Location via proxy:   [ UP ]  
[Report a bug]   [Manage cookies]                
ワシモ(WaShimo)のホームページ
 
旅行記 ・川棚温泉 〜 山頭火を歩く(10)− 山口県下関市 2014.05
川棚温泉
妙青寺山門
川棚温泉 山口県下関市街から北へ25km。下関、北九州の奥座敷とし栄え、親しまれている川棚温泉(山口県下関市豊浦町川棚)は、寿永2年(1183年)開湯の 800年以上の歴史を誇る温泉地で、歴代の毛利侯藩主の御殿湯として栄えました。種田山頭火やピアニストのアルフレッド・コルトーが愛したことで知られています。山頭火は、『行乞記(三)』の昭和7年5月25日に、『川棚は山裾に丘陵をめぐらして、私の最も好きな風景である。とにかく、私は死場所をこゝに、こしらへよう。』と書いています。
 妙青寺
妙青寺境内   湧いてあふれる中にねている
は川棚温泉への思いをふっつりと切って、宿の人たちと赤トンボに見送られ俳友たちの待っている小郡(山口県吉敷郡)の空へと急ぐのだった。今日はおわかれのへちまがぶらり、芭蕉は「覇旅辺土の行脚、捨身無常の観念、道路に死なん、是天の命なり」といったが、山頭火もまた芭蕉の心を慕って流浪の旅路に晩年をきざみ、昭和十五年十月十一日四国は松山の一草庵でたった一人きりポックリと死んで行った。行年五十九歳
 
     山頭火略年譜

 
山頭火略年譜本名種田正一 明治十五年十二月三日山口県防府市西佐波令の大地主の長男として生まれる。二十三歳早稲田大学中退三十二歳萩原井泉水に師事、三十五歳(大正五年)生家破産 四十四歳(大正十四年)出家得度。四十五歳行乞流転の生活に入る。五十一歳(昭和七年)川棚温泉に百日近く滞在の
あと小郡町矢足の「其中庵」に庵住。五十七歳「其中庵」破れ山口県湯田温泉の「風来居」に転住。五十八歳四国遍路の旅へ。松山の一草庵に庵住。昭和十五年十月十一日一草庵で酔死。      小串吉津記。豊浦町観光協会。
 
山頭火と川棚温泉
「涌いてあふれる中にねている」ほのかにゆらめく温泉(ゆ)のかおり、湯ぶねの中に一本の杓子がゆらゆらとゆらめいている。それもキズだらけの杓子が、その杓子こそ行乞(ぎょうこつ)の俳人、種田山頭火の姿であった。母の位牌と托鉢の鉢の子だけをたよりに天地自然の神と同行二人、まったく無一物でひたすら俳句の道をさすらい続けたあげく、湯けむりにあこがれ五十の坂道をあえぎながら川棚温泉にたどり着いた昭和七年五月二十四日のこと。ふるさとはみかんの花の匂うとき、ふと生まれ故郷(山口県防府市西佐波令)の思い出があれこれとみかんの花びらに乗ってきた。流転の終着駅を探していたときだけに、山頭火は温泉とみかんの花の匂う川棚温泉との出合いが、たまらなくうれしかった。それにもうひとつありがたいことには、ここに禅門ゆかりのお寺妙青寺(曹洞宗)のあることだった。どうしても落ち着きたい夕月、ここならどうにか落ち着けそうだ。お寺の土地に草庵を結ぶことができたらどんなによかろう、わぴ住まいの夢を追いながら山頭火はおぼろに光る妙青寺の裏山にひっそりと立ち尽くした。ここの土となろう、お寺のふくろう(ここが私の死場所ですよ)しみじみとふくろうに呼びかける山頭火だった。だがやがてその夢ははかなく消えてしまった。こじき坊主のせつなさ、信用がないばかりに草庵を建てる土地の交渉がうまくいかなかったのだ。どうしようもない、ただあきらめるよりほかに道はなかった。昭和七年八月二十六日山頭火
花いばらここの土とならうよ  川棚グランドホテル
雪舟の庭へ
妙青寺(みょうせいじ) 応永23年(1416年)、長門国守護職に就いていた大内持盛によって創建され、国清寺といっていたが、1604年長府藩主の姉がここに葬られ、法名から妙青寺と改名されました。明治2年(1869年)まで長府毛利藩によって支配されていました。行基作と伝えられる観世音菩薩が本尊。本堂裏にある池を配した庭園は、室町時代に活躍した水墨画家で禅僧の雪舟により造られたものです。
雪舟の庭
川棚温泉の地がすっかり気にいった山頭火は、さっそく妙青寺に拝登し、お寺の土地借入と草庵建立を長老に懇願します。”私は私にふさはしくない、といふよりも不可能とされていた貯金”を始めるなどして、 100日近く川棚温泉に滞在します。しかし、”身許保証(土地借入、草庵建立について)には悩まされた、独身の風来坊には誰もが警戒の眼を離さない”。結局、土地借入に必要な当村在住の保証人二名をこしらえられず、8月27日川棚を退去することになります。 けふはおわかれのへちまがぶらり
下関市川棚温泉交流センター 川棚の杜
川棚の森 美しい暮らしや伝統文化が息づく川棚温泉の風土を見直し、人と人との出会いの場の創出をコンセプトに誕生した交流スペースが『川棚の杜』です。斬新なフォルムの建物は、世界的に高い評価を受ける建築家・隈研吾氏の設計により、音楽ホールとミュージアム機能を併せ持っています。メインとなる大交流室(音楽ホール)は、川棚をこよなく愛したフランス人ピアニスト、アルフレッド・コルトーにちなんで『コルトーホール』と命名されおあり、地域の暮らしや文化を、生活用具などの展示を通して紹介する『下関市烏山民俗資料館』が併設されいるほか、周辺観光案内、まちづくり情報など、さまざまな情報や出会いの機会を発信する『観光交流センター』となっています。
川棚の杜
コルトー胸像(杜の広場)
 
アルフレッド・コルトー
(1877−1962)
「1952年(昭和27)世界的ピアニスト アルフレッド・コルトー(1877−1962)が初来日。山口県の宇部と下関公演の際に宿泊した川棚温泉の川棚観光ホテルから見える風景に魅了され、「こんなに美しい夢のような風景は見たことがない。なぜか外国にいる気がしない。日本はブレ・ペイ(本当の国)だ。」と言い残した。響灘に浮かぶ厚島に魅せられたコルトーは、当時の川棚村長に「天国のようなあの島でこっそり死にたい。ぜひ買いとりたい」と交渉。村長は大変驚きましたが、その熱心さに心打たれ、「あの島に永久にお住みになるなら無償で差し上げましょう」と快諾。「私の思いはひとりあの島に残るだろう」とつぶやいた。また、島の名前を「孤留島(コルトー)」と命名することも提案されました。 川棚村長は碑文の揮毫をコルトーに依頼し、コルトーは「この上なく美しいこの島に、友情によって書かれたこの碑文が、願わくば絶えず夢の中に住む精神を持った一フランス人音楽家の思いをいつまでもとどめておく事ができますように」と記し、自らの信条として「音楽は精神の炎を噴出させねばならぬ」というべートーヴェンの言葉を日本の音楽学徒に残しました。 コルトーは再来日を果たせないまま50年前の1962年にこの世を去りました。それから随分と時間が流れ、2003年にコルトーがパリに設立したエコール・ノルマル音楽院から川棚のホテルへ一本の電話が入りました。生前コルトーが周囲に話していた「カワタナの夢の島」と川棚の厚島が結びつき、再び物語が甦ったのです。日仏交流150周年にあたる2008年11月、下関市とエコール・ノルマル音楽院とのパートナーシップが締結されました。2010年1月、奇しくもコルトーが滞在したホテル跡地に、隈研吾氏設計の「川棚の杜・コルトーホール」が誕生。毎年「川棚・コルトー音楽祭」が開催されています。〜 コルトー胸像の説明版より。
 国清山展望公園からの川棚温泉遠望(厚島が見えます)
川棚のクスの森
(国指定天然記念物)
 『森』のように見える大楠
国指定天然記念物『川棚のクスの森』
大字川棚字踊場にあり、大正十一年、内務省告示により天然記念物に指定された。立石山(標高205m)の北麓の台地に生育し、高さ27m、幹周り11.2mは県下第一の大きさを誇る。樹勢は旺盛で、四方に伸びる枝は、東西58m、南北53mに広がり、枝張りの美しさは日本一とも言われる。また、他の二箇所の枝は垂れ下り、その一部が土中に埋もれ、ここより発根して再生している。一株から四方に伸びた枝は周囲を広く覆っているため、根元に目を向けてはじめて頭上にうっそうと茂る枝はすべてそこから伸びていることに気づき圧倒される。
 四方に伸びるみごとな枝張り
一株であることにもかかわらず、遠目には「森」のごとくみえるその姿からこの名は付けられた。このクスの根元には、戦国時代に陶氏の乱に倒された大内義隆公の後を追うように、この地で命尽きた愛馬雲雀毛が埋葬されたという伝承がある。そのためクスの森霊馬神・馬神とも呼ばれ、この名馬の霊を慰め鎮めるための供養が毎年行われている。下関市豊浦町〜現地説明版より
種田山頭火の句碑
山頭火の句碑
クスの森は、天を覆いつくすように枝を広げる一本のクスの巨樹で、まるで森のように見えることからこう呼ばれる。日本三大楠樹の一つで、樹齢約一千年といわれ、俳人・種田山頭火は昭和7年6月14日にこの地を訪れ、『大樟の枝から枝へ青あらし』、『注連を張られ樟の森という一樹』、『大樟の枝垂れて地にとゞく花』の三句を詠んでいる。下関市豊浦町
六月十四日 嚢中まさに一銭銅貨一つ、読書にも倦いたし、気分も落ちつかないので、楠の森見物に出かける、天然記念保護物に指定されてあるだけに、ずいぶんの老大樹である、根元に大内義隆の愛馬を埋葬したといふので、馬霊神ともいふ、ぢつと眺めていると尊敬と親愛とが湧いてくる。往復二里あまり、歩いてよかつた、気分が一新された、やつぱり私には、『歩くこと』が『救ひ』であるのだ。 〜 種田山頭火・著『行乞記(三)』より。
楠の森三句
 
  注連を張られ楠の森といふ一樹
  大楠の枝から枝へ青あらし  
  大楠の枝垂れて地にとゞく花
 
川棚クスの森付近の民家
 
小野小町の墓
川棚にも小野小町の墓があります。
小野小町のものとされる墓は、全国に11ヶ所ほどあるようです。そのうちの一つが、川棚中小野にあります。説明版につぎのようにあります。〜 絶世の美女であった小町は、小野氏一族の文才の血筋を受け若いころから和歌の世界で活躍しました。しかし、男たちの視線を一身に集めた麗しの歌人も、歳月とともに色あせてきました。もともと自尊心の強かった小町には耐えられないことでした。老いさらばえた姿を京の都にさらせまいと、小町は全国を点々と流浪しました。流浪を重ねた末の小町は、川棚に着きました。村人たちは、親切で温かでした。小町は愛用の銅鏡を片時も離さず、日ごと失われていく美貌に無常を感じながら、晩年をひっそり暮らしてこの地に果てたと伝えられています。 〜
小野小町の墓のある川棚中小野付近の農村風景
瓦そば
川棚温泉の名物瓦そば
川棚温泉の名物『瓦そば』は、明治10年(1877年)の西南の役で、熊本城を囲む薩軍の兵士が野戦の合間に瓦を用いて野草、肉などを焼いて食べたという古老の話にヒントを得て、開発されたものだそうです。茶そばに、牛肉、錦糸卵、海苔、もみじおろし、レモンなどがトッピングされ、つゆにつけて頂きます。
   レポート ・山頭火と川棚温泉 〜 行乞記より
あなたは累計
人目の訪問者です。
 

Copyright(C) WaShimo All Rights Reserved.