数万円で取引されるPSゲーム『LSD』──ゲーム、サントラその全てを手がけたOsamu Satoとは何者なのか?
1998年にリリースされたPSゲーム『LSD Dream Emmulator』、いまやそのオリジナル・パッケージはヨーロッパなどで数万円で取引されるというカルト的な人気を集めるゲームとなっている。その「特殊」なゲームを作り上げたプロデューサー、OSAMU SATOは、またその『LSD』のサントラも含めてエレクトロニック・ミュージックのクリエイターとしても再度注目を集めている。ここ数年、LPでリイシューがなされたりとゲーム音楽のリヴァイヴァルは一つの流れとなっていたりもするが、そんな流れもありヨーロッパからのリイシューのオファーを契機にOSAMU SATOもまた新たな動きを見せている。15年ぶりの新作となった『All Things Must Be Equal』を経て、この度、件のゲーム『LSD』のサウンドトラックが、20周年記念盤として、あらたなミックスやリミックスなどが加えられて『LSD REVAMPED』として蘇ることとなった。
伝説のゲーム『LSD』から20へて蘇るサウンドトラックが
ケンイシイ、モーガン・ガイスト、μ-ZIQなどオリジナル・リリース当時の豪華リミキサー陣に加えて、オカモトレイジ( OKAMOTO’S)などのニュー・ミックスも収録
【配信形態 / 価格】レーベル musicmine 発売日 2018/04/06
01. 02. 03. 04. 05. 06. 07. 08. 09. 10. 11. 12. 13. 14. 15. 16. 17. 18. 19. 20. 21.
※ 曲番をクリックすると試聴できます。
16bit/44.1kHz WAV / ALAC / FLAC
AAC
単曲 250円(税込) / アルバムまとめ購入 2,400円(税込)
1983年の伝説のデビュー作がリミックス&再編集を経てリリース / 独占ハイレゾ配信
Osamu Sato / Objectless
【配信形態 / 価格】
24bit/96kHz WAV / ALAC / FLAC
AAC
単曲 200円(税込) / アルバムまとめ購入 2,000円(税込)
2017年、15年ぶりにリリースされた音楽作品
Osamu Sato / ALL THINGS MUST BE EQUAL [TYO EDITION]01. 02. 03. 04. 05. 06. 07. 08. 09. 10. 11. 12. 13.
※ 曲番をクリックすると試聴できます。
【配信形態 / 価格】
24bit/48kHz WAV / ALAC / FLAC
AAC
単曲 250円(税込) / アルバムまとめ購入 1,800円(税込)
INTERVIEW : Osamu Sato
プレイステーション・ゲーム『LSD Dream Emmulator』のリリースから20年。その20年の間、このゲームは、通常のゲームを超えたサイケデリックでシュールな世界観でもって、じわりじわりとカルトなファンを生み出し続けて来た。現在でもyoutubeなどでその攻略動画が次々にあがり、そのオリジナル版のパッケージはeBayなどで4万円前後で取引されることも珍しくない(ダウンロード版「初代PSアーカイブス」のプラットフォームにて簡単に触れることができる)。
そんなカルトゲームを生み出したのが、プロデューサー、OSAMU SATO。また本作のもうひとつの魅力でもある、その音楽も彼は手がけている。エレクトロニック・ミュージックとしての『LSD』も含めて、その音楽作品の評価も高く。『LSD』の再発見、さらにはここ数年のゲーム音楽のリヴァイヴァル、もしくは日本のテクノの新たな注目という追い風もあり、ヨーロッパからさまざまな再発のラヴ・コールを受けるという状況になっているという。
またもうひとつ彼の歴史を紐解けば、そのルーツには1980年代初頭の関西のアンダーグラウンドな音楽シーンがある。その最初の公式的なリリースは、なんとあのEP-4の佐藤薫主宰のレーベル〈Skating Pears〉からのカセット作品『Objectless』(1983年)にまで遡ることができるという。ここ数年、1980年代のテクノ以前の電子音楽〜アンビエント〜実験音楽にスポットがあたる現状を鑑みると、こうした事実もその作品とともに、彼のその神秘性に拍車をかける要素になっていることは間違いないだろう。事実『Objectless』は、ポストパンク&インダストリアル系のマニアックな作品のリイシューに定評のある〈Vinyl-on-demand〉から、リイシューされている。
さまざまな視点によって「いま」その存在が再度、大きく注目あびているなか、つい先日も英国のサイケデリック・ロックバンド、ALT-Jの新作“Relaxer"のその作品がアートワークとして起用されるなど、いま彼はアーティストとして、その存在感はさまざまな活発な動きのなかにあると言えるだろう。そして音楽作品としての『LSD』は、20年を経て、本人による新たなミックスやニュー・リミックスを加えて新たにリリースされた。さて、この数奇な運命を持つ作品たち生み出したOSAMU SATOに話を訊いた。
インタヴュー・文 : 河村祐介
クラフトワークの『Man Machine(人間解体)』に受けた衝撃
──音楽との出会いはどのように?
記憶が有る限りでは、中学生の頃、ラジオで流れた洋楽からはじまっています。当時はカーペンターズが流行っていました。最初に好きなったのはビートルズ。高校入学当時にいわゆるコンポ(ステレオ)を買ってもらいレコード屋に通いました。ただ限られた小遣いでは、そんなに買えるわけではないので、音楽雑誌を読んだり、友人やその兄弟から良くレコードを借りて、カセットに録音してました。そこで、ストーンズ、パープル、ZEP、ジェフ・ベック、デビッド・ボウイ、ジャニス、サンタナ、など当時人気のあったものなら何でも知りたかったし聴きたかった。でも高校を卒業する頃にはパンク、ニューウェーブ、そしてテクノなどを耳にするようになります。そして当時良く通っていた輸入盤屋のディスプレイにクラフトワークの『Man Machine(人間解体)』を見つけるのです。そのデザインがあまりにもかっこよくて衝撃を受けました。そしてそれがロシア・アバンギャルドがモチーフであるということを知ります。そのクラフトワークの今までに音楽は耳にしたことがなく、ジャケットのイメージ通りに僕には聴こえ、デザインやテクノ、電子音楽に興味を持つようになりました。
──そこからどうして音楽を自分で作るようになりましたか?
その後、浪人やアメリカ遊学を経て美大に進学します。デザイン科ではありますが、ずっとシルクスクリーンをやっていました。その当時、美大生が一番やりやすい印刷メディアでした。コンピュータはもちろん、カラーコピーもまだまだなかった時代です。また前衛美術、現代美術、コンセプチュアル・アートにも触れていたと思います。当時流行っていましたし、「京都アンデパンダン展」などなにか得体のしれないエネルギーを感じていました。そしてもちろんリスナーとしてレコードは良く買っていました。
ただテクノという音楽ばかりを買いあさりクラフトワークやYMO関連を一通り聴き、次に聴くべき音楽をレコード屋で探し、まず「electoronic」や「computer」、「moog」などの表記の有るものを買いあさりました。それはいわゆる現代音楽の電子音楽、テープ音楽でした。それは勘違いでもあるのですが、勇気付けられました。僕はアカデミックな音楽教育を受けているわけでもなく、実は高校生時代、一度エレキ・ギターを買って挫折しています。だからまさか自分が音楽を作る、奏でることはないと思っていました。
でもこの現代音楽は僕の音楽の概念を超えていました。ラジオのノイズや電子音のコラージュ、同じセンテンスの繰り返し等、いままでの音楽とは明らかに違い、「僕も音楽を作っていいんだ」と単純に考えましたね(笑)。特にテープ・ループを使ったライヒの「Come Out」はあまりにかっこよくて自分でもやってみたいと思いました。そこで、中古の1VCOのシンセと、簡単なシーケンサーを買っていろいろ実験することがはじまりました。またなにも情報がない時代でもあるので『サウンド&レコーディング』誌をバイブルに試行錯誤しながら録音していました。余談ですが、その十数年後、僕が20代後半のころ、そのサンレコ誌のリニューアルがあり、新 ロゴと表紙のデザインを2年くらい担当してました。当時作ったロゴが、30年近くたったいまでも使われています。
いま思うと凄いことしてたなと思うのは、色々なものを録音してはカセットを分解してテープを切り張りしてループなどを作ったりしていました(笑)。こんなことはサンレコ誌には当時も載ってませんが……。
EP-4佐藤薫とのレーベルからデビュー
その後、中古でオープン・リールを2台買って、イーノとロバート・フリップがやっていたようなテープ2連掛けでちょっと複雑なエコーマシン装置をつくったり、美大生でも有ったので、塩ビ水道管のパイプの両れつけてハウリング発生装置というか楽器をつくったりして、録音やライヴをしていました。例えば、当時、京都から派生したEP-4佐藤薫さんがプロデュースしていたDEE BEEʼSというカフェ・バーで、毎週日曜に実験的なライヴ・イベントがありそこに出演したりましました。
──佐藤薫さんとの出会いはそこなんですね?
そうですね。そして、自分の在籍する美大の学園祭にEP-4の好機タツオさんにライヴ出演してもらいました。もちろん僕も出演しています。そんな縁で僕がデザインを専攻していることもあり、EP-4のリハーサルやライヴに同行して写真などを撮っていました。楽器車にスタッフと一緒に乗って、東京、博多あちこち行きましたね。そしてもちろん京都。特に京都の精華大学でじゃがたらとEP-4が出演したライヴは凄かったです。今でも脳裏に焼き付いています。ただ当時のフィルムがいろいろ探したのですが現在、行方不明なんです。
──初めての音楽リリースも、佐藤薫さんのレーベル〈スケーティングペアーズ〉から なんですね?
はい、世の中に出たのはそうです、当時カセットブックがよく出版されていて、僕はシルクスクリーンの作品とカセットを一つのパッケージにしてリリースさせてもらいました。タイトルは『Objectless』(1983年)といって、当時の宝島誌やフールズメイト誌に紹介されました。
その他ではNHK京都の照明やカメラの助手のバイトをやっているとき、あるディレクターが、僕がシンセなどで音楽を作っていることを知り、京都制作の紀行ものやニュースの中の新コーナーのタイトル曲などを依頼してくれました。報酬はもとより、テレビで僕の音楽が流れ、番組によってはクレジットされているのがうれしかったことを覚えています。それと、当時オープンリールのテープを使ってたんですけど、これがかなり学生には高額で、NHKの音楽を使用するようになると、テープのかなりグレードのいいやつをもらえて(笑)。新品はもちろんなんですが、確かNHKでは、1〜2度録音されたテープは廃棄するのです、その廃棄テープが沢山積んであって、それらを自由に再利用させてもらったのが結構うれしかったですね。
川勝正幸との出会い、そしてグラフィック・デザインの世界へ
──その卒業後は?
就職ということになって、デザインや映像関係の仕事ならやっぱり、東京に行きたいなと思っていました。ただし当時すでに浪人、留年、留(遊)学で学生生活を8年、すでに25歳でした。当時、いわゆる広告業界が花形で、有名コピーライター、ディレクターなどに憧れていたと思います。夏休みに10社くらい、色々な制作会社を訪問して、入れた会社がモス・アドバタイジングという会社でした。製薬会社やワインなどの僕も見たことのある広告を制作している会社でした。僕が所属したのは、新しい部署で、会社の中の個性が強い人が集まる遊軍というか。そこの上司 のひとりが当時コピーライターだった川勝正幸さんだったんです。
──えええ。
川勝さんなどのアシスタントとかをやりながら、というか良く一緒にごはんに連れていって貰いました。インド料理、台湾料理、韓国冷麺、タイ料理など、東京にきて初めて知った料理でした。川勝さんは、新しい部署に来る前はワインのPR誌を担当されていて、料理や食に関しても、というか何でも良く知ってる人でした。そんな縁もあり川勝さんの下で牛乳普及協会の料理カレンダーを企画したりしてました。
その頃、テイチクと細野晴臣さんが〈Non-Standard〉レーベルを作るんですが、京都時代の友人、成田忍さんのアーバン・ダンス名義の2ndアルバムがそこから出るということで、僕にレコード・ジャケット、プロモーション・ビデオの制作依頼ががきたのです。そしていきなり、僕はアート・ディレクターになりました。その後〈Non-Standard〉レーベルの仕事もいくつかもらうようになり、ちなみにテイチクさんとはその後お付き合いがあり、田端義男さん、川中美幸さんなどジャケットも作った覚えがあります。まだそれほどPHOTOSHOPのレタッチが一般的ではな い頃、かなり僕の事務所ではやっていたので、歌手ご本人がすごく喜んでくれたとのちほど聞きました。今では当たり前ですね。当時はメモリーが5MB、ハードディスクの容量が40MB、256色のカラーでしたが、周辺機器合わせて400万くらいしました…… 車を買おうと思ってた200 万円を頭金にしてローンでいきなり買ってしまいました。
──400万ってすごいですね。
本当に当時は高かった。なんとか使わないとあまりにも、もったえない、教えてくれる人もいないし情報もそんなにない中、スタッフといろいろな試行錯誤をして、だんだん使えるようになりました。当時『B-PASS』のアート・ディレクションではバンドのページとか連載で、とにかくよくロゴを作るんですよ。それをコンピューターでできるようになると、それだけで仕事が楽になるなと。そこから『B-PASS』の各所で使いはじめたんですね。そのおかげでまだDTPみたいなことをやっている人がいなかったんでいろいろなところから取材が来て。また同時にバブル時代が到来して、一気に広告などデザインの仕事が増え、すぐに元はとれました。そのおかげで予定よりいい車が買えました(笑)。でも、基本的に社長なるとつきあいが多く、忙しすぎてあんまりなんかよくないなと、自分のものがなにも残らないなと思いはじめていました。
──表現欲求が出て来たと。
それで、事務所自体はもちろん仕事を続けてたんですが、僕自身は部屋にこもって、作品を作って個展をやろうと。それがホームページにも載っている「The Alphabetical Orgasm」(1981年)。その作品はデザイン業界の先人からもお褒めの言葉をいただき、作品作りを一生続けようという勇気をもらいました。僕の作り方というのは、描いたものに対して、またそれにインスパアされて作って行くという感じです。脳で作られたものが、ディスプレイに投影されてそれを客観的にみながら、またアイディアが出て来るというキャッチボールしていくんです。あのような複雑な形や色は一気には頭に浮かぶわけないですから。
「The Alphabetical Orgasm」や「Anonymous Animals」など当時のグラフィック作品は自身のホームページで閲覧可能。
>>>> OSAMU SATO WEB PAGE
CD-ROMという新たなメディア、そして音楽活動再開
──音楽はどのタイミングで再開したんですか?
2回目の個展「Anonymous Animals」で生物チックなものを作ってそれを動かして映像作品を作って展示しようとことになり、音が必要になりました。そこで学生時代に作っていたテープを主体に、サウンドデザイナーで切り貼りして音を作ったら、結構楽しくてというのが久しぶりに音に触れました。ただ新たに、作曲をしようということでは有りませんでした。そしてその個展の頃に、元TOOのエンジニアを雇い、その彼にアメリカのCD-ROM作品ジョー・スパークスの『トータル・ディストーション』という作品を紹介され、僕はCD-ROM作品に未来を感じ、早速その 企画を始めました。それが後の『東脳』という作品になりました。ただ最初にプレゼン用のデモを作った時はフロッピーでした。
──フロッピー!
そしてそのデモ・フロッピーがソニー・ミュージックのデジタル_エンターテイメント・プログラムのグランプリを貰うことになりスポンサーを得てCD-ROMゲーム『東脳』をソニーからリリースすることになリました。またソニーとしては音楽の会社でも有るので音楽CDも作りましょうということで、『東脳』のテーマ曲などを含んだアルバム「Transmigration」(1994発売)作りが始まります。僕の当時の事務所には様々なプロフェショナルはいましたがさすがに音楽分野の人はいるはずもなく、京都時代からの友人のアーバンダンスの成田忍氏、シンセサイザープログラマーには、再生YMOを担当していた水出浩氏にお願いしてプリプロは始まりました。ある程度 データができた後、信濃町ソニーに僕の機材をもっていき、一気にマルチに流し込みました。当時はたくさん機材をもっていました。学生時代にバイトして買った、TR808、909、TB303、SH-09、MONOPOLY、PROPHET600、DX-7、SAMPLE-CELL、S-3000等々また水出浩氏がEMSももって来てくれました。信濃町ソニーではエンジニアに当時、電気グルーブやスチャダラパーなどを担当していた当時若手の松本靖雄氏にお願いしました。彼はヴィンテージ・アナログ機材を使うことが得意なエンジニアで、流し込み時には、オールドNEVEのヘッドアンプ経由、ドラムやベースのコンプにはフェアチャイルド670っていうBEATLESの初期ごろからあるコンプレッサーで音作りをしていました。最近そのCD聴き直しましたが、すごくいい音しています。太いです。
──ちなみに当時の音としてのコンセプトはあったんですか?
その頃、僕はワールドミュージックを良く聴いていました。そのアジアのワールド・ミュージックとテクノを結びつけたものというのが頭に有りました。またドイツのエニグマというグループの音楽がちょうどヒットしていたように思います。その辺りも意識の中にはあったと思います。アジア人がこういう音楽で世界に出て行くとすると、やっぱり東洋っぽい雰囲気のメロディやサンプルがしっくりきました。どこの国かわからないけど、東洋感があり、エスニック・ミーツ・テクノというのがあのアルバムのサウンド・コンセプトとしてはありました。
その後に『中天』というゲームを出して、それで音楽作品として『Equal』を出したんですね。当時はケンイシイさんがヨーロッパでブレイクしたりと、ジャパニーズ・テクノが注目された頃だったんですね。それで僕の『equal』もヨーロッパでリリースされたり。フューチャー・サウンド・オブ・ロンドンやルーク・ヴァイバートにリミックスしてもらったりとか。あと、坂本龍一さんと一緒に1曲やらせてもらっています。デザインの仕事で坂本さんのお手伝いしたことがあって「今度CDを出すことになりましたがなにかお願いできませんか?」って聞いたら「MIDIデータをメールで送るから後は佐藤くん好きにやって!」って。ミックスは、前出の松本氏を始 め、GOH HOTODA氏にもお願いしました。マルチメディアの海外戦略も絡んでたんで、当時予算があったんでしょうね、わざわざ渡英して、デヴィッド・ボウイやクイーン、U2などを手がけるKevin Metcalfeにマスタリングをお願いできました。
そして「LSD」Dream Emmulatorの誕生
──そして『LSD』になるんですね。
プレイステーション・ソフトの「LSD」Dream Emmulatorはアスミックエースからの発売になりました。このプロジェクトでは色々な事を考えていました。ゲーム自体は実際にスタッフが数年間つけていた夢日記をモチーフにしているのですが、夢って本当に不条理のかたまりなんです。夢判断しようとしたらどのようにも解釈できてしまいます。だからこのゲーム自体、不条理を満載にしました。いろいろやる人たちよっていろいろ解釈できうるように考えました。またゲームの周辺にも色々な企画を考えました。ゲームと同時に音楽CDと夢日記書籍の3種類を同時発売しました。また、その他では〈LSDナイト〉と称して、クラブイベントなどを企画したり、「LSD」の展覧会をセレクトショップのギャラリーで企画し、はがきや名刺大のLSD宣伝カードを数十種類を大量にクラブを中心に色々なところに蒔いたりもしました。なにかこんなことがゲームの不条理さと相まって口コミ的に広がったりしたりしたらいいな、なんて考えていました。実際はごく一部に面白がられた程度でした…… まだまだネットのインフラも成熟していませんでしたね。
──音楽CDは『LSD AND REMIXES』ですね。
あのアルバムは相反する、いくつかのものを組みわせてヘンテコで不条理な曲を作るというのがコンセプトとしてあって、2つ、3つの違った感覚のパターンを合体させるとか無理やりにやってました。マッシュアップみたいな感じでしょうか。
その他、例えば「Professional Problem」という曲は、たまたま、芸大のピアノ科の人と知り合って、スタジオに呼んだら開口一番「譜面は?」という感じでした(笑)。たまたまドビュッシーの「牧神のための午後への前奏曲」の譜面があり、それのいろんなところ弾いてもらって、MIDIデータにしました。そのデータを元に編集しまくった曲なんです、全く面影は有りませんが、そのピアニストの人は原曲が分かるそうです。同様にストランビスキーの「春の祭典」も換骨奪胎しました。それは当時は不採用でしたが、今回リミックスして『LSD REVAMPED』にボーナストラックで収録しました。曲作りは有る意味、たとえばサンプル音やMIDIデータのデザインという考え方もできると思うのです。たとえば、適当にいろいろ弾いて、美味しいところだけデータをキープして再デザインして曲にするなんてことも良くしています、チャンスオペレーションの編集、デザインです。
このアルバムはほとんど一人で打ちこみました。最初は水出氏にも手伝ってもらってましたが、「もう僕はいらないですよ」って彼が言うので、彼には『LSD』のゲーム中に使用するSEや、サンプルデータの作成をお願いしました。そういえば、当時はドラムンベースとか例えばスクエアプッシャーとかが流行っていて、あの細かく刻んでの打ち込み、あれ作ってるとすごいハマるんですよ(笑)。あのころちょうど「Recycle」ってソフトを使ってサンプル音はなんでもとりあえずスライスしていました。
──ちなみにゲームのサウンドがそのまま入っているというわけではないんですよね。
ゲーム中の音楽はまたちょっと面倒なことをやっています。シーンごとにかなりの数のMIDIデータがあり、それに対して音源サンプルバンクが複数ありそれが、ランダムに切り替わりますので、同じ場所に行っても音が変わるのです。テクスチャーも複数用意してあるので、見た目ももちろん変化します。
オープニングは、7パターンの音と映像あって、それぞれ僕が作ったオリジナル曲のリミックスになっていて、それもランダム変わります。そのリミキサーには、ケンイシイさん、μ-ZIQ、ジミーテナーなど90年代テクノのリミキサーが多く参加してくれています。またジャケットも入れ替え式で7種類あって、日本からはグルビ、ロンドンからはオウテカのショーン・ブースやニンジャチューン周辺のHEX、THINK ELECTRICと豪華でした。CDは、そのオープニングのために作曲したモノをちゃんとロング・ヴァージョンにして、僕のオリジナルミックスと、リミックス盤の2枚組で出しました。
偶然から必然へ、思わぬところからの再発見
──そしてこれが時を経て、ヨーロッパなど世界でゲーム自体も含めてカルト的な人気を誇るという。
やっぱりネットのインフラがここ10年で爆発的に整ったというのが大きいようにおもいます。実は「東脳」はアメリカでも「EASTERN MIND」というタイトルで発売されていますが「LSD」は発売されていません。でもなんとなく、いろんな人が話題にしてやっているなと思ったり、海外メディアから取材がきたりというのがあったり、YOUTUBEに大量にゲームのプレー動画や音楽が投稿されていたり、勝手にPCサイトでリメイクしている人がいたりと、またゲームが凄いプレミア価格で取引されていたりなど、まあいまごろになってあの当時色々考えていたことが起こってきたような気がします。また、ソニーコンピュータにも相当数の問い合わせがあったらしく、その後PSN(日本のみ)でダウンロード販売され、PS3まででプレーできるようになったこともあるように思います。そのころから僕のSNSにファンという人が多くコンタクトをしてきました。その中には音楽ファンも結構いて2016年にベルリンの〈SLEEPERS〉というレーベルから、リリースのオファーがありました。当初、僕は十数年全く音楽は作っていなかったので断っていたのですが、何度も熱心に連絡してくるので、昔のDATやCDにバックアップしてあった曲を探し、未発表や未完成のデータを発掘して、とりあえずGarageBandにいれて触っている内に、だんだんまた楽しくなり、久しぶりに購入だけしてほぼ使っていなかったLOGIC9をインストールし、3ヶ月位の間、曲作りに没頭し、20数曲を完成させました。だから『All Things Must Be Equal』は、ベルリンの〈SLEEPERS〉から出たアナログと〈ミュージックマイン〉のCD、そしてカセットとすべて収録曲が違ったり、ミックスが違ったりしています。特にカセット盤はモノラルミックスでリズムをほとんど808に置き換えています。
──〈SLEEPERS〉からのリリースが音楽活動再開きっかけだったと。
活動再開は確かにそうですね。2017年の4月に僕の写真とグラフィックのBEAMS JAPAN B GALLERYでの個展と作品集の出版と同時にアナログも出したかったんですが、結局〈SLEEPERS〉から出る予定だったアナログは間に合わなくてCD『All Things Must Be Equal [TYO Edition] 』だけ同時発売しました。これは砂原良徳氏がマスタリングを担当しています。
そしてその後、SNSでコンタクトが有ったのが〈VINYL ON DEMAND〉から学生時代の『Objectless』カセットアルバムをリマスターしてアナログで出したいというオファーです。僕自身ももう持ってなかったので、とりあえず音源をデータにして送ってもらって聴いてところ、そのままでは納得がいかなかったんでリミックスをやらせてくれと。それを送ったら「リミックスは基本的に好きじゃないけど、これは素晴らしい!」っということで、2017年11月、CD(サブライム / ミュージックマイン)と同時にリリースすることになりました。ちなみにマスタリングはGOH HOTODA氏が担当しています。
──そして最新アルバムは今年20周年で『LSD Revamped』ですね。
2017年の個展で僕も全く予想してなかったのですが、『LSD』というゲームをきかっけに、10代とか20代、当時のことを知らない若い世代がたくさん個展に足を運んでくれて、CDや作品集を買ってくれて、しかもそれが、圧倒的に多数なんです。当初は僕の個展には同じ世代の業界の友だちがくる事が多い思ってたから、でも圧倒的に若い。そして、海外からの反応も良いので、ちょうど20周年のいいタイミングに『LSD Revamped』として新しくリリースすることになりました。原盤マルチの素材は全てデータ化してあったので僕自身、今一度解釈をし、曲によっては多少オーバーダビングをしてミックスしたオリジナル盤、そしてリミックス盤には従来のリミキサーに加え、19歳の新人の長谷川白紙やOKAMOTOʼSのオカモトレイジとジョルジオギヴン、ロンドンの〈ハイパーダブ〉からもリリースしているQUARTA330などのリミックスを新たに追加し2枚組にてリリース。マスタリングには前々作と同様、砂原良徳氏が担当しています。
──でも日本のゲーム音楽、さらにはテクノ以前の電子音楽がいまわりと海外で再評価著しいですよね。佐藤さんの場合はしかも両方ともキャリア的に網羅しているという。
偶然やっていたという感じですけどね。現在は、それらに加え、映像作りが楽しくなってきちゃってますね。2017年11月の〈LIQUIDROOM〉での「REDBULL MUSIC FESTIVAL〈DIGGIN IN THE CARTS〉」に出演したときから、動画も作っていて、それはサウンドと完全にリンクさせたライヴ・パフォーマンスでした。音と完全に合った状態ですごく気持ちいいんですよ。『LSD Revamped』も海外からリリースという問い合わせもあって、海外でも国内でもライブ活動も積極的に行いたいとは思っています。つい最近も「LSD」をBERLIN ATONALや中国のアニメーションフェステヴァルで自分の作品の展示したいというオファーがあったところです。そして来年に向けてそろそろ新しい作品の構想も考えているところです。
PROFILE
Osamu Sato
1960年京都に生まれ、大学ではグラフィック・デザインや写真を学ぶ。さまざまな広告の制作、グラフィック・デザイン、雑誌のアート・ディレクターなどを務め、1991年には初の個展「The Alphabetical Orgasm」を開催。1993年にソニー・ミュージックエンタテインメントが主催するデジタル・エンタテインメント・プログラムの作品部門・人物部門で最優秀賞を受賞。翌年の1994年には、マッキントッシュ用CD-ROM「東脳」をリリースし、デジタル・エンタテインメント・プログラムで作品部門最優秀賞を受賞。また同年、「東脳」使用曲などを収録したCD『TRANSMIGRATION』をリリース。その後CD-ROM『中天』をリリース、そして音楽作品として『EQUAL』を、さらには1998年にはプレイステーション用ゲームソフト「LSD」をプロデュース、アルバム『LSD & REMIX』をリリース。『LSD』をはじめ、その作品は海外に多数のファンを持ち、そのオリジナル媒体が数万円単位で取引されることも。2017年には最初の作品としてリリースされた『OBJECTLESS』のリイシュー・ヴァージョンがドイツから、そして音楽作品として15年ぶりに『ALL THINGS MUST BE EQUAL』をリリース。また『LSD』の20周年企画に際して再編集&リマスタリングを施した『LSD REVAMPED(20th Anniversary Deluxe Edition)』がリリースされた。
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