食事に誘われたので支度しようと、玄関のところに掛けてある姿見を覗き込んだ。
ぼんやりとした顔の大人が立っている。
初めて鏡を見たときのことは覚えていないのだけど、見れば、ああ、自分の顔だな、と思う。でもこのときは、なんだか初めて見るような感じがして、しげしげと自分のすがたを眺めた。
前髪の下から見えている目はどろっとしていて、気が強そうな、というより、剣呑だった。その人間は、長いシャツにサルエルに麻のカーディガンを羽織って、じっとこっちを見ている。
お前は誰だ、と、鏡に向かって言い続けると、気が狂うと言うけれど、まさしく、お前は誰だ、と言いたくなるような奴だった。
しかし、その一方で、これは自分が子供の頃、こういう人間になりたいと思っていたその姿のような気もして、うーん、と頭を抱えた。
鏡の中の奴は同じように、うーん、と頭を抱えている。
20年前の自分が見たらなんて言うだろうか。
もしもの話は意味がないことをいまの自分は知っているので、そこに思いを馳せることはしないけれども、苦しみ続けた昔の自分が、なんとなくでもいいから、自分が目指していた未来の端っこにでも立っているなら、それでいいかなと思った。
一昨年の4月26日に心臓が止まってから丸二年が過ぎた。
4/26は記念日だねとか言っていたのは結局去年だけで、今年は特になにかするでもなく、好きな人と話をしていたら終わった。
一日の終わりに、布団の中に入って、ああ、生き延びたな、と思った。
生き延びた。
生きていこうという必死な思いよりは、自分で手放して死に掛けたあの場所から抜け出して、もがいてたら二年が経っていた。
一度心肺停止に至った人間が、その後すぐ死ぬ確率の高さ。一ヵ月後にやっぱり死ぬ確率の高さ。三ヵ月後は、一年後は?
そう思うたびに、節目ごとに、自分が生きていることを思い出す。
劇的な日常はなかった。毎日がただただあっという間で、ものすごい質量で、生きることを手放していない人たちはこんな密度の時間を、生活を、どんなふうに過ごしているのだろうと思う。今でも、そう思ってしまう。
でももう一回社会に戻りたくて、結局勉強を始めた。
勉強は楽しくもなんともない。病気で知識の蓄積が消えてしまっているので、そういう意味ではインプットするのは正しい方向かもしれない。
勉強してみて、人と関わるのは本当に難しいと思うようになった。
わたしは自分にも他人にもあまり興味がないのかもしれない。
「齷齪」という言葉が嫌いで、そういう場所から遠のきたくて、社会と離れるように過ごしてきたのだと思う。
でも、いまさらだけど、社会は別に自分を拒んだりしてなかったな、と感じた。
自分が生きていく上での社会の仕組みや枠組みはきっと自分にはあまり向いていなかったんだけど、自分は自分の努力で変わっていけるんじゃないかなあと、誰かと仲良くできないことがあっても、自分の気持ちひとつで、人を大事にすることも出来るんじゃないかなあと、ぼんやり考えた。
お誕生日おめでとうと言ってくださった皆様、ありがとうございました。
三年目も生き延びます。
「最近のんがぜんぜんなかった」
と、友人に言われた。
どこかへ行ったとき、なにかの記念のとき、わたしは自分の写真を撮る習慣がない。写真に撮られるのが嫌いだからだ。
友人は少し申し訳なさそうに、静かな口調で「万が一のとき、遺影がないて思ってん」とこぼした。
わたしは白い天井を見上げながら、そうか、葬式って写真が要るんだよな、とうすぼんやり考えていた。
友人が探してきたのは、14年も前の写真だった。
そこには、まだこれから起こることをなにも予感していない自分が写っている。
「うちも別に写真好きではないねんけど、…人は忘れるからなあ」
そこから無事に退院はしたけれど、一枚も撮っていない。
わたしはまだ、遺影に使ってもらえるような人生を送れていないような気がしている。
いまどんな生活をしているか。
6月ごろから進めていた書籍化の件を、リハビリ明けて少ししてから取り組み始めました。
本にするにあたって、いろんな出版社の方からお声がけいただいて、それぞれの出版社の方が、自分の会社ではこのように売りたい、このような層をターゲットにしている、というお話をしてくださったのですが、その中で、双葉社の担当さんだけが、「この漫画を、いま苦しんでいる誰かや、患者さんや、そのご家族に届けたいです」とおっしゃったので、双葉社に決めました。
出版業界はいろいろルールがあるようで、書籍化が決定していても、なかなか発表できず、あとからお声がけいただいた会社の中には、自分としても本当にこの会社で本だせたらよかったなあ…と思うようなところがいくつもありました。どこの馬の骨とも知れない、もしかしたら漫画を完結させることすらできないかもしれないような病み上がりの人間に、本当に真摯にお話をしてくださった方ばかりでした。
その中で、某社の担当さんが、「本の企画を出して、著者に連絡を取るって、ラブレターみたいで、なんだか恋愛に似てるんです。うちの会社では出せなかった本ではありますが、これからはひとりの読者として、たくさんの人の目に触れてくれることを願っています」とおっしゃってくださったのが心に残っています。
泣いてしまいました。
最近は、夜11時ごろに寝て(ダラダラ起きてるときもありますが)、朝6時頃に起きて筋トレをして少し仮眠をして、仕事をして、昼過ぎに仮眠をして、仕事をして、一日を終えます。
仮眠は数回取ることもあるのですが、病気以降、すぐ眠たくなってしまうので、眠れるときには眠ることにしています。
病気のときは完全に不眠だったので、体の欲求に従って眠れる、ということはとてもうれしいことです。
どうもわたしは生活の切り分けがとても下手で、仕事と休憩の時間の境界が曖昧なようで、適当に遊んだりもしていますが、いまぐらいのペースで規則正しく、ちゃんと自分の力量とキャパシティを把握しながら生活するのはとても健全で、こういう生活がしたかったんだな、と、思えるようになりました。病気になる前に気づくべきことではありますが、きっとわたしの考え方やライフスタイルを切り替えるのに必要な転機だったのだといまは思っています。
自分の体の健康を守るということは、年齢を重ねるごとに、徐々に努力を伴うものになっていきます。
忘れるのも失うのも簡単で、一瞬です。
わたしは自分のことがどうでもいい人間でした。
自分がどうなっても、それは自分が引き起こしたことだから、どうでもよかったのです。
そこで、誰かを悲しませたり、迷惑をかけたり、心配をかけたり、果ては、自分を延命するための努力が為されることなんて、考えてもみませんでした。
自分を蔑ろにするのは、自分の周りにいる誰かを蔑ろにするのと同等だということを、少し考えれば当たり前のそのことを、何も考えていませんでした。
何年も生きていれば、関わった人の数は膨大になります。
深く付き合った人はその中の数人かもしれませんが、人は、誰かと関わらなければ生きていけないのです。
ひとりぼっちで生きて死ぬと思っていたわたしは、病室で、誰かの涙を見て、それが根本的に違うということを、周りのひとびとに教えられました。
孤独感は誰にでもあるのです。理解を得られず苦しむことも、諍いを起こして嘆くこともあるのです。けれどもそれも、ひとりで生きているわけではないからこそのことでした。
未だに人とは馴染めないことがあります。
人と関わることそのものがとてもつらいと思うこともよくあります。とてつもなく面倒で億劫で、やっぱり自分の本質はそういう部分なんだと思うこともあります。
そういうとき、自分が死んだときのことを思い出します。
ICUで目を覚まし、自分が誰かもわからない、あのぐちゃぐちゃの世界は、自分の死のかたちそのものでした。
もうあんな死に方はしたくないです。
死ぬのは寂しくて怖いです。死んだ先には何もありません。
それを思い出すことが出来る今があって、よかったと思っています。
ある人からのつぶやきで爆発的に拡散されて漫画をたくさん見ていただいて、最初は嬉しく感想を追ったりしていたのだけど、ちょっと反応がたくさんすぎて疲れてしまい、ネットを見たり見なかったりしていました。
レポ漫画については、ああいうところで更新を止めているので、それが余計にいろいろな憶測を呼んでいるようなかたちになってしまったようです。
以前も一ヶ月以上止めてたことがあるので別にわざとというわけではなくて、体調がめっちゃ悪いとかでもなくて(多少悪い)、単に思い出しながら描いてる+絵の密度を高くしなくてはならないので時間がかかっているという話です。なによりのネタバレが、まんがを構成して、絵を描いて、pixivにアップしているのが本人、ということなので、すんごいバッドエンドが待ってるとかそういうことにはなりません。生きてるし今。
このブログも、直近の記事だけは真面目に書いたのですが、それ以外はもう、本当に、バカな話しか書いてなかったもので、すみません。
一応、目安として、漫画のほうは七月中には完結させようと思っています。
なぜなら七月に検診があるからです。先生に見せる。勝手に漫画に描いてすみませんと言います。でも、先生も、入院中に「漫画に描いたらいいよ」って言ってたし許してくれると思います…たぶん…
病院名は明記しておりませんが、調べればすぐわかるかと思います。奈良県北部ではかなり有名な総合病院です。
本当は、描きたい人や出来事がもっといっぱいあるのですけど、あまりに冗長になったり、あるいは、わかりにくくなりそうだったりで、意図的に省いている部分がたくさんあります。特についったーの人たちのこと。電話のシーンや、文字だらけになってしまうので、詳しい描写にはしていません。
ただ、それ以外の、描いている部分に関しては、いろんな人の話を突き合わせて描いているので、ほぼ、あったことそのままです。
共感覚と脳浮腫については、漫画では説明しにくかったので、共感覚という言葉を使わずに描きました。
作者が何を伝えたいか、みんな曲解してない!?みたいな意見も見えましたが、何を伝えたいかというより、日記なので、そこらへんはもう読んだ方に委ねます。うおおこんな病気で治るとかありえんwwwみたいな、アン〇リーバボー視聴するときみたいな気持ちで読んでいただいても全然いいと思いますし。
一応、いまのところ、16話で完結の予定にしております。
最後までお付き合いくだされば幸いです。
少し前から、自分の脳について考える機会がすごく増えた。
わたしは脳浮腫という病気に罹ったので、脳が一時的に壊れた。
どういう状態になったのかは前にも書いたけれど、失明、記憶喪失、精神崩壊が主な症状。なぜかというと「後頭葉」が腫れていたから。後頭葉は視野を司る部分らしい。だから視覚にダイレクトに影響が出た。
そのまま脳が腫れ続けるといずれ脳幹を圧迫して、死を免れられない、ということらしい。
なので、わたしはものすごく注意して経過を観察されていた。
意識はあるんだかないんだかわからない状態だった。
そして精神崩壊した状態で目を覚ましたわたしは、目が見えなくなっていた。声は聞こえていた。
思い出す限り、「失明」はしていた。確実に、目が見えなくなっていた。なにしろ自分にされていることを認識できなかった。男の声がしたら「三本」、女の声がしたら「青原さん」と答えていた。意味はわからないままそうしていた。
ただ、そのとき、本当に視覚が奪われていたのか、ということに関しては、わからない、と言うしかない。見えてはいなかったけれど、自分が見えないということは認識していなかった。脳が見せた誤作動そのものなのかもしれない。わたしの様子を見に来る人々の顔は見えなかった。手も見えなかった。何をされているかもわからなかった。でも、見えていないとは思っていなかった。
わたしは精神が壊れているなりに、何か重大な隠し事をしている自覚があった。きちんとした思考回路で言えばそれは失明状態であることを隠していたのだけれど、そのときの幼児なみの己の回路では、それを説明できなかった。自分に何か、生活の根幹を揺るがすとてつもない何かが起こっているが、それをうまく言葉にして相手に説明するのは死に等しいと感じていた。
意識がかなり正常に戻ってきて、周りを見渡すと、世界にはあまりにも色がなかった。そういえば自分は共感覚というやつがあったな、かつては。と思った。
わたしの場合、具体的には、文字、単語、文章に色のような模様のようなイメージが付与される。
3年ほど前までそれはわたし以外のすべての人にあるイメージだと思っていて、人から指摘されてそれがちょっと変であることを知った。色聴のことも調べた。その数年後、病気になってから、自分が自閉傾向にあることも知った。知能指数が高めのおかげで、比較的普通の生活をしていたのだということも知った。
知能指数が平均値より高いというのは前から知っていたけれど、わたしは勉強が大嫌いだし、得意なことと不得意なことの差が激しい。知能指数が高い=すぐれている というわけではないことを、身を以て知っているので、それについては何の感動もなかった。
視覚がやや戻り始めた頃、脳が誤作動を始めた。
四角いものの区別がつかない。手に持ったiPhoneの小さな小さな四角い充電器を、四角いiPhoneと認識してしまう。病室のトイレに入って、看護師を呼ぶ四角いボタンと、便座を拭く消毒液が入った四角いボトルの区別がつかない。世の中には四角いものがものすごくたくさんある。どれも形や大きさが全然違う一方で、全部同じもののようにも見える。感じる。今思えば、わたしの脳はもともと物事の結びつきがとても苦手なのだ。それが共感覚として現れていたところに脳が故障したため、誤作動の領域が大規模になってしまったのだ。
ドアも窓も区別できない、ベッドの枠とナースコールも区別できない、そんなレベルにまで拡大した「共感覚」は、そのうち別のものまで誤作動を起こした。
においについてだった。
見舞いに来る人の中に、淀んだ水のような緑色のにおいの人がいた。わたしはこの人のことがとても嫌いだったのだけど、この人がいつも焚いているお香のようなにおいもとても嫌だった。においが視覚と結びつくというのは恐怖だ。
そのときの感覚といえば、周りの景色が淀んだ水の緑色に染まってしまうような、そういう感覚だからだ。
病院の消毒のにおいは銀色だった。わたしは大本が糖尿病で、そこからたくさんの病気を併発していたので内分泌内科に入院していたのだけれど、重度の(入院するレベルの)糖尿病患者はにおいがある。あまったるいような、腐る寸前の果物のようなにおいだ。そのにおいは少し黒が混ざってしまったような黄色だった。そういえば、体臭で病気を発見する犬というのがいるそうだが、わたしもそういう感じに一時的になっていたのかもしれない。同じ病棟の人たちの病状はそれほど詳しくは知らないけれども、近くにいくとそういうにおいが、色が、漂っていた。
この嗅覚に関する誤作動は二日か三日続いた。毎日お風呂に入ってできるだけ体臭を消しているであろう人のにおいまで感知するのでものすごく苦痛だった。その頃毎日病状を説明していたきつねこには、「においに共感覚がある」と話したことを覚えている。
文字については依然として何もなかった。というより、文字を「文字」として読むということがとてもつらかった。入院前のわたしは文字を画像として、模様として読むというより「見ていた」からだ。
意味はわかる。文章の巧拙もわかる。ただ、文字を頭の中で音読して読むということはない。というより、出来ない。してこなかった。だから、目の前にある文章を、文字を追って読む、ということがとても苦痛だった。
文字を追っていると時々ぐちゃぐちゃとした画像が目に入る。記憶が抜け落ちているので、読めない文字があるのだ。文字ということは認識できても読めない、どういう言葉なのか想起することもできない。わたしはもともと漢字に強いほうだったので、ひらがなやカタカナと思われる文字すら読めなくなっていることにはかなり危機感を覚えた。
その頃、寝て起きたら何かが飛躍的に出来るようになる、ということがよくあった。時間の経過とともにめまぐるしく回復していたのだと思う。
共感覚、についても同様だった。
寝て起きたら、昨晩まで読めなかったぐちゃぐちゃした画像に色がついていた。
入院時は寝たきりだったのでおむつをしていたのだけど、そのおむつのパッケージに書かれた文字列が、青と黄色のおだやかで機械的な模様に見えた。もちろん書かれた文字が本当は黒い文字なのも認識できる。意味もわかる。文字を追わなくてもぱっと見て、それが何を示しているかがわかる。
そしていつからかははっきりわからないが、同じような時期に、嗅覚に対する誤作動や、四角が区別できない誤作動もなくなっていた。
その頃、脳の腫れはおさまりつつあって、感覚の誤作動も元の範囲におさまったのだった。
現在は、脳が圧迫されたため、少しばかりだめになってしまった部分があるそうだ。具体的には数字が認識しづらい。文字情報として入ってこない。本当に一生懸命読んだつもりでも、間違うことがある。多分これは一生(あと何年生きるかわからないが)このままなのだと思う。
わたしの生活に文字は不可欠だ。なくてはならないものだ。わたしの生活の大半のよろこびは、文字に、文章に集約されている。
読書やネットをしていると、ときどきはっとするような美しい色や模様に出会うときがある。またそれらに出会うことが出来てよかったと思う。
この感覚の誤作動のせいで生理的に読めない文章や文字はたくさんあるけれども、あのとき、色のない文字列は悲しかった。
先月やっと此岸に戻ってきたと思ったら今度は突発性難聴になってしまいました。
入院とかのレベルではないものの、今ミックスの仕事や楽器の仕事が結構いっぱいあって(調子のっていっぱい入れてしまった)、世の中うまくいかんなあと思ってるところ。
耳がへんだなと思ったのは風邪ひいてからなんですけど、風邪のせいで耳詰まり起こしてんのかと思ったらそのうちめまいと頭痛がしてきて、あーこれ耳鼻科いかなきゃ、と行ってみたら、「左耳、低音あんまり聞こえなくなってますね」だって。
低音聴こえないなんて!!!!って思ったんですけどまだ突発性難聴としてはだいぶ軽度みたいで、とはいっても耳詰まりはひどいし頭痛もめまいもひどいし、まさかと思ってたけどやっぱり聴力ほんとに落ちてるしで、参ってます。
道理で、ヘッドホンしてても低音がシャラシャラしてて気色悪かったわけです。機材かなと思ってたら自分の耳が故障してました。昔から耳が良いのを自慢にしてたので、聴こえにくい/認識できない音がある、というのは、すごいストレスです。
まず、外に出ると周りの状況がぜんぜんわからない。人間は目からの情報が80%だかだそうですが、わたしは目が悪いので耳にだいぶ頼ってたようです。
そして、人の話の聞き分けがぜんぜんできない。複数人がいる場所で、三つぐらいのグループに分かれてそれぞれ別の話をしているようなとき、いままでなら聞き分けできていたのですが、自分からちょっと遠いところにいるグループの話は、なんだか薄い壁の向こうというか、ざわざわとした音になっています。
自分の病気のことを前向きにとらえようと(話のネタにする程度に)は思ってたのですが、予期せぬ耳の故障で、なんだかすごく疲れてしまいました。
突発性難聴というのは早期治療がなにより大事なんだそうです。時間が経てば経つほど、治る見込みが少なくなっていくそうです。自分は三日目ぐらいで病院行って処置してもらいました。そっからめっちゃ通院する羽目になったのですが。
体は大事にしなきゃならんなあと思います。今年の目標は健康。
2013年はなんやかやでずっと病気で、いろんな意味でダメな年でした。腎不全まで起こしたら普通はもうこの先ずっと透析なんだよとか脳浮腫まで起こしたらあとはもう死ぬ以外ないんだよとか。
いろんなこと言われつつ、現在は左脚にしびれがあるのみとなりました。歩行に支障はなく、走ることもできます。
神様はいないなって思うこともあったし、あ、いるわ、と思ったこともありました。
今現在は絵描きを少しずつ再開しつつ(なにしろ後頭葉が故障していたので目がまだ慣れてない感じがします)、音楽の仕事も、前とはちょっと種類が違いますが、やっております。
絵も音楽も捨てずに人生を続行できるというのは本当にありがたいことです。
リハビリ中にいくつか絵を描いて、写真を撮って、いままでそれはお金ありきでやっていたことだったんですが、そのときはお金でなくて相手のためだけにというシンプルな気持ちで作品を作りました。一時間の作業あたりにいくらかけられるからどういうものにするとか、そういうことを一切考えない作業は本当に久しぶりでした。そのひとつひとつを皆さんがすごく喜んでくれたことが新鮮でした。
己の捩れた承認欲求が、自分のしたことで人が喜ぶのが嬉しいという原点に戻った気がします。
普通の生活に戻ってみて、やっぱり人と接するのがとてつもなく厭になったり、虚脱感をおぼえることもありますし、まだ心の底から助かってよかった、と思うことはそんなにありません。辛いこともすごくたくさんあって、自分のダメなところをもうこれ以上ないくらいに見せ付けられて、後悔ばかりのときもあります。でも、これから先の人生がまだあるということがどういうことなのかを考え続けていくのが、自分に示された道なのだと思います。
闘病中、やさしい声をかけて下さった皆様、本当にありがとうございました。
1、握力がなくなった。ペットボトルのフタが開けられない。
2、元々とれてたわけでもないけれど、デッサンがとれなくなった。特に肩がどうやってついているか、目がどこにあるのか、首がどうついているのかが全然わからない。お手本やデッサン人形を見てはいるけれど、よくわからない。
3、足音を立てなくなった。すごくそっと歩くようになった。
4、よくねむるようになった。机に向かっていてもときどき突っ伏している。
5、音に対して執着するようになった。無音の状態が怖い。これはなぜだかわからない。
6、鼻が利くようになった。においに対して非常に敏感になった。ある一定以上のにおいを嗅ぐと咳が出る。
ついったーではすでに何回か書いてますが、病気で倒れていました。
詳しい病状は自分でもよくわかっていませんが、高血糖昏睡で倒れて→急性の糖尿病→多臓器不全→糖尿病由来の致死性の合併症複数併発→心肺停止という感じでした。で、病気が併発しまくったついでに超高血圧になり、脳の病気に罹るというなんともおそろしいコンボに見舞われまして、蘇生したのがウソみたいな状態です。
脳の病気のほうは結構深刻で、理性も知性も記憶も感覚も感性もすべて失ってしまうという状況でした。家族も友人も、わたしは一生このまま、わけがわからない状態でわーわーうめくだけの生き物になってしまうんだろうなあと思っていたそうで。その頃のことはあまり覚えていませんが、日毎にめまぐるしく機能を取り戻していく感覚は多分一生わすれないと思います。
思えばずっと体調悪い悪い言ってたなあと。今年の頭あたりからだいぶヤバかったようです。過去の己の投稿などを読み返してみると本当になんでこの状態で病院にいってなかったのかと。それはまあ入院中に何度も何度も言われたのですが。
入院したときはすでに血液の状態が非常に悪かったそうです。敗血症も肺炎も数値的には死んでるレベル。むしろよく生きてたなそこまで、という。いや実際死んじゃったのですが。
そんなわけであんまりにも重症なので集中治療室に入れられてました。そこで2週間眠らされてて、ぶっ通しで透析を受けてました。なにしろ腎臓が機能してなかったので、体中に毒素が溜まりに溜まっていたようです。
お見舞いに来てくれた友人に「ICUに入って普通の出口から出れるってすごいことだよ、よかったね」って言われて、あーこれはなんだ、奇跡というやつか、と思いました。そのあと脳浮腫になってしまったのですが。
死後の世界ってどんなんでしたかって聞かれました。
死ぬときってほんとに何もないです。少なくともわたしは何もなかったです。
ゆっくり眠るように苦しむこともなく悲しいとか寂しいとかいう感情もなく、ただただなにもない。無です。強いて言うなら自分というものの存在がいつ終わったのかもわからない。神様もいない。でも、死んだ瞬間はそうでしたけど、長い長い夢を見ました。
脳が少しずつ回復してきて、自分が死んだときのことを思い返して、ああいつかこうやって物事を考えたりする自分はいなくなるのだと、それはどういうことなのかと、病室の天井を見ながら考えていたのですが、死んでいたときに見た夢のことを思い出すと、少し落ち着くのでした。
夢の中のわたしも大してロクな人生を歩んでいなかったようですが、もしも来世などというものがあるのなら、あれはそうなんじゃないかと思います。
でもほんとにロクな人生じゃなかったなあ…。そういうショボさもひっくるめてなんとも自分らしいというか、まあしょうがねえなという感じですが。
で、今は脳の機能が大体回復したはいいものの、体が全然動かない状態です。リハビリはしているのですが、完全に回復するまでまだまだ時間がかかりそうです。タイピングはずいぶんはやくなりましたが。
なにしろ座位がやっとの状態なので、歩くにしてもなんにしても誰かがついてないと無理でして。
リハビリの先生が、入院生活のせいで普段の生活をすっかり忘れてしまっているから、感覚を取り戻すのはかなり時間がかかると思うよ、と仰っていたのですが本当にその通りで、なかなかうまいこといかないです。
体の数値のほうは脳以外は正常値もいいところで、主治医の先生まで「あの重症はなんだったの」と言われる始末なのですが、この動かない体があの病気は現実だったんだなあということを思い起こさせます。
今回のことは己の自己管理のダメさ、というか、不摂生が原因ですので、ひたすら自分の責任でお恥ずかしい限り。
健康には注意しないとダメですね。ほんと