古代朝鮮に倭の拠点はあったか? 歴史学者・仁藤敦史に聞く、古代東アジア史の一大争点「加耶/任那」の実態
国立歴史民俗博物館教授で古代史を専門とする歴史学者・仁藤敦史氏による新書『加耶/任那―古代朝鮮に倭の拠点はあったか』(中公新書)が話題を呼んでいる。
「加耶(かや)/任那(みまな)」は、3~6世紀に存在した朝鮮半島南部の小国群を指す名称で、『日本書紀』は任那と記し、「任那日本府」の記述などから長く倭の拠点と認識されてきた。しかし戦後、倭の関与について強く疑義が呈され、歴史教科書の記述は修正が続き、呼称も韓国における加羅、さらには加耶へと変わるなどしてきた。他方で近年、朝鮮半島南部で倭独自の前方後円墳の出土が相次ぎ、倭人勢力説が台頭している。本書は、日韓歴史共同研究をはじめ、古代東アジア史の一大争点である同地の実態を実証研究から明らかにした一冊だ。
政治的にも極めてセンシティブな加耶/任那について、一般にもわかりやすい新書の形式で著した狙いと、その研究の難しさについて、仁藤敦史氏に話を聞いた。
加耶/任那の史料における「ねじれ」
――本書『加耶/任那』を書くに至った理由と経緯について教えてください。
仁藤敦史(以下、仁藤):私はもともと『古事記』や『日本書紀』を用いた研究をしていて、近年は『東アジアからみた「大化改新」』(2022年/吉川弘文館)や『古代王権と東アジア社会』(2024年/吉川弘文館)といった本を発表してきました。なぜ東アジアを視野に入れて、古代日本の王権や国家を考えてきたのかというと、『日本書紀』の継体天皇や欽明天皇の巻は、そのほとんどが外交史料だからです。当時の隣国の史料を正確に理解/把握しないことには、古代の王権や国家について議論することもできないでしょう。
そのような視点に立つと、日本では「任那(みまな)」と表記されていた朝鮮半島の小国群との交渉は、大変重要な意味合いがあります。そこで『古代王権と東アジア世界』に収録した実証的な論文をベースとして、「加耶/任那」という小国群の歴史を、一般の方々にもわかりやすいように通史的な流れの中でまとめてみました。それが本書『加耶/任那』です。
――3世紀から6世紀にかけて朝鮮半島南部に存在した「加耶/任那」という小国群については、正直なところ、漠然としたイメージしか持っていませんでした。
仁藤:そうでしょうね。「加耶/任那」は、6世紀後半に百済と新羅に東西から侵略され滅亡したこともあり、高句麗・百済・新羅という三国と比べて、そこまで知名度が高くありません。そもそも「加耶/任那」に関しては、その名称さえも曖昧な部分が多い。日本では、『日本書紀』の記載から「任那(みまな)」と呼ばれることが多く、教科書などでもその名称が長く用いられてきたのですが、中国や朝鮮の古代史料では「加耶(かや)」と表記されていることが多く、「伽耶(かや)」や「狗邪(くや)」と記されていることもある。さらに、5世紀に高句麗が作った「広開土王碑」には、「加羅(から)」という名前で表記されているなど、同一実体を示す用語がとにかく多いんです。しかも、それが現在においても統一化、定着化されていないところがある。
加えて、範囲の問題があります。金官加耶、大加耶、阿羅加耶、非火加耶など、「加耶」が付いた小国は最大で7ヵ国に及ぶのですが、そこにもまた、さまざまな異字や呼称があります。しかも、それぞれの国が必ずしも合従連衡していなくて、北と南のほうでは主義主張が違っていたり、なかなか一枚岩で語れないところがあるのです。さらに、それぞれの国が存在した時期についても、いろいろと考慮する必要があります。
――なかなか複雑で捉え難いですね。
仁藤:最も厄介なのは、「加耶/任那」に関しては、日本側の史料――『日本書紀』に圧倒的に多くの記載があって、韓国や中国の史料には、それほどまとまった形では記されていないことです。もちろん、韓国の『三国史記』や『三国遺事』といった史料や、『三国志』をはじめとする中国正史にも「加耶/任那」にあたる国々は出てくるのですが、どれも断片的な記述であって、まとまったものとしては書かれていない。つまり、朝鮮半島南部の話であるにもかかわらず、日本側の史料のほうが圧倒的に多いという史料的な「ねじれ」があるのです。
そのような状況に加えて、韓国では『日本書紀』は極論すると「偽書」であって、史料としては使えないというスタンスがいまだに根強く残っているようなところがあります。一方で、自国の歴史にとって都合良く『日本書紀』を使おうとする見方もある。韓国の研究者にも、そういったダブルスタンダードを批判する方もいらっしゃいますが、これも一枚岩ではいかず、研究を難しくしている部分があります。
任那日本府は大和朝廷の出先機関ではない?
――今のお話を聞いていても、迂闊には扱えないテーマだと思いましたが、やはり相当慎重に書かれたところがあるのでしょうか?
仁藤:「加耶/任那」を扱うのであれば、中途半端な形ではなく、徹底的に史料を精査する必要があると考えていました。今回、この本をいろいろな先生方にお送りしたところ、「任那の重要性はわかっていたけれど、ちょっと手を付けづらいところがあった」という感想が多く、改めて扱いの難しさを感じました。
ただ、私の経験上――私は大学院にいた頃から、高麗大学の留学生などと接する機会が多くて、今年の夏も高麗大学の先生に呼ばれて、この本の内容についての講演を行ってきたのですが、向こうの人たちもフランクに議論してくれる方が多く、結論ありきで議論を進める方は一人もいらっしゃいませんでした。マスコミなどを通じて、極端な意見や反応が目立ちがちですが、冷静かつ建設的に議論ができる方も多くいらっしゃいます。
――日韓関係の話題については、割とセンセーショナルな煽り記事がいまだに多いかもしれないです。
仁藤:日韓両国とも、極端な意見を持つ方々はむしろ少数派だと思います。ただ、この問題を一回整理して解きほぐしておかないと、いろいろな意味で禍根を残すのではないかと思いました。それも本書を執筆した理由のひとつです。
――本書を書く上でいちばん苦労したのは、やはり各国にまたがる各種史料の読み込みですか?
仁藤:もちろん、そういった史料の「ねじれ」を整理することも大変だったのですが、いちばん最後まで悩んだのは、実はこのタイトルでした。「加耶」にしても「任那」にしても、単独のタイトルだと、どちらかに寄った考え方の本だと思われてしまう可能性がある。そのため両論併記と言いますか、できるだけニュートラルなものにしたいという思いから、このタイトルにしました。入り口で判断されることは、何としても避けたかったのです。
――ちなみに、本書のサブタイトルには「古代朝鮮に倭の拠点はあったか」とつけられていますが、これがいわゆる「任那日本府」に関する議論になるわけですね。
仁藤:そうです。8世紀初頭に成立した『日本書紀』には、神功皇后から欽明天皇のあいだの外交記述に、「百済三書」と総称される三種類の百済系歴史書が多く引用されています。その中で伝えられている「任那日本府」というものは、通説では「大和朝廷の出先機関」とされていたのですが、近年ではそれに対して否定的な見解が多くなっているのです。 そもそも、古い通説の背景には、戦前の皇国史観的な考え方が強くありました。1910年に韓国併合があって、そのときに朝鮮総督府というものを置きましたが、それを過去にさかのぼって合理化するために「任那日本府=大和朝廷の出先機関」説が、無批判のまま受け入れられてきたようなところがある。古代史は他の時代と比べても、近代的な見方に翻弄されている部分が多く、研究者もまたそれに振り回されてきた。だからこそ、古代史においては「再発見」とか「再定義」みたいなことが多いのです。
――戦前の皇国史観が歴史学にも少なからず影響を与えてきたのですね。
仁藤:その一方で韓国は、ご存知のように民族主義的なところがあって、倭国からの影響があったという事実は極力排除しようとする流れがある。日本側の皇国史観とは真っ向からぶつかる歴史観で、「加耶/任那」の研究は結局のところ、0か100かみたいな極論を行ったり来たりするようなところがありました。だからこそ、今回の本では任那日本府が「あった/なかった」という結論ありきのイメージを、なるべく持たれないように考慮しました。この手の題材を扱った本というと、断定的なタイトルでセンセーショナルに煽るようなものも多いですが、そうはならないよう、多くの史料を読み込みながらできるだけ客観的に書くことを意識しています。最後まで読んでもらわないと、結論がわからないようなものにしたかったのです。