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【現地報告@アルゼンチン】バリローチェ国際哲学会議第9回「メタ哲学」

2008.10.04 中島隆博, 小林康夫, 西山雄二

2008年10月1-3日、「南米のスイス」と呼称されるバリローチェで国際哲学会議第9回「メタ哲学」が開催された。2日にUTCPセッション「アジア的思考の複数の可能性――もうひとつのメタ哲学」が設けられ、小林康夫、中島隆博、西山雄二が発表をおこなった(司会:フランシスコ・ナイシュタット)。

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バリローチェはブエノスアイレスから飛行機で南東に2時間、チリとの国境沿いにある湖畔の町である。2000-3000m級のアンデスの山々に囲まれ、付近には湖が点在する美しい町で、実際、スイスなどからの移民の手によって街の風景はスイス流に装飾されている。バリローチェは「風の大地」南部パタゴニア地方に属しており、都会のビルなどの人為物に遮られることなく、生々しい冷たい風が自然の中から悠然と吹きつけてくるのが感じられる。また歴史をひも解くと、第二次世界大戦後、アルゼンチンは親ナチスのファン・ペロン政権の下で元ナチス党員(アイヒマンなど)の主な亡命先であったが、辺境のバリローチェはその隠れ家のひとつだった。

原子力研究センターのバリローチェ財団の主催で隔年で開催されるこの国際哲学会議は今回で9回目を数える。最初は分析哲学系が中心だったが、次第に大陸哲学の色も強くなり、300名ほどが発表する大規模な会となった。私たちがアジアからの初の参加者で約40名ほどの聴衆が来てくれて、地元TV局も撮影に来ていた。

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まず、小林康夫が「メタ哲学としての仏教の可能性」と題して、東アジアにおいて哲学を実践するという立場からメタ哲学の可能性を提示した。彼は、原始仏教における実存からの退隠の実践を、西洋哲学のひとつの枠組みをなす終末論と対置する。意味で構成された世界からの離脱を目指す仏陀の教えは、脱実存の「非実践的な」実践とでも言うべきものである。それは存在でも非存在でもない「空」として世界を思考すことでその「新たな終点」を導き出す。こうした実践こそが、現代の資本や技術の拡張(人類の歴史的運動の総体)を、その究極的な名や意味を保留したまま脱構築するのではないか、と小林は提言した。

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次に、中島隆博は発表「哲学としての中国哲学史」において、二人の近代中国哲学者・胡適と馮友蘭の対比を通じて「中国哲学史」の意義を批判的な仕方で考察した。西洋哲学との対決から生まれたアジアの近代哲学は、哲学以上のものとして、あるいは、哲学ならざるものとして、すなわち「メタ哲学」として自己規定するという宿命を負った。歴史を欠いた哲学は存在せず、例えば、中国哲学史を創出することは哲学それ自体として必要とされる。一方で、胡適は老子の読解を通じてロゴスに対する歴史的意識を、すなわち、中国における哲学の内在的起源を見出そうとした。他方で、馮友蘭は胡適を批判して儒教を哲学的起源とする。つまり、ソクラテスとプラトンの序列のように、孔子と荀子あるいは老子の時間序列的関係を設定することで、別の西洋哲学史を描こうとしたのだ。哲学の歴史的自己意識と西洋哲学史の別の様式とのあいだで、中国哲学は自己規定の問いに直面し続けているのである。

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そして、西山雄二は「田辺元における種の論理と供犠の問い」と題して供犠と共同体の問いを論じた。田辺は種の論理によって自由主義的な個人と全体主義的な民族の双方を弁証法的に超克しようとした。種は普遍と個別を区別しながら統一する絶対的な否定性として規定され、それゆえ、田辺の弁証法は絶対的な無をその根底とする絶対媒介による絶対弁証法である。種の論理は実体的なナショナリズムと対立するものだが、しかし、その死復活の実践において共同体と供犠のアポリアを孕む。西洋における供犠の独創的な原型はソクラテスとキリストのそれである。両者の供犠は自己供犠であり、唯一的であり、それゆえあらゆる供犠の存在論的かつ神学的な本質をなすからである。これに対して、田辺における絶対的な無(種)を介した死復活は供犠の範例的な形象を必要としない。共同体の問いはこうした範例的な供犠と範例なき供犠のあいだで検討される必要がある。

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さて、8月に韓国で参加した世界哲学会議や今回のような国際会議は、学術的催事としてどのような意義を有するのだろうか。たしかに、厳密な意味での学会とは異なり、総題を設定しているものの各発表は総花的で全体の統一性は希薄だ。また、学会紀要誌への論文掲載を目指して精度の高い発表にしのぎを削るというよりも、むしろ、いろいろな国のさまざまな分野の発表をお互いに聞こうと言う「お祭り」的で「見世物市」的な雰囲気が強い。

ただ、敷居の高い専門的な学会とは異なり、こうした国際的な催事には学部学生含めて一般の人が参加しやすい。実際、世界哲学会議では学部生がボランティアとして運営に関わり、発表を聞いていたし、今回も学部学生50名ほどがはるばるこの辺境の地まで足を運んでいた。それはこうした催事が過度に専門家的でも、中途半端に一般的でもないからだろう。私が交流した範囲での感想だが、韓国でもアルゼンチンでも学部学生がこうした催事に積極的に参加していることはきわめて印象的であり、また、彼らの知的好奇心は清々しいものだった。

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(バリローチェ国際哲学会議に参加したブエノスアイレス大学の学部学生たちと)

私たちUTCPの学術的催事はあらゆる人に無料で開かれており、過度に専門家的でも過度に一般的でもない水準が設定されている。だが、実際のところ、院生の参加はこちらが期待するよりも少なく、学部学生の参加はほとんどない。「あれは大学院生向けの催事だから」「専門的だから」「通訳なしの英語は聞き取れないから」といった理由があるのだろう。また、私たちUTCPとしても、万全の準備をして、十分に告知をおこない、魅力的な催事を開催するに至っていないのだろう。ただしかし、入門的催事と専門家的催事――そもそも両者の区別は曖昧だ――の橋渡しをなす学術的催事はきわめて重要であり、とくに若い世代に学問への実践的参加の機会が与えられることは必要である。

3日、バリローチェの国際哲学会議は無事に閉幕し、最終日の夜は街中のレストランでタンゴ・ショーを聞きながら会食となった。だが、食事が終わった真夜中頃、雰囲気が一転する。フロア全体を貸し切って、75歳の大会事務局長をも含めて、全員でタンゴ・ダンス・パーティーが始まったのだ。アルゼンチンとチリの国境沿いのこの美しい湖畔の町で、哲学者たちの熱情的な舞踏はさらに深夜まで続くのだった。

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(文責:西山雄二)

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