原発の賠償負担をどうすべきか
原発の事故の賠償はあまりにも高額で、案の定賠償措置額内には収まらないようだ。
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20110413k0000m040150000c.html
差額は国が出すことになり、国民負担とならざるを得ない。
本当なら、原発の事故を引き起こした東電の幹部や、津波の危険を指摘されながら基準を引き上げなかった責任者の資産を凍結して賠償にあてたいところだが、それでもたかが知れているし、法的にも難しいだろう。
しかし、賠償額を通常の税から負担したのでは福島県民もそれを負担することとなり、大きな不公平がある。
賠償額はそもそも原発のコストとして換算されるべきものであり、電気料金に反映されるべきものだ。
だから上記の記事にある「ただし、電力会社の負担増は電気料金に跳ね返るため、政府は消費者の負担との兼ね合いもにらみながら議論を進める。」というのはおかしい。
賠償は原発のコストであるのだから、原発に課税してそこから賠償金を出すべきだろう。
結局それは電気料金として跳ね返るが、電力を多く使用して原発の恩恵を得ている受益者がより多くの負担をするという点で、通常の税を財源とする方法よりずっと優れている。
当然、原発の補助金は全てカットする、グリーン電力証明を得ている分の料金に課税分を上乗せする事を禁止するなどの処置が必要だ。
これにより節電を促せると同時に、自然エネルギーの導入も促進することができると思う。
東京ドームに仮設住宅を
東京ドームはその構造を維持するために、常に電力を消費し続けなければならないらしい。
だったらそこを有効活用するため、東京ドームの中に仮設住宅を造って被災者/避難民を受け入れればいい。雨風は完全にしのげるから、簡単な工事で済むだろう。野球なんぞやってる場合か。
もっとも長引いて夏までとなったら、暑さが大変かもしれないが。
節電しないという選択肢はあり得ない
この停電で節電についていろいろと書かれているが、中には「私は節電しない。日本経済を回す必要があるから。」とか書いている人がいる。
しかし、節電しなければ日本経済は回るんだろうか?
エネルギーを使いさえすれば日本経済が回るっていうなら、重油でたき火でもすれば日本経済を回すことができる……そんなわきゃねー。
エネルギーは適切に有効に使ってこそ、経済を回すことができるのだ。
そしてエネルギーをより有効に使うこと、無駄な使い方をしないこと、それこそが省エネという行為だ。
したがって、たとえ西日本であろうとも、省エネは日本経済を回すのに有効だ。もちろん生活に支障が出るほど無理をする必要はないが、省エネして浮いたお金を義援金として寄付すれば、そのお金は消費され、経済を回す活力となることだろう。
ネット大学という幻想
ビル・ゲイツ曰く「5年以内に最上の教育はウェブからもたらされるようになる」
結論:あり得ない。
実技が壊滅だというのはおいておく。(何でゲイツがそこに気付かないのか謎過ぎだが)
ゲイツに限らず、この手の意見の誤りは、学習を「情報の記憶」としてしか見ていないことにある。本当の教育の目的は、思考プロセスを学ぶことであって、情報はそれを学ぶための道具に過ぎない。
そして思考プロセスを学ぶためには、「対話」が非常に重要となる。自分の考えを説明すること、他人の考えを理解すること、それなくして思考プロセスは学べない。
しかるに電話会議、TV会議などを利用して分かるのは、それらを使って対話をするのが非常に困難だということだ。
対話とは交互に情報をやり取りするだけではない。こちらから話している時にも、話し相手の表情を読み、理解しているかどうか判断する。それによって時には身振り手振りを即興で加えて話をする。プレゼンテーションとは違うのである。現在の電話会議システムで、複数の人の表情を読みながら、身振り手振りや、さっと黒板に書いた図を用いて説明したりできるだろうか?
NHKなどで放送している有名大学の講義風景などを見ると、これをネット上で実現するのは不可能だと気付くはずだ。え?放送してるじゃないかって?放送で得られるのはほんの一部に過ぎませんよ。
だいたい本物の授業のやり取りなくしてどうしてネット送信できるんですか?
現在の技術でできるのは、せいぜいごく少人数のTV授業や、放送大学のようなものでしょうね。確かにネットで得られるものは増えていくでしょうが、決して「最上のもの」になることはないでしょう。
稚拙な主張ごっこ
仲間うちのぬくぬくした世界での主張ごっこ。それだけ。
読み手に配慮しない書き方、このページのひらがな多用に限らず、ギャル文字だの、旧かな使いだの、難漢字多用だの、そういう表現を用いている段階で、それを許容する仲間以外を拒否しているんだよ。そうやって世界を閉ざし、そこに集まってくる仲間だけで「うんうん、そうだよね」とやりたいだけだろ。
内容の方も結局はそれに見合った程度のものになっている。
自身の自由、存在そのものが社会から支えられている事を無視し、自由意志のみを拡大解釈する。その先にあるのは何だ?今はやりのモンスター同士が戦い合う、混沌の荒野だよ。そこには自由などない。究極に不自由な世界。結局この主張はどこで自由を認め、どこで責任を求めるのか判断/思考を放棄しているだけだ。どうあがいてもそんな主張を社会に受け入れさせるのは不可能だし、「魂の本質とは」とか議論するのと同じように無意味だ。
そしてそれに賛成するものたちは、シーシェパードや中国人のオリンピック応援隊、そういった人々の行動にも同じ事を思うのか?それができないのなら、それは「好きな者には自由を、嫌いな者には天誅」をと叫んでいるのと同じだ。
だけどね、これと全く同じ主張する奴なんてずっと昔からいたんだよ。私自身何度も全く同じ主張を見てきた。この主張に新しいところなんて何もない。そして彼らの主張が社会に受け入れられる事はなかったし、読み手不在の表現を使っているなら誰かに影響を与える事すらないと思う。