男性ブランコ「コントライブを諦めた」ふたりが歩む、コントで生きる道のり。「これでダメなら、もうやりようがない」
『キングオブコント2021』での準優勝を皮切りに、徐々にブレイクの兆しを見せる男性ブランコ。霜降り明星、ハナコらと同期のふたりには、このとき「不遇の天才第七世代」というキャッチコピーがついた。
結成から10年、東京進出から5年でようやくチャンスを掴んだふたりが“不遇”の時代に何を思ってきたのか。ブレイク前から親交のある編集者・おぐらりゅうじと振り返る。
コントで勝負するために決めた東京進出
──おふたりは共に1987年生まれで、同い年のコンビですよね。
浦井 はい。ふたり共、34歳です。
──大阪から東京に移籍したのが2017年。
平井 29歳のときですね。結成が2011年なので、6年目で大阪吉本から東京吉本の所属になりました。
──東京に来てから、『キングオブコント2021』で準優勝するまでの約5年間、今振り返ってみるとどうですか。
浦井 いやぁ、ずっとバイトしてましたね。
平井 大阪の劇場でもコントばっかりやっていて、それなりにランクも上がってきたところで東京に来て、完全にゼロからのスタートはつらかったです。
浦井 東京でも単独ライブにお客さんが少しずつ入るようになってからは、そこまでつらいと思わなくなりましたけど、東京に来たばっかりのころはしんどかったですよ。
平井 誰にも知られていない状況のなか、劇場のバトルに出なくちゃいけなかったりして。最初はシアターDという劇場の『トライアルオーディション』に出るところから始まって、大阪時代の仲間もいないですし、孤独でしたね。
浦井 ただ正直な話、なんだかんだ一度もブレイクのチャンスが来ないまま芸人を辞めていく仲間たちもたくさん見てきたので、この先どうなるかまだわからないですけど、とりあえず1回目のチャンスは来たっていうことが、今はうれしいです。
──大阪時代はブレイクの兆しはなかったんですか?
浦井 ほんの一瞬、バイト辞められそうな時期はあったんですよ。仕事もそれなりにあって。
平井 南海キャンディーズの山里(亮太)さんと共演していた『もってる!?モテるくん』(読売テレビ)という番組に出ていたときですね。
浦井 でも大阪の「5upよしもと」という劇場が、2014年に「よしもと漫才劇場」にリニューアルして、若手の漫才師を育てるっていうコンセプトになったんです。それで、あんまりコントができなくなって、結局バイトは辞められなかったです。
平井 お笑いだけでちゃんと食えるようになるには、大阪だとやっぱり漫才師なんです。コント師はだいぶ難しい。
──大阪時代、よく一緒にコントをやっていたのは?
平井 ロングコートダディさん、ニッポンの社長さん、とかですね。でも、どのコンビもコントだけではなく、漫才もやってました。今ではたまに僕らも漫才やりますけど、当時は全然やってなかったんです。
──東京に進出したのは、大阪に比べると、コントのシーンが盛り上がっているから?
浦井 そうですね。コントをつづけるなら、いずれ東京には行くだろうと思ってました。
平井 『キングオブコント』の決勝戦を観ても、中には大阪吉本の芸人もいますけど、やっぱり東京の芸人さんのほうが強かったりしますから。
浦井 僕ら2020年に初めて『キングオブコント』の準決勝に行ったんですけど、すでに東京でライブをやっていたとはいえ、大阪から来たというだけで不利な感触はあったんです。
──コントの登場人物が関西弁を話しているだけで、東京では「大阪弁の人」というキャラクターが乗っかりますからね。
平井 いや、まさにそうなんですよ。それ最初は気づかなくて。フラットな設定なのに、東京だと関西人キャラのコントとして見られちゃって、関西人が言いそうなこと言うんだろうなって、お客さんが構えちゃうんですよね。
浦井 なんなら、東京の人たちは、うっすら関西人のこと嫌ってるじゃないですか。嫌いというより、苦手というか。
平井 なので、ごくごく普通のサラリーマンを演じているはずなのに、東京だと「関西弁のサラリーマン」キャラになってしまって、そこのハードルは厳しかったですね。
──それはどう克服したんですか?
浦井 今も克服できているかはわかりませんが、標準語と使い分けるようにはなりました。
平井 関西弁のほうがよりおもしろくなる場合には関西弁のままいきますけど、基本は標準語のほうがいいなと思っています。