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ひとり 〜ショートバージョン
須釜俊一のウェブページ
山ヶ野金山(1)〜 山ヶ野 − 鹿児島県
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鹿児島県さつま町永野(ながの)と霧島市横川町山ヶ野にまたがる山間一帯は、寛永17年(1640年)に金山が発見され、江戸時代、佐渡と並んで日本を代表する金山の一つで、昭和32年(1957年)の閉山までの300年余りに渡って、金の採掘が行われた山ヶ野(やまがの)金山のあったところです(More ⇒)。 昭和の閉山の後、急速な人口流出によって、金山跡は、草や雑木に埋もれていましたが、近年、旧横川町や地域の人たちなどによって、史跡の発掘や保存が続けられてきました。その結果、古文書等の歴史資料を裏付けるような数々の史跡が姿を現してきました。県内の人々にもあまり知られていない山ヶ野金山の史跡を取材しました。三回にわたってレポートします。                  (旅した日 2007年04月)


金山奉行所跡
明暦2年(1656年)に、13年振りに採掘が再開されると永野より山ヶ野へ中心が移り、金山奉行が開設されました。役所や運上(税金)、お成敗(法令)等の体制が整い、鉱山所15箇所、山ヶ野金山町33町が定められました。
奉行所跡も石垣だけが残る状態でしたが、最近屋根門や竹囲いが作られました。写真の道を登った突き当たりの左に山先役宅跡があります。

山先役宅跡
奉行所跡のすぐ近くにある山先役宅跡。山先役は、いわば庄屋のように村の民と役人との仲を取り次いだ役だったと思われています。

御座所(御仮屋)跡
島津藩主が来山の時、御座所となったところ。御座所の床は石で囲まれて、賊の侵入を防いだという。明治期までは、立派な正門と黒塗りの西門が残っており、西門は藩主来山の時だけ開けたという。現公民館のイヌマキの大木のところが庭園であったといい、この木が当時の名残である。この下の地域は御座下といわれており、商店が軒をつらね賑わったところである。

集落の風景
御座所に向かう道。桜が咲き、大きな樅の木のある場所が御座所のあったところ。現在、『山ヶ野ふれあい館』になっていて、当時の写真などをみることができます。ふれあい館の前を右折してすぐのところに金山奉行所跡があります。
集落の道の分岐点には、写真のような標識があちこちに立てられています。
集落は自然の玉石を積んだ石垣で屋敷が造られています。上の写真の道の十字路の角に、恵比寿堂(写真下)があります。


由来の場所々


           田町遊郭跡

門司と長崎についで出来た遊郭で、九州三大遊郭といわれた。延宝七年(1679年)藤本箕山の著した日本色道大鑑には、その内容と絵図面が出ており、総囲いの中に六軒の遊女屋がある。

そして、その遊女屋の屋号も記されている。入口と出口は天神集落(その頃は大黒町といった)の方にあった。寛文年間(1661年)の頃出来たと思われるが、
永くは続かなかったらしい。今は、明治に建てたらしい墓石型の稲荷様が残っているのみで、一面の田んぼである。なお、藤本箕山本人も来山しているという。


            米蔵跡

山ヶ野では、蔵屋敷とよばれていた。金山に働くものは、農業を禁止されていたので、採金をして役所で米と交換していた。その米を収納する米蔵のあったところである。金山中の人口を賄う米だからいくつもの蔵が並んでいたものと思われる。大口(地名)方面からひっきりなしに馬で米が運び込まれていた
      
         

        青化製錬所跡

フランス人鉱山技師ポール・オジェが初めて山ヶ野金山に来た時、濁って流れる川を見て「あ、金はみんな流れている」と言ったという。谷頭に洋式製錬所が出来た時、同時に此処に出来、青化製錬を行なった。普通一本杉青化製錬所と言った。谷頭の工場から板枠の溝を作り此処迄金泥を運んだのである。採金後の滓(かす)泥は川向かいに山の様に積まれていたが、整理されて今は田圃になっている。


      ポール・オジェ居住地跡


フランス人鉱山技師ポール・オジェが初めて山ヶ野金山に招かれ来たのは、明治10年(1877年)西南の役直後だった。米一石、3円 36銭の時、彼の月俸は 700円だったという。

彼は、昔ながらのやり方を改め
、鉱山鉱脈測量図の作成、蒸気式タービンによる搗鉱(とうこう)場設置、川下に青化製錬所の設置など諸改革を行なった。

しかし、今までのやり方を唯一のものとした地元の役人たちは、彼の作業を喜ばず、命令に従わないことがあったようである。また、山ヶ野が地理的に不便なため、
石炭の供給がうまくいかなかったようである。そして、彼は明治13年(1879年)に山ヶ野を去った

彼の植えたアカシヤの木が近くにあったと伝えられるし、また通訳の人や身のまわりの世話をする人もいたと、山ヶ野の古老は伝えている。



        刑所(牢屋)跡


金山で罪をおかした者が囚えられていた牢屋のあった処。元禄時代(1688年)、江戸の文人都の錦(宍戸鉄舟)も入れられていた。彼は金山とは関係なかったが、江戸で無宿浪人として捕らえられ薩摩に流されたのだが、他に適当な牢屋がなかったので、此処につれて来られたのであろう。彼の此処から出した牢訴状は当時有名になった。
火入坑跡
この坑はいつ開坑されたかわからないが、金山開発の早い時期に出来たものと思われる。堅い岩盤は火を焚いて岩をもろくして堀り進んだというので、この名が付いたのだろう。入口を入って直行すると竪坑があり、永野からの大坑道に通ずる。この上の山が仁田山といい、この辺一帯が一番金を多く産出したところである。仁田山には無数の竪坑があり、大方はこの火入れ坑に通じている。また、もっとも古いと思われる横坑道もある。
谷頭搗鉱所跡
島津忠義は、鉱業の振興を図るため明治10年(1877年)フランスの鉱山技師ポール・オジェを招き、この場所に製錬所を設置した。動力は蒸気機関で、昼夜搗鉱(とうこう)精錬作業が行われた。だが、いろいろ問題がおこり思わしくいかず、明治13年ポール・オジェは、当山を去ることになる。以後、従来の方法により島津直営の作業が行われた。明治40年(1907年)永野に電力よる一大製錬所が完成、運転開始とともに、この製錬所は操業を停止した。
居住屋敷跡の石垣
山ヶ野金山地区の屋敷や家並みは肩を寄せ合うようの建てられている。限られた地域に多くの家が建てられたことを物語っている。山裾を登るにつれ、山の斜面地にもひしめくように住居があった。谷頭地域一帯はその名残がうかがえ、坂道の石垣は往時の往来の賑わいを語ってくれる。竹林の中の屋敷石垣(写真)等は金山盛時の家構えをしのばせる。
自稼堀坑跡
明暦2年(1656年)、金山が再開されてしばらくは露天掘りであったが、丁場せりで鉱石を採り尽くした跡は坑内採掘(金堀り)へ移る。それは、大正14年(1925年)に自稼請負業が廃止になるまで約250年間、この大きさの規模の坑口で鉱脈だけをえぐって採るすかし掘り、いわゆるたぬき堀りが続いた。だから、運搬、排水、通風に苦労した。古文書によれば、間歩(坑口)に間歩頭一人、金堀り十人の稼業単位をあげているが、これは明治の自稼全盛の稼業単位と似ているので、250年古法を継承したことになる。
石臼
自稼堀の人たちは、掘り出した鉱石を叩き砕いて小さくし、それをさらに石臼(いしうす)で挽(ひ)いて砂状にし、揺り鉢にかけ金を選鉱した。これに使われたのが挽き臼である。今も、各家に多く残っているのは挽き臼で、山ヶ野の歴史を語貴重な文化財である。
湊町千軒跡
湊町出身の坑夫の住居がたくさん並んで建てられていたところでしょうか。盛時の賑わいが想像される名前です。


金山口屋(関所)跡
『金山萬覚』(古文書)に、長野より二里七丁(約8.7km)柵を結ぶとあるので、開発と同時に設けられたものと思われる。山ヶ野東西二ケ所、長野一ケ所とある。東の方は番所といって今も地名で残っている。無手形の者の入山、金の密売、キリシタン等を厳しく取り締まった。現県道に通ずる道は、明治期に谷頭に精錬所が出来る時、機械を運ぶために作られたのでシンミチ(新道)という。下に続く道を口屋道といった。
山ヶ野集落全景
 当時の写真を見る。
【参考および参考文献】
(1)本ページの説明文は、現地に立ててある山ヶ野区会の案内板の文章、現地で頂いた『山ヶ野金山史跡めぐり』の
   パンフレットの文章を参考、あるいは転載させて頂きました。
(2)また、下記の書籍を参考にしました。
  ・石川哲氏の著書『山ヶ野金山のすべて』(高城書房出版、1990年4月初版)
  ・寺本清・田山修三編著『近代の歴史遺産を活かした小学校社会科授業』(明治図書、2006年12月初版)


 レポート ・山ヶ野金山
 旅行記  ・山ヶ野金山(1) 山ヶ野  (2)夢想谷  (3)永野金山跡
 旅行記  ・築後百年の木造駅舎(1)〜大隅横川駅

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