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川棚温泉 |
妙青寺山門 |
川棚温泉 山口県下関市街から北へ25km。下関、北九州の奥座敷とし栄え、親しまれている川棚温泉(山口県下関市豊浦町川棚)は、寿永2年(1183年)開湯の 800年以上の歴史を誇る温泉地で、歴代の毛利侯藩主の御殿湯として栄えました。種田山頭火やピアニストのアルフレッド・コルトーが愛したことで知られています。山頭火は、『行乞記(三)』の昭和7年5月25日に、『川棚は山裾に丘陵をめぐらして、私の最も好きな風景である。とにかく、私は死場所をこゝに、こしらへよう。』と書いています。 |
妙青寺 |
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雪舟の庭へ |
妙青寺(みょうせいじ) 応永23年(1416年)、長門国守護職に就いていた大内持盛によって創建され、国清寺といっていたが、1604年長府藩主の姉がここに葬られ、法名から妙青寺と改名されました。明治2年(1869年)まで長府毛利藩によって支配されていました。行基作と伝えられる観世音菩薩が本尊。本堂裏にある池を配した庭園は、室町時代に活躍した水墨画家で禅僧の雪舟により造られたものです。 |
雪舟の庭 |
川棚温泉の地がすっかり気にいった山頭火は、さっそく妙青寺に拝登し、お寺の土地借入と草庵建立を長老に懇願します。”私は私にふさはしくない、といふよりも不可能とされていた貯金”を始めるなどして、 100日近く川棚温泉に滞在します。しかし、”身許保証(土地借入、草庵建立について)には悩まされた、独身の風来坊には誰もが警戒の眼を離さない”。結局、土地借入に必要な当村在住の保証人二名をこしらえられず、8月27日川棚を退去することになります。 けふはおわかれのへちまがぶらり |
下関市川棚温泉交流センター 川棚の杜 |
川棚の森 美しい暮らしや伝統文化が息づく川棚温泉の風土を見直し、人と人との出会いの場の創出をコンセプトに誕生した交流スペースが『川棚の杜』です。斬新なフォルムの建物は、世界的に高い評価を受ける建築家・隈研吾氏の設計により、音楽ホールとミュージアム機能を併せ持っています。メインとなる大交流室(音楽ホール)は、川棚をこよなく愛したフランス人ピアニスト、アルフレッド・コルトーにちなんで『コルトーホール』と命名されおあり、地域の暮らしや文化を、生活用具などの展示を通して紹介する『下関市烏山民俗資料館』が併設されいるほか、周辺観光案内、まちづくり情報など、さまざまな情報や出会いの機会を発信する『観光交流センター』となっています。 |
川棚の杜 |
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国清山展望公園からの川棚温泉遠望(厚島が見えます) |
川棚のクスの森 (国指定天然記念物) |
『森』のように見える大楠 |
国指定天然記念物『川棚のクスの森』 |
大字川棚字踊場にあり、大正十一年、内務省告示により天然記念物に指定された。立石山(標高205m)の北麓の台地に生育し、高さ27m、幹周り11.2mは県下第一の大きさを誇る。樹勢は旺盛で、四方に伸びる枝は、東西58m、南北53mに広がり、枝張りの美しさは日本一とも言われる。また、他の二箇所の枝は垂れ下り、その一部が土中に埋もれ、ここより発根して再生している。一株から四方に伸びた枝は周囲を広く覆っているため、根元に目を向けてはじめて頭上にうっそうと茂る枝はすべてそこから伸びていることに気づき圧倒される。 |
四方に伸びるみごとな枝張り |
一株であることにもかかわらず、遠目には「森」のごとくみえるその姿からこの名は付けられた。このクスの根元には、戦国時代に陶氏の乱に倒された大内義隆公の後を追うように、この地で命尽きた愛馬雲雀毛が埋葬されたという伝承がある。そのためクスの森霊馬神・馬神とも呼ばれ、この名馬の霊を慰め鎮めるための供養が毎年行われている。下関市豊浦町〜現地説明版より |
種田山頭火の句碑 |
山頭火の句碑 |
クスの森は、天を覆いつくすように枝を広げる一本のクスの巨樹で、まるで森のように見えることからこう呼ばれる。日本三大楠樹の一つで、樹齢約一千年といわれ、俳人・種田山頭火は昭和7年6月14日にこの地を訪れ、『大樟の枝から枝へ青あらし』、『注連を張られ樟の森という一樹』、『大樟の枝垂れて地にとゞく花』の三句を詠んでいる。下関市豊浦町 |
六月十四日 嚢中まさに一銭銅貨一つ、読書にも倦いたし、気分も落ちつかないので、楠の森見物に出かける、天然記念保護物に指定されてあるだけに、ずいぶんの老大樹である、根元に大内義隆の愛馬を埋葬したといふので、馬霊神ともいふ、ぢつと眺めていると尊敬と親愛とが湧いてくる。往復二里あまり、歩いてよかつた、気分が一新された、やつぱり私には、『歩くこと』が『救ひ』であるのだ。 〜 種田山頭火・著『行乞記(三)』より。 |
楠の森三句 注連を張られ楠の森といふ一樹 大楠の枝から枝へ青あらし 大楠の枝垂れて地にとゞく花 |
川棚クスの森付近の民家 |
小野小町の墓 |
川棚にも小野小町の墓があります。 |
小野小町のものとされる墓は、全国に11ヶ所ほどあるようです。そのうちの一つが、川棚中小野にあります。説明版につぎのようにあります。〜 絶世の美女であった小町は、小野氏一族の文才の血筋を受け若いころから和歌の世界で活躍しました。しかし、男たちの視線を一身に集めた麗しの歌人も、歳月とともに色あせてきました。もともと自尊心の強かった小町には耐えられないことでした。老いさらばえた姿を京の都にさらせまいと、小町は全国を点々と流浪しました。流浪を重ねた末の小町は、川棚に着きました。村人たちは、親切で温かでした。小町は愛用の銅鏡を片時も離さず、日ごと失われていく美貌に無常を感じながら、晩年をひっそり暮らしてこの地に果てたと伝えられています。 〜 |
小野小町の墓のある川棚中小野付近の農村風景 |
瓦そば | ||
川棚温泉の名物瓦そば | ||
川棚温泉の名物『瓦そば』は、明治10年(1877年)の西南の役で、熊本城を囲む薩軍の兵士が野戦の合間に瓦を用いて野草、肉などを焼いて食べたという古老の話にヒントを得て、開発されたものだそうです。茶そばに、牛肉、錦糸卵、海苔、もみじおろし、レモンなどがトッピングされ、つゆにつけて頂きます。 | ||
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