新海誠監督の『君の名は。』を観て、ピクサーのジョン・ラセター方式をすべて捨てようと決意した。《天狼院通信》
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*この記事は映画『君の名は。』の公開当初、2016年9月に書いたものです。
天狼院書店店主の三浦でございます。
はじめに断っておきますと、僕は新海誠監督のことは、何も知りません。前の作品は、観たのか、観ていないのか、はたまたTSUTAYAでDVDで借りたのに観ずに返したのか、定かではありません。
ただ純粋にその映画だけを観て、どう感じたかを自分でまとめたかったので、映画のパンフレットも買っていませんし、「新海誠」という名前を、今の時点ではググってもいません。
たった今、新海誠監督の『君の名は。』を福岡の映画館で観てきました。
僕は、今、様々な本や雑誌の制作を抱えていて、ようやくひとつビジネス書が手離れし、ここからはまったく違った分野の「小説」にどっぷり浸からなければならないので、「感性むき」をしなければならず、それで、仕事の合間に映画館に飛び込んだのでした。
「感性むき」とは、ビジネスなどの合理性の皮を剥いて、感性をむき出しの状態にしてしまうことです。アート系の作品を制作する前には、これをやらないとビジネス思考に引きずられてしまうので、毎回、儀式のようにやっています。
のっけから、結果を言ってしまえば、僕は今、このときに、この映画を観て、本当によかったと思っています。
いや、もっと正確に言うのならば、今、このときに、この映画を観なかったら、やばかっただろうなと思いました。
さらに結果から最初に言ってしまえば、ここ数ヶ月、大学の授業でもその研究の結果を密かに発表していた、ピクサーとディズニーが世界を席巻している原因となっているジョン・ラセター方式を、一切捨ててしまおうと決意しました。
『君の名は。』を観終えて、まだ30分と経っておらず、衝撃がまだ胸にまさに彗星の残滓のように残っていて、それが完全に消える前に、大切なことを時がかき消してしまう前に、どうしても書き記して置きたかったので、僕はご飯を食べるのも後回しにしてこれを書くことに決めました。
僕は39歳に先日なりましたが、同じ年代の多くの人がそうであるように、僕はジブリ信者です。
『風の谷のナウシカ』も『天空の城ラピュタ』も大好きですし、何より、『紅の豚』がおそらく『ゴッドファーザー』や『フォレスト・ガンプ』に並ぶほど好きです。
まあ、宮﨑駿という紛うことなき天才と、同じ時代を生きて、彼が繰り出す作品を、ほぼタイムリーに享受した幸せは、あるいは50年後に誇れることになるやも知れません。
テレビの特集なども、宮﨑駿に関することはけっこうよく観ていたのですが、そんなテレビ番組の中で、なんだか愛くるしい顔をしたメガネをかけたアメリカ人が、宮﨑駿の周りをウロチョロするのを、数年か前から見かけるようになりました。
ピクサーのクリエイティブ部門の責任者、ジョン・ラセターでした。
彼は『トイ・ストーリー』の監督をやって、ピクサーとともに一躍世界的な名声を得るわけですが、宮﨑駿好きを公言していて、宮﨑駿監督とも交友が深い。
前に、NHKでピクサーの強さの秘密を特集した番組を観たときにも、ジョン・ラセターは宮﨑駿について熱く語っていて、自分の仕事場には『となりのトトロ』に出てくる巨大なねこバスの壁掛けぬいぐるみを飾っているほどでした。
彼のすさまじく強かなところは「尊敬しています、大好きです」と宮﨑駿監督と交友しつつ、ジブリのいいところを、本当に徹底的にピクサーに持って行っている。
それは、ジョージ・ルーカスやスピルバーグが黒澤明を尊敬しつつも、その素晴らしい点をハリウッドに持って行って拡大生産した構図とよく似ています。
ジョン・ラセターがクリエイティブ部門を率いるピクサーは、その後も大ヒットを連発させて、今では、ジョン・ラセターはディズニーの制作部門のトップも兼任している。
ディズニー映画の『アナと雪の女王』が世界的な大ヒットを記録したのは、ジョン・ラセター方式をディズニーにも移植したからです。
その後も『ベイマックス』『ズートピア』とヒットを連発して、今、ピクサーとディズニーは黄金期を迎えている。
つまり、名実ともに、世界最強のクリエーター集団を率いているのが、ジョン・ラセターだということです。
それなので、『アナと雪の女王』以降、僕はまるで興味のなかったディズニー映画を研究するようになりました。ディズニー映画、というより、ジョン・ラセターの方式を、逆に日本でできないかと様々な方法を考えました。
これは、あくまで、僕の推測に過ぎませんが、ジョン・ラセターは宮﨑駿と交流を深める中で、宮﨑駿の天才性に衝撃を受けたのではないでしょうか。
あるいは、ジョン・ラセターは笑顔で宮﨑駿に対する中で、内実は、こう焦っていのではないでしょうか。
「自分には、宮﨑駿のような天才性はない。そして、ピクサーで宮﨑駿のような天才を生むのは、確率が低いのではないだろうか」
そうした衝撃と、現実認識と危機感が生み出したのが、ジョン・ラセターを中心としたピクサーの制作方式なのではないかと僕は思うのです。
ジョン・ラセター方式とは、僕の解釈で簡単に言えば、一人のクリエーターの天才性に依存するのではなく、多くの秀才で構成された集団がひとつのクリエーターのように制作し、天才に比肩する作品を創るというものです。
ピクサーの映画と、『アナと雪の女王』以降のディズニーの映画でエンドロールを注意深く見ると、脚本家やストーリークリエーターが10人前後記されているのは、それが理由です。
この方式をとるのなら、確率の低い、宮﨑駿クラスの天才を待たずともすむので、ビジネス的なリスクが解消されます。また、さらには大量に良質のコンテンツを送り出すことができるので、コンテンツ業界を、その質と量において席巻することができます。
つまり、世界戦略を取らざるをえないディズニーやピクサーにしてみれば、ビジネスの観点を最重要視しなければならず、必然的に、このようなかたちになったのだろうと思います。
『ピクサー展』も先日長崎で見てきて、その仮説が正しいのではないかとさらに思うようになりました。
僕は、このジョン・ラセター方式を、天狼院で徹底してやろうと考えました。
それなので、今は編集ユニットで書籍を制作していますし、今度、僕が創る小説は、完全にジョン・ラセター方式を踏襲して、ストーリーボードを壁一面に張り出し、スタッフ総掛かりで最善の物語を組み上げようと考え、数ヶ月前から、密かにユニットを形成していました。
明日から本格的にまた制作に入る作品も、ジョン・ラセター方式で行こうと思っていました。
ほんの、3時間前までは――
ところが、今日、新海誠監督の『君の名は。』を観て、福岡天狼院に戻って、スタッフに言った第一声がこれでした。
「決めたよ。僕はジョン・ラセター方式を一切取りやめることにした」
スタッフは、きょとん、です。え? です。
これまで、社内ではジョン・ラセター方式がいかに優れているかを説いていました。大学の授業でも、それを力説していました。そして、体制も整えていたのです。
それを、急に止めるといえば、スタッフが混乱するのは無理もありません。
考えてもみれば、新海誠監督の『君の名は。』は、この決断にとっては「ラクダの背骨を折った最後の一本のわら」だったのかもしれません。もうすでに庵野秀明総監督の『シン・ゴジラ』でも、それを感じていて、どこかで迷いながら、そしてどこかで違和感を覚えながら、ジョン・ラセター方式を推し進めようとしていたのかもしれません。
それゆえに、今日、とりやめることを、躊躇なく決めることができた。
新海誠監督の『君の名は。』は、本当にすばらしい作品です。
第一感として思ったことは、この人はカメラマンの目を持っている、ということでした。
それも、今、僕がカメラを本格的にやり始めたからわかったことです。彼の映画は、アニメだというのに、カメラの「F値」にとても気を使ったような作り方をしている。
彼が描く画の随所に、まるでF値が低い単焦点レンズで撮られたような「ぼけ」が現れることに、あるいは多くの人が気付いたかも知れません。
女性の描き方も、カメラマンの青山裕企さんのような視点を持っている。
空や星の描き方も、山頂からの俯瞰の仕方も、写真をやっていなければできないような表現が多いように思えました。
こうして、圧倒的な世界観を見せつけておいて、そして、彼はストーリーで我々を引き込んでいく。
実に、丁寧に物語を紡いでいっており、驚きと感動を、「いい塩梅」で絡ませていて、観た後に人に多くのことを感じさせるような、とても優れた作品だと思いました。
いやー、やられたな、と全身総毛立つのを気持ちよく感じていました。
そして、エンドロールを見たときに、僕はジョン・ラセター方式を捨てることを決意したのです。
エンドロールには、こうありました。
原作・脚本・絵コンテ 新海誠
そして、最後にこうありました。
監督 新海誠
もし、ピクサーやディズニーの映画になら、その原作・脚本・絵コンテのところには多くのクリエーターの名前が並ぶことになるでしょう。下手をすると、20〜30人の名前があってもおかしくはない。
けれども、この映画では、「新海誠」のみなのです。
僕は実は、ジョン・ラセター方式を導入すると決めたあとも、潜在的なレベルで、まだ迷いがありました。
クリエーターの集団方式では、ひとりの天才が放つ圧倒的な光に対抗することはできないのではないか?
いずれ、ジョン・ラセター方式で創られる映画は、世界中の人に飽きられるのではないか?
ちょうど、韓流がブームで終わって、多くの人に飽きられたように、ディズニーが飽きられる日が来るのかも知れない。
そんな疑心暗鬼のようなものを、僕は実は心のどこかに抱いていたのです。
そして、庵野秀明総監督の『シン・ゴジラ』や新海誠監督の『君の名は。』を観るに、やはり、一人の天才的なクリエーターを中核とした、日本が得意とするこの方式こそがこれからの世界に通用するのではないかと思ったのです。
大げさに言うと、世界最強である日本の漫画やアニメの世界は、ひとりの天才、手塚治虫がいなければ成り立ち得なかったと僕は思っています。
いつだって、世界は、合議や効率ではなく、ひとりの天才的な煌めきが彗星のように現れて、時代を横断し、あらゆることの見え方を変えてきたのではないでしょうか。
トルストイは『戦争と平和』において、ナポレオンがいなければ、また別のナポレオンが現れるだけだと言う論旨を展開しました。けれども、日本の司馬遼太郎は、坂本龍馬が流星のように幕末に現れなければ今の日本はなかっただろうと言います。
あるいは、そんなヒロイズム的な制作方式の優位点を、僕らはもう一度見直してもいいのかも知れません。
それは、我々日本人が、もっとも得意とする方式です。
この優位性は、全身全霊をその作品に深く打ち込むことによって、はじめてできるのではないでしょうか。
だから、日本人はこの方式に強い。
また、見方を変えれば、物語が工場で大量生産的に創られることに、人間はいずれ、違和感を覚えてくるはずです。
やはり、大きな彗星が、目の前を通過するかのごとく、世紀の天体観測的な天才の出現を、人はロマンを持って待っているのかも知れません。
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