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【報告】「思考のレトリック」第2回:星野太「放物線状の超越——ミシェル・ドゥギーと「誇張」の詩学」

2013.07.05 星野太, 文景楠

2013年4月26日、東京大学駒場キャンパスにて、星野太(UTCP)が「放物線状の超越——ミシェル・ドゥギーと「誇張」の詩学」と題する発表を行った。この発表は、本年2月に開始された研究会〈思考のレトリック〉シリーズの第2回目として開催されたものであり、同じくUTCPの文景楠の司会のもと、約15名の参加者を迎えて発表と議論が行なわれた。

本研究会は、哲学・文学・批評といった区分を越え、言語そして思考一般において働く「修辞=レトリック」について問うことをひとつのモティーフとしている。そうした関心から、第1回目では井出健太郎氏(東京大学大学院博士課程)に吉本隆明の初期作品をめぐる発表(「抵抗のリリシズム——吉本隆明のロマンティシズム批判」)を行なっていただいた。そして今回、星野が発表で扱ったミシェル・ドゥギーもまた、詩・評論・哲学という複数の領域にまたがった執筆活動を行なっており、本研究会で議論の対象とするに相応しい作家であると判断した。

星野の発表は、ドゥギーが1984年に発表した「大–言」というテクストを中心に、現在までに刊行されたドゥギーの著作に見られる「崇高(sublime)」概念の内容と意義を紹介するものであった。ドゥギー自身は、これまでに発表した40冊あまりの著作のなかで「崇高」に関するまとまった理論を提示しているわけではない。だが、「大–言」における偽ロンギノス『崇高論』の読解、および80年代に発表された『横臥像』や『与えあう』などの詩作品を併読していくことで、そこには「贈与」や「誇張」という主題と密接に絡み合うドゥギー独自の崇高論を見いだすことができる。そしてドゥギーは、2005年に編まれた詩集のアンソロジーの序文において、かつての自身の思考をたどり直しながら、「放物線状の(parabolique)」超越という興味深いモティーフを提示している。本発表で試みたのは、80年代のドゥギーの崇高論と、この「放物線状の超越」というモティーフを結びつけながら、そこに読み取られる「超越」をめぐる思索を説得的な仕方で提示することである。

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今回の発表の大部分は、近年刊行された発表者の論文(「放物線状の超越——ミシェル・ドゥギーにおける「崇高」の誇張的読解」『表象06』月曜社、2012年)に基づくものであったため、詳細な内容についてはそちらを参照していただきたい。発表の後半ではこれに加え、『世界における終焉』や『エコロジック』といった著作を紹介しつつ、ここ数年のドゥギーの思索のなかに、あらためて「崇高」への関心が伺えることを指摘した(Michel Deguy, La fin dans le monde, Hermann, 2009 およびÉcologiques, Hermann, 2012を参照のこと)。

その後の質疑応答のさいには、発表で分析したドゥギーの詩をめぐる具体的な質問から、発表全体の企図に関わるものまで、参加者の方々からさまざまな質問・意見をいただいた。その応答のさいにあらためて考えさせられたのは、ドゥギーが用いる前述の「パラボリック(parabolique)」という形容詞の重要性である。一方では「放物線の」という意味を持ち、他方では「寓意的な」という意味を持つこの形容詞の意味を一義的に決定することは難しい。しかしドゥギーはこうした語彙への着目を通じて、「超越(transcendance)」という観念的な語のうちに潜む「trans」の運動を批判的に捉え直し、それとは異なるタイプの「超越」について——まさに「レトリカルに」——思考する。哲学、詩学、修辞学が複雑に絡み合うドゥギーのテクストを読解するにあたって、このモティーフは今後さらに深く展開していく意義があると考えている。

報告:星野 太(UTCP)

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