を確認した上で、改めて私の側の問題意識に戻ると、考えたいことの一つはghostbusterさんの「リテラシーの問題に回収しきれない」「規範、あるいはイデオロギーと人間の意識の関係というのは、単純化されないものがある」ということの内実です。
 たとえば、作品の評価というのは、絶対的な評価うんぬんというよりも、社会との関わりの中において評価が成立しなかったり成立しなかったりする。アクチュアリティを獲得したりしなかったりする。その一側面として、規範意識あるいはイデオロギーと作品評価というものを観察できるのではないか、とかそういう議論というのができるような気もします。またさらに色々な議論へと接続されうるような気もするのですが、少なくともリテラシーの問題に回収してしまうだけではよくないという予感だけは強力に漂う。なぜ、リテラシーの問題に回収するだけではいけないのか、といえば、それは「人が芸術を評価する」という行為の在り方の総体を考えたときに、どうも、しっくりこない。もし、リテラシー=「正しい読みをする能力」という言い換えをするならば、「正しい読み」の「正しさ」というのは一体何によって保証されるのかがよくわからない。
 「正しく読む」と言わずに、「もっと楽しむための読み方」と言えば、わかるような気はするのですが、「楽しむため」ということを言い出すと、どのような楽しみ方を選び取るかによって人を、断罪するようなことはもちろん、できなくなる。「登場人物と一緒に、泣き、笑い、あたかも自分が作中人物になりかわり、どっぷり一体化するような読み方」というのもまた一つの非常に強力な快楽を呼び起こす読み方であって、どっちがいいか、とか言い始めると、それは作品の内容によるとしか言えなくなってくる。(両方の態度を横断できるといいな、とかも思うのですが、たとえば、今の私には、子供のように子供番組の正義のヒーローが活躍する番組を感情移入して見るというのは無理ですね 笑)
 批評というものが、可能な限り豊かな作品解釈を提示するためにあるのであれば、<リテラシー>という概念を持ち出すことはどこまで得策なのだろうか、と。<リテラシー>という概念を持ち出すことによって、ある種の読み方の可能性が捨て去られることになるとなると、それはどうなのだろうか、と。
 …と、ここまで書いて疑問が少し形を得てきたような気がするのですが、
 1.切り捨てられた可能性にはどうようなものがあるのか
 2.読み方をリテラシーとしてしまうことにはどこまで、どのような妥当性があるのか。
 ということが、疑問の一方の方向性でしょうか。
 
(「お礼」に続きます)

補足日時:2008/01/22 14:35
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この回答へのお礼

(補足、から続き)

 ただ、実は疑問に思っていたのはそれだけではなく、わたしが考えている問題の所在についてもっとストレートに書いてしまった方がはじめから話がわかりやすかったと思うのですが、もっと「極端にリテラシーが低い」――たとえば、子供とか、ほとんど本を読まない層の人々の問題をどう考えるか、という点にもありました。
 たとえば、ヤク中の出てくる話を読んで実際に麻薬に手を出してしまったり、バタイユ……ではなく『恋空』を読んで避妊せずに10代の子がセックスをしてしまう。あるいは、暴走族の活躍するマンガを読んで感激した子供が、暴走族になる。
 もちろん、そこまで極端な影響論が可能だとは思っていません。過激な描写がある作品を撲滅すべきとは考えません。ですが、暴走族の好きな漫画が『湘南爆走族』『ビー・バップ・ハイスクール』だったりしますね。ヤク中や、性描写についてもそうですが、読者の属している社会との関係で、影響の受けやすさはかなり変わる気がします。わたしがヤク中の話を読んでもフィクションとして楽しむのに留まりますが、まわりにヤク中の友人が多く、以前から勧められていて入手もしやすい環境にある人が、ドラッグの素晴らしさを描いた話を読めばドラッグに手を出す可能性は高いでしょうし、実際にそういうことはかなりあるだろうと思います。
 そもそも、そういうリテラシーが全然ない人たちが読むことを前提にしてなりたっている作品流通の市場は確実にある。では、そこで「作品と規範を切り離して読む」というような物言いがいかなる効果を持つのだろうか、と。
 そういった読者層がメインとなる作品流通市場の問題と、文学作品を読むという読みの態度を持つ人々の問題とは切り離して考えることができるのではないか。あるいは、論じ分けがあってもいいのではないか、と。
まあ、佐川一政さんのような例もあるにはるので、厳密な境界線は引けないかもしれませんが…。

お礼日時:2008/01/22 14:50

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