料理も音も空間も一期一会。魅惑の劇場型ビストロ『calme(カルム)』【池尻大橋】
足を踏み入れると、名ピアニスト、グレン・グールドのバッハや時にマーラーの交響曲に包まれる。クラシック音楽が分かるか否か。なんて問いは飛び越えて、瞬時に店主の佐野敏高さんの世界に引き込まれてしまう。日ごとに20種以上用意するグラスワインには、必ず長い熟成を経たワインが1、2種類織り込まれる。今晩は泡。それも2011年のシャンパーニュだ。
「時間の魔法がかかっています。泡の音を聞いてください」
半信半疑で耳を近づける。
「星の瞬きみたいな音でしょう」
佐野さんに言われると、きっとそうに違いない、と思えてくる。音、香り、味わいのすべてに繊細さと複雑味をたたえたワインを半分飲んだ頃には、すっかり“佐野劇場”の観客になっている。
佐野さんが作る料理は「羊とマダコのポリフォニー あぁモーツァルトと坂口安吾はくちずさんだ」と、謎めいている。イスラム料理をヒントにしたり、スパイスの香りをまとわせたりとオリエンタルな要素も。幼い頃から海外に住み、旅を重ねてきた佐野さんにとって、料理は「旅の記憶」。刹那的で、セオリーはない。料理もワインも音楽も空間も。我々観客は、一期一会の瞬間の幸せを、居合わせた人とただ享受すればよいだけである。
演奏後の残響のような余韻が大切

『calme(カルム)』店舗詳細
ナチュラルワインと共にユーラシア大陸を横断『BhelPuri(ベルプリ)』【下北沢】
知る人ぞ知るロケーション、袋小路の突き当たりに位置する店は、ユーラシア大陸へとつながっている。メニューをのぞき込んだそばから、心は一気に旅に出る。
突き出しのベルプリはポン菓子のようなインドの軽食。緑茶の茶葉を発酵させ、干しエビや歯応えのいい豆とサラダ仕立てにしたラベットゥは、ミャンマーの国民食だ。アルザスのオレンジワインを携えて、生春巻きでベトナムに着陸。酸味とうまみが相乗したおいしさにめまいすら覚える。続く中東のスパイスをまとったラムの串焼きに、赤ワインが進む、進む!
オーナーシェフ、小師(こもろ)直樹さんが打ち出すのは、ユーラシアンスパイス小皿料理とナチュラルワインのマリアージュ。タイ国認定レストランで15年、地中海料理店やカリフォルニア料理店などでも働いてきた経験と自身が大好きなスパイス料理を融合したものだ。
「いろんな国のスパイス料理を少しずつ楽しんでいただきたくて。大きなくくりでユーラシア大陸料理と名付けました」
現地の料理を踏襲しながら、ナチュラルな造りのワインに合うようチューニングするのが小師さんの技。締めのパスタは、ンドゥイヤで南イタリアへ飛ぼうか、マトンラグーでインドに舞い戻ろうか。
フランス中心、ナチュラルワインのみ

『BhelPuri』店舗詳細
秘密の扉を開けて既成概念を裏切る料理を『dom(ドム)』【池尻大橋】
看板はない。階段を上った先、青い扉に記された「〇」の中心に「●」を描いたマークだけが目印の、隠されし空間である。「今度は開放的な店にしようと思ったのに、以前同様ちょっと閉鎖的になってしまいました」と、オーナーシェフの米盛さん。高円寺に「エンジン」を開いたのは2015年のこと。2024年5月、店名を一新し、池尻へやって来たのだった。
空間こそ替われど、料理は我が道を歩み続ける。31歳で異業種から料理人に転身し、1年の経験を経てすぐに独立を果たした。
「生きることに近い職業は何かと考えて、飲食の世界に入りました。いろんなお店を食べ歩いたり、本を読んだりと料理は独学です」
だからこそ、メインかと見まがうようなシマアジの身を一切れ丸々使うカルパッチョや、大きな口で頬張りたい具だくさんのクロスティーニなど、イタリアンを軸にしながらも自身の考えを体現した料理を繰り広げる。
「やみくもに飾り立てるのではなく、素材感を感じられる潔い料理がかっこいいと思うのです」
扉のマークは、皿と料理のシンプルさを表現したもの。うまみが染みるワインとのマリアージュを体感したならば、あのマークが口福へ導く暗号のように思えてくる。
優しい飲み口でうまみがジュワリ

『dom』店舗詳細
取材・文=沼 由美子 撮影=山出高士、加藤熊三(dom)
『散歩の達人』2025年1月号より