高崎の起源は、箕輪城主、井伊直政が勢力を伸ばし、「赤坂の庄」、「和田宿」を合わせて「高崎」と名付けた慶長3年(1598年)にさかのぼる。以降、明治維新までの150年間、高崎は繁栄を続け、「お江戸見たけりゃ高崎田町、紺ののれんがひらひらと」とうたわれるほどにぎわった。
高崎と名付けられてから119年後の享保2年(1717年)、旧高崎藩主大河内家を祀った頼政神社のまつり(祭典)が始まった。このまつりが高崎まつり、高崎山車まつりの起源と言われている。頼政神社の祭典には「山車」が使われた。山車は、神社の祭礼の時に引く、さまざまな装飾を施した屋台のことで、関西では「山(やま)」「鉾(ほこ)」などとも呼ばれている。頼政神社の祭典は、大河内家が東京に居を移す明治初期まで続いたが、その後衰退。この時点で24台の山車があったという記録が残っている。
頼政神社の祭典が衰退した後しばらくの間、大型の山車が作られたが、大通り(現在の田町通り)に路面電車(東武鉄道軌道線=1910~1953年)用の架線が張られたために引き回すことができなくなってしまった。そのためこれら大型の山車は、他所への売却されたという。再び山車(小型)が作られるようになったのは、明治末期から昭和初期にかけてで、製作年が特定できない1台と、平成元年に製作された1台を除く36台がこの間に製作されている。
こうした長い歴史を経た現在、高崎市には38台の山車がある。これらの山車の屋根の上には、天照大神、藤原定家、恵比寿などの縁起物、牛若丸や浦島太郎、静御前などさまざまな人形が乗せられており、人形を製作した人形師の名が残されている。高崎市内でひな人形、五月人形などの製作を手がけるメーカーでは、現在も山車人形の製作や修理を請け負い、文化の伝承に一役買っている。
1.鏡獅子(大正4年) 並榎町 |
2.静御前(昭和11年) 末広町 |
3.羽衣の天女(昭和23年) 請地町 |
4.蘭陵王(大正3年) 住吉町 |
5.源為朝(大正13年) 相生町 |
6.猩々(昭和3年) 本町1 |
7.弁財天(大正2年) 本町2 |
8.石橋の舞(大正7年) 本町3 |
9.素盞鳴尊(昭和8年) 成田町 |
10.猿田彦(大正12年) 赤坂町 |
11.牛若丸(昭和57年) 常磐町 |
12.藤原定家(大正13年) 歌川 町 |
13.日本武尊(大正13年) 柳川町 |
14.三番叟(大正13年) 新紺屋町 |
15.弁慶勧進帳(大正3年) 寄合町 |
16.神功皇后(大正12年) 田町(1.2.3丁目) |
17.小鍛冶(昭和3年) 並榎坂下 |
18.桃太郎(昭和24年) 連雀町 |
19.小鍛冶(製作年不明) 石原町下4 |
20.菅原道真(明治時代) 石原町下3 |
21.彦狭島王(平成元年) 石原町下2 |
22.少那彦名命 (昭和58年)石原町下1 |
23.牛若丸(昭和9年) 下和田町 |
24.乙姫(大正元年) 通町 |
25.菅公(大正11年) 和田町 |
26.楠公(大正13年) 南町 |
27.恵比寿の神 (大正3年)砂賀町 |
28.天照大神(昭和6年) 下横町 |
29.浦島太郎(明治43年) 新田町 |
30.神功皇后(大正13年) 八島町 |
31.健御名方富命 (大正6年)あら町 |
32.竜神の舞(大正11年) 田町4 |
33.鐘馗(昭和22年) 旭町 |
34.神武天皇(大正14年) 高砂町 |
35.新田義貞(大正13年) 北通町 |
36.大黒天(昭和21年) 羅漢町 |
37.静の舞(昭和22年) 九蔵町 |
38.木花開耶姫 (大正13年)山田町 |
また、まつりに欠かせないのがお囃子。高崎のお囃子は神田ばやしの影響を受けているが、曲名が同じなのに随分と印象の違うものがあるのが特徴で、江戸まつりの囃子と「頼政神社の祭典」から続く在来の囃子が融合して、現在の囃子になったと考えられている。山車を所有する38の町内ごとに独自の囃子があることと、子どもが太鼓を叩くのも他のまつりにみられない特徴だ。毎夜、夜風とともに流れてくる囃子の練習の音は、まつりとともに高崎の夏の風物詩のひとつになっている。
頼政神社の祭典から292年間に渡り、道祖神祭り、高崎祇園商業祭、高崎奉納祭、高
崎ふるさとまつりなど、名称や主催者が異なる幾多のまつりを経て、定着した現在の「高崎まつり」と「高崎山車まつり」。近年、38台すべての山車が引き回されたのは、市制100周年にあたった平成12年(2000年)のこと。このような節目の年以外は、半分ずつが参加する輪番制をとっている。今年の「番」は東地区(32~38)と南地区(19~31)で、4日、5日の2日間、合計21台の山車が引き出される。4日、18時30分からもてなし広場で行う「集結式」、5日、15時40分から田町通りでの「勢揃い」は圧巻。