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気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

日蓮・日興の真蹟から根拠を示すことのできない、創価・大石寺系信者たち。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて創価学会大石寺系教団の原理主義的な信者さんと話していると、支離滅裂な回答をしてくることがあります。
こちらはあくまで創価学会日蓮正宗顕正会等は「日蓮〜日興」系の門流の教派と考えています(これは私見なのではなく歴史的な事実です)。ですからこちらからはあくまで「日蓮や日興の信用し得る文献から根拠を示すこと」「または法華経そのものから根拠を示すこと」を求めて質問をします。
ところが彼らはこちらの言ったことが理解できずに、あろうことか日蓮でも日興でも何でもない、後世の釈を示し出すのです。例えば創価学会信者さんなら「池田大作先生はこう言われている」とか「『新・人間革命』にはこう書かれている」等、何一つ日蓮真蹟遺文から説明できないありさまです。たまに日蓮御書を引用したと思ったら『生死一大事血脈抄』や『御義口伝』等、後世の偽作の可能性が非常に高い遺文ばかり示し出すのです。そのことを指摘させて頂くと彼らは急に逆上し、怒り狂ってこちらを口汚く罵り始め、「お前は増上慢だ」とか「貴方は二乗の知識で教えを貶めている」等、訳のわからないことを言い出す始末。とても宗教者とは思えません。そもそも法華経という経典は二乗成仏を明かした経典ではなかったのでしょうか? そんな基本的なことさえ彼らは理解しようとしないのです。
 
「『御義口伝』における『科註』の『補註』への改竄」
 
「『御義口伝』が偽書である理由を列挙してみる」
 
「『生死一大事血脈抄』は後世の偽作である」
 
 
日蓮正宗信者もそんな人ばかりです。信用し得る日蓮真蹟や日興真蹟から引用して回答してくださいと述べているのに、突然「『百六箇種脱對見拝述記』を読まなければわからない」などと言い出す始末。同書は大石寺67世阿部日顕氏の著作に過ぎません。日蓮や日興の真蹟を示すように再三再四指摘しても彼らは「御法主上人猊下に信伏随従することでしか血脈の深義はわからないのだ」等、何も答えられなかったのは自分の方なのに、全部誤魔化して他者を卑下して上から目線でこちらを中傷することしかできないありさまです。
 
「批判を受容する人、受容できない人」
 
そもそも日蓮の『撰時抄』(真蹟現存)では天台智顗や伝教最澄の言葉が引用され伝教大師云く「仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ」等云云、此等の経論釈のごときんば夢を本にはすべからずただついさして法華経大日経との勝劣を分明に説きたらん経論の文こそたいせちに候はめ」と述べており、経論の文から根拠を示すことを日蓮は強調しているのです。
 
「文証がない教説は否定されるべきとするのが日蓮の思想である」
 
つまり彼ら創価学会日蓮正宗の信者たちは自分たちの教えが絶対であることを最初から刷り込まれている故に、根拠を示されてそれが否定されると何も言い返すことができず、逆上してしまうのでしょう。それなら彼らの教えは日蓮や日興の教えなどとは呼ばれない筈なのですが……彼らはそんなことさえ理解できず、多くが狂ったように「増上慢」や「二乗」、「破和合僧」などと他者にレッテルを貼って罵ることしかできなくなってしまいます。
確かにそうではなく、私の批判を素直に受け止める真摯な信者も一部いることは、私も理解しているつもりです。しかし回答不能になり、口汚く罵ることばかり繰り返す原理主義者が後を絶たないからこそ、創価大石寺系教団の社会的評価が下がるだけなのだということをもう少し彼らは自覚した方が良いように思います。
 
 

 

 

 

師匠が地獄に落ちれば、弟子も地獄に行くという発想。

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて今回は「師匠が地獄に落ちようと、師匠のそばに行く」という池田大作氏のかつての指導についてです。
これは池田大作の『指導メモ』(聖教新聞社、昭和41年)に載っていた、かつての指導です。
 
「私は戸田会長と十年間、師弟の道を歩んできた。たとえ師匠が地獄に落ちようと、師匠のそばへ行くと決めていた。それを自分の人生と決め、だまされても、師匠と一緒なら、それでいい。これが師弟相対と決めていた。」
池田大作『指導メモ』185ページ、聖教新聞社、昭和41年)

 
確かにはっきりと書かれています。創価学会は三代会長の師弟関係を強調する宗派ですから、これらを会長が殊更に強調して指導するのもわからなくはありません。
しかし果たしてこれは仏教の思想、日蓮の教えなのでしょうか。
そもそも『大パーリ・ニッバーナ経』で釈迦は自身が教団の指導者であることさえ否定し、教師が特定の弟子たちに残しておく秘密や秘伝のような「握拳は存在しない」とするのです。釈迦の最後の遺言は「自身を島とすること」なのであり、釈迦は誰にも等しく法を説いたのです。
 
「釈迦は誰にでも等しく法を説いた。そして自身が教主たることを否定した。」
 
そもそも池田大作氏の述べる「師匠が地獄に落ちようと、弟子の自分もそばへいくと決めていた」というこの発言は、昭和52年路線の際、大石寺66世・細井日達および大石寺宗門側から批判され、一度創価学会側は「誤解を招きやすい」という理由で公式に取り下げています。
 
「「師が地獄に行けば弟子も地獄に行く」といったことについては、同志間の強い絆 苦悩の共有ということを強調しただけで、教義上の意義で用いたわけではないが、正宗では即身成仏であり、誤解を招きやすいので、今後使わない。」
法華講衆有志編『蓮華八十七号の正しい読み方資料』247ページ、日蓮正宗法華講、昭和53年)

 
宗門側の質問は昭和53年6月19日に創価学会側へ送付されたもので、同年6月29日に回答が宗門側に届いています。この中で創価学会側は「同志間の強い絆、苦悩の共有ということを強調しただけ」であり「教義上の意義で用いたわけではない」としています。
ではこの思想が創価学会の「教義ではない」として、どのような発想によるものなのでしょう。それは日蓮や日興の思想に見られるものなのでしょうか。
 
例えば日興の『佐渡国法花講衆御返事』(真蹟:北山本門寺現存)では次のような部分があります。一部仮名遣いを漢字に改めて読みやすく引用してみたいと思います。
 
「なをなをこの法門は師弟子をただして仏になり候。師弟子だにも違い候へば同じ法華を持ち参らせて候へども無間地獄に落ち候なり」
(日興『佐渡国法花講衆御返事』、『日興上人全集』222ページ、興風談所、平成8年)

 
ここで日興は師と弟子が「師弟子をただして仏になり候」「師弟子だにも違い候へば……無間地獄におち候也」と述べています。なおこの書状でも日興は「本弟子六人を定め置かれて候」と述べていまして、日蓮の弟子は「六人」であると日興本人が認めています。
ここには法華経を持つといえども、地獄に落ちることがあるとし、地獄に落ちることがないように日興が信徒たちに戒めを述べているところです。どこにも「師匠と一緒に地獄へ行こう」という発想は見られません。
 
では師匠の日蓮はどうなのでしょうか。日蓮の『崇峻天皇御書』(真蹟:身延曽存)から引用してみましょう。
 
「返す返す今に忘れぬ事は頸切れんとせし時殿はともして馬の口に付きて・なきかなしみ給いしをば・いかなる世にか忘れなん、設い殿の罪ふかくして地獄に入り給はば日蓮を・いかに仏になれと釈迦仏こしら(誘)へさせ給うとも用ひまいらせ候べからず同じく地獄なるべし」
日蓮崇峻天皇御書』、創価学会旧版御書全集1173ページ)

 
ここでは龍ノ口で日蓮が首を切られそうになった時、四条金吾が馬の口について泣き悲しんだことに、日蓮が「決して忘れない」と感謝をしている部分です。日蓮は「たとえ殿の罪が深くて地獄に落ちたとして、たとえ釈迦仏が私を誘おうとも私は従わずに貴方と同じ地獄に入ろう」と述べています。
読んですぐおわかりのことと思いますが、これは池田大作氏の述べたことと逆で、「師匠が地獄に落ちても弟子は一緒に落ちる」のではなく「弟子が地獄に落ちることがあるなら、私も一緒に行ってあげよう」と述べているのです。ここに見られるのは弟子の思いに師匠が応え、弟子を救おうとする師匠・日蓮の姿です。
 
さて仏教の他の宗派で「師匠が地獄に落ちようと、弟子はそばにいく」とする考えが果たしてあるのでしょうか。
それは浄土真宗親鸞になります。彼の『歎異抄』から見てみましょう。
 
「たとひ法然上人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」
親鸞歎異抄』金子大栄校注、43ページ、岩波文庫、1931年)

 
親鸞は「師匠の法然に騙されて地獄に落ちても後悔しない」と述べています。池田大作氏が述べた文意に一番近いのは、この親鸞の考えでしょう。師匠の法然にたとえ騙されて地獄に落ちても構わないとする親鸞の師匠への思いは、池田大作戸田城聖への思いを述べた部分に近いと私は思います。事実、池田大作氏は『指導メモ』で「だまされても、師匠と一緒なら、それでいい」とまで述べているのですから。
 
結論として「師匠が地獄に落ちようと、弟子も一緒に行く」「騙されても師匠と一緒ならそれでいい」とする池田大作の考え方は、日蓮や日興の考え方というより親鸞の思考に近いもので、特に裏付けのある教義を述べたものではなく、心情的なあり方を述べたに過ぎないと言うことになるでしょう。
 
 
 
 
 

 

教学は学問として大成されたのか。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて私は小難しい教学に関する記事をブログ中で取り上げることが多いのですが、その背景にあるのは自身が広宣部あがりの元創価の活動家だったという点が大きいのです。
他宗派対策、特に妙観講顕正会対策をしていた関係上、創価大石寺系教団の欺瞞を知ってしまったことは私が非活から退会を選択した、一つのきっかけだったのです。
 
私が活動家時代になぜそんなに無心に教学の研鑽をしてしまったのか、それは創価学会教団において、新しい教学の運動が起こると当時愚かにも私は信じ込んでいたのです。
例えば正本堂建立直後の昭和47年11月2日、日本武道館で行われた第35回本部幹部会で、池田大作氏は既に次のように語っています。
 
 
「そこで、これは提案になりますが、来年には「仏教大学講座」を創設したいのであります。その意図は、教学を学問的に勉強すること、および、そこで語学くらいは学んで、世界に雄飛する人材をつくるということであります。当初は全国に公募して五十人くらいに人数をしぼって発足させたい。具体的な方法等については、教学部の中に委員会をつくりまして、そこに一切を依頼いたします。
教学は、根本的には信・行のバックボーンであり、また、学会教学の従来の伝統はそこにあったし、今後も少しも変わりありません。同時に、その母体のうえに、そろそろ教学を学問として大成させる時期にもきているように私は思う。信・行のバックボーンとしての教学、そして教学の学問化、この二つを並行させながら冥合させていくことが、創価教学の今後の方針と考えたい。
池田大作「21世紀開く精神の復興運動を」昭和47年11月2日、池田大作『池田会長講演集』第4巻、63〜64ページ、昭和48年、聖教新聞社

創価学会の昭和48年の活動テーマは「教学の年」でした。同講演中で池田大作氏は「昭和48年が教学の年でありますが、これは明年一年で終わるものではなく、1979年までの七年間は、その全体が「教学の年」であるという決意で臨んでまいりたい」(同63ページ)とさえ発言しています。
では池田大作氏の言うように1973年〜1979年(昭和48年〜54年)の間に「教学を学問的に勉強する」信徒の教化育成は進んだのでしょうか。
 
結果的に進んだことは、昭和52年路線の到来、虚偽で固めた大石寺教学の在家主義的な拡大解釈、創価学会の会館を寺院としてみなす態度、在家主義的な血脈観、三代会長の神格化等、単に日寛教学を拡大解釈して現代的に敷衍して換言するだけの教学観でしかありませんでした。何ら学問的な教学の研究態度など信徒の中には醸成されなかったのです。
 
 
「昭和52年路線の転轍」
 
「昭和52年路線の背景を考える」
 
「昭和51年当時の原田稔氏の師弟観」
 
「昭和54年の会長辞任の責任」
 
この在家主義的な教学解釈の態度(いわゆる52年路線)は、池田大作氏がその責任を認めて公式に謝罪し、会長を辞任したことで終了しました。
そして平成3年以降、第2次宗創紛争後、大石寺宗門と創価学会の分裂が決定的になって以降、創価学会は「創価ルネサンス」と言うことを言い始めます。
 
「訳のわからない創価ルネサンス
 
私は活動家時代、広宣部として活動する中、「創価ルネサンス」と言うべき教学運動が新しく起こると当時愚かにも考えていました。結局それらは当時の私の浅はかな幻想に過ぎなかったのですが、活動家として「ルネサンス=文芸復興」とも言うべき教学の新しい潮流が起こると私は本気で考えていたのです。
ところが、この頃から教学を語れなくなる創価学会信徒が増えました。御書もろくに読まず、教学試験の内容も減り、マークシート方式になりました。青年教学1級試験にあった2次面接もなくなり、御書どころか日寛の六巻抄や堀日亨の富士宗学要集も絶版となって全く読まれなくなりました。
 
 
結局、1973年から言ってきた池田大作氏の「教学の学問的研究」や「教学を学問的に大成させる」「大教学運動」と言ったものは、単なる偽善でしかなかったと私は思います。今の創価学会信徒さんの多くは日蓮遺文の真蹟の問題さえ知らず、真蹟不存の偽書ばかりを読んでは、仏教でも何でもないウパニシャッド思想的「生命論」ばかりを述べることしかできなくなってしまったのです。
 
 
 
 
 

 

日蓮遺文に根拠がない「福運」。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて以前、私は、創価学会という教団内で多用される「福運」という語が、日蓮遺文や経典からその根拠が全く見出されないことを述べました。
 
「「福運」について」
 
「福運の用例も出典もわからない」
 
 
日蓮遺文に全く見出されない「福運」の語ですが、それにもかかわらず創価学会では多用され指導の折に用いられます。
確かに教団がどんな教義を使おうが自由なのですが、それがあたかも仏教由来の語であるかのように信じ込まされ、「福運」が普通に信徒間の会話や指導で用いられているのは奇妙なことであると私は思います。
 
この「福運」という語、日蓮遺文に用例は全くありません。仏典にも用いられません。事実Web版新纂浄土宗大辞典にも「福運」という項目さえ存在しません。それなのに戸田城聖会長時代から池田大作の時代にまで普通に多用されます。しかも創価学会は教義がどんどん変わるにもかかわらず、なぜかこの「福運」だけは現在でも普通に用いられているのです。
 
例えば昭和40年代でももう普通に池田大作氏は指導で「福運」の語を用いていました。
 
「福運は幸福になっていくべき源泉です。いくら、お金をためようとしても、福運のない人はすぐなくなってしまうものです。
福運のある人は、しぜんに、心も豊かに、生活も豊かになっていくものです。この世で、いま福運を積んでいける道は、妙法の信心しか絶対にありません。
現在福運のある人でも、妙法に反対すれば、そのときから、福運は消えてしまうものです。
一般的に、福運のある人でも、このように乱れた社会では、福運は、どんどん消えるばかりで、積んでいくことはできないのです。」
池田大作『指導集』189〜190ページ、聖教新聞社、昭和42年)

 
冗長になるので途中で切りますが、気になる方は画像で続きをご覧ください。読んでおわかりかと思いますが、ここには根拠とすべき日蓮の御書など一つも引用されていません。日蓮遺文に存在しない語ですからできないのが当たり前なのですが、池田氏自ら何ら仏典に依拠した語でないことを露呈してしまっているのです。つまり「福運」という語は日蓮の教義ではなく、単に教団内で多用されて常習化された言葉に過ぎず、それをあたかも普遍的な仏教用語であるかのように教団・信徒内の指導や会話で使っているだけのことなのです。
この語は池田大作が後年になっても用いられますし、現在の創価学会信者さんの間でも普通に会話に使われると思います。実際本部幹部会のスピーチでも「頑張っている人を、たたえればたたえるほど、自身にも組織にも「福運」と「勢い」がつく。」(第68回本部幹部会・池田大作スピーチ、1993年7月7日、『池田大作全集』第83巻65ページ)と言われています。また『新・人間革命』でも使われていた筈ですし、今の組織内でも信徒間で話される意味とさして変わらないと思います。
 
この語、由来はわからないのですが、戸田城聖も用いていました。戸田城聖著の小説『人間革命』ではそのままの「福運」という章があり、戸田城聖役の主人公「巌さん」がセリフ中で普通に使っています。
 
「『福運』がきた! 福運がきたよ! いよいよ、あなたも一人前になる。これを冥益というんだ。妙楽の……末法の初め冥利なきにあらず……という言葉を、よくよく味わいたまえ、はッ! はッ! はッ! これは愉快だ!』」
戸田城聖[妙悟空]『人間革命』197ページ、精文館書店、昭和32年

 
ここでも「福運」の語の由来は何ら仏典から示されていません。
戸田城聖の『人間革命』の出版は昭和32年(1957年)です。つまり戸田城聖の時代から創価学会信者は「福運」の語を何の根拠もなく仏教由来の教義と信じ込まされており、その説明も日蓮遺文からの引用も何も知らされないまま今日まで続いているのが実態なのでしょう。
不思議なことですが、この「福運」の語、現在の日蓮正宗の一部の法華講信者の間でも用いられているようです。これは現在の法華講信者に創価学会退会者が少なからずいまして、彼らの使っていた「福運」という言葉が信徒間に飛び火して逆輸入されたのかと個人的に推測しています。いずれにせよ日蓮遺文には存在しない語に過ぎません。
 
 
 
追記
ちなみに顕正会の前身、妙信講の講頭・浅井甚兵衛氏も昭和40年の正本堂建立供養に際して「我が身の福運」と言っていました。
 
 
 
 

 

『御義口伝』は『注法華経』と併せて読まれなければならない。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて今回は創価学会信者さんの多くが好きな『御義口伝』についてです。
実は『御義口伝』が後世の偽作でしかないことは、このブログで度々指摘しています。
 
大石寺写本『御義口伝』の改竄」
 
「『御義口伝』における『科註』の『補註』への改竄」
 
「『御義口伝』が偽書である理由を列挙してみる」
 
「『御義口伝』の信憑性の低さ」
 
「『御義口伝』末文の削除」
 
「「弘安元年正月一日」という日付は存在しない」
 
「『御義口伝』から離れること」
 
「日興が残した写本に富士門流系の相伝書は一つも存在しない」
 
「八品派と細草檀林」
 
 
今回は上記記事の中で「『御義口伝』末文の削除」(https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2021/11/07/000000)で書いたことをもう少し詳しく書いてみようかと思います。
上記記事で書いたように創価学会版御書全集では『御義口伝』最後の末文が何の説明もなく改竄・削除されています。
『御義口伝』中「法とは上行所伝の題目なり」以下、創価学会が削除した部分を全文挙げて紹介してみます。ちなみに出典は浅井要麟編『日蓮聖人遺文全集』(平楽寺書店、1934年)より、2-2541〜2542ページです。ちなみに私が所有しているものは平成5年の第16刷になります。
 
「六老僧の所望に依て老後たりと雖も、日蓮が本意の一端、講談せしめ畢んぬ。是れ併しながら私集最要文を読誦せしむる所なり。然る間法華一部の諸要文尽く付し畢んぬ。此の意は或は文を隠して義を取り、或は義を隠して文を取り、或は文義共に顕し、或は文義共に隠して講談するなり。委しくは注法華経を見らる可きなり。然りと雖も文義甚だ深遠なる間、愚昧に及ぶ可からざるなり。広宣流布の要法豈に此の注法華経に過ぎんや。
御義口伝巻下畢
      日蓮 花押
 
本伝に云く、御義口伝と云ふ事、何れも高祖の御義なり。御流なる間、口伝と云ふなり。本末文師等の疏釈其の外見合せ、御義を以て法門を荘厳し奉る可きなり。初心の行者の及ぶ可からざる法門なり。此は注法華経を置かせ給ひて、六老僧の為に身延山に於て御談有るなり。此の已然甲州の日春日法の所望に依て御談有りき。提婆品の時、蛇来りて聴聞せり。八歳の龍女なりと仰せらる。此の書授与の末代の亀鏡は此の御法門なり。其の時の執筆日興なり云云。
弘安元年戊寅正月一日
      執筆日興 花押
      六老僧  花押」
 
(『御義口伝』より、浅井要麟編『日蓮聖人遺文全集』2-2541〜2542ページ、平楽寺書店、1934年)

 
いかがでしょうか? ここで強調されているのは、『御義口伝』があくまでも私集最要文たる『注法華経』の説明である(※注記1)と言う点です。つまりこの『御義口伝』を読むなら併せて『注法華経』を読まなければならないということになります。
事実、この文中にはきちんと『御義口伝』と併せて『注法華経』も読むべきであることが書かれています。具体的には委しくは注法華経を見らるべきなり」「広宣流布の要法豈に此の注法華経に過ぎんや」「此は注法華経を置かせ給ひて、六老僧の為に身延山に於て御談有るなりと明確に書かれているのです。
ではそれにもかかわらず、なぜ創価学会信者たちは何一つ『注法華経』を読みもせず、知りもせず、引用さえ何一つしないのでしょうか?
私はこういうところに、御書を大切にせず、偽書ばかりを扱っては遺文を都合良く改竄する、創価学会大石寺系信徒の悪質さが良く現れていると考えています。
 
※注記1
『注法華経』が日蓮の「私集最要文」であるということは、日蓮の遺言を記した日興による『宗祖御遷化記録』(日興真蹟)に明確に書かれています。きちんと『御遷化記録』には御遺言云」「私集最要文名注法華経と書いてあるのです。

 
「『御遷化記録』の遺言は釈迦立像と注法華経
 
 
 

 

日鎮の「付弟状」。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて今回は大石寺12世日鎮と13世日院との間の相承の時期についてです。
11世日底から12世日鎮への直接の血脈相承はなされておらず、隠居していた当時80歳の9世日有から当時13歳の少年・12世日鎮に相承がなされたことに関して、既にいくつかの記事に書いた通りです。
 
法主が生年不詳である」
 
「9世日有から日乗、日底、日鎮への相承」
 
また今回以下に書く、12世日鎮から13世日院への相承についても以前記事を一つ書いています。
 
大石寺13世・日院のこと」
 
実は上記記事「大石寺13世・日院のこと」で日鎮の『付弟状』を示して、日鎮から日院の相承が大永6年(1526年)9月5日のこと、つまり日院(良王)がわずか9歳の頃であることを紹介しました。この年が日院の相承の年であることは大石寺宗門も『富士年表』で公式に認めています。
ところが、この『付弟状』、よく読むと不思議なことがわかります。実は内容を読むと、これは日院個人に対する『付弟状』ではなく、「幼少の良王を疑うことなく後日成人の際に僧俗ともに敬意を払うよう」大石寺の檀家に宛てた書状なのです。
以下をよくお読みください。文末には明確に大石寺惣衆檀那御中」と書かれています。
 
良王殿の事幼少の御方に御座候、然りと雖も信心御志候て勢仁(成人)致され候はば当時の世間仏法とも御渡し本末の僧俗ども仰ぎ申さるべく候、仍て後日の為め件の如し
大永六年九月五日    日鎮 花押
大石寺惣衆檀那御中
(日鎮「付弟状」『日蓮正宗歴代法主全書』1-443ページ)

 
文末には明確に「大石寺惣衆檀那御中」と書かれていますし、またこの文中には一つも「付弟」の文字が書かれていません。つまりこの「付弟状」とされるこの文書の内容は、「付弟」ではなく、「大石寺檀那への書状」なのです。
では、日鎮から日院への「付弟」が示された文書は存在しないのでしょうか?
実はこの『付弟状』とは別に日鎮から日院に対して「付弟」が示された文書が存在します。
それは「與(与)大衆状」という文書です。この中で明確に日院に対して「付弟」するという文字が存在します。
 
「四国土佐幡多庄吉図書助高國之子息出家成され候。彼方を愚僧之付弟に申し候。此段僧俗共に御意得候て然可様に真俗御指南憑奉候。意得為一筆件如し。
永正十七年七月廿九日
日鎮 在判」
(日鎮「与大衆状」『日蓮正宗歴代法主全書』1-445ページ)

 
この文書は「与大衆状」という題が付けられていますが、宛名には「大石寺檀那」等と書かれていません。ただ「僧俗共に」と書かれているので、宗内僧俗全体に周知される内容であったことは推察されます。
内容は「四国土佐幡多庄吉図書之高國之子息」(日院のこと)「彼方」を「愚僧」(日鎮のこと)の「付弟に申し候」とする内容で、まさに付弟について明言した文書です。実際日院は土佐の出身です。
したがって日鎮が日院に「付弟」した年は「大永6年(1526年)9月5日」ではなく、その6年前の「永正17年(1520年)7月20日」が正しいことになります。
同じ人物に1520年と1526年の2回も「付弟」するのは不自然です。また「土佐幡多庄吉高國之子息」が「日院」と別人物とするなら、日鎮は日院に相承する6年前に既に別人物に一度相承をしたことになってしまいます。
ここまで読まれた賢明な読者の方ならおわかりかと思いますが、要するに「付弟状」と「与大衆状」の内容と題名が逆になっているのです。「付弟状」と現在されているものこそ内容的には実は「与大衆状」で、「与大衆状」とされているものが実は内容として「付弟状」なのです。
 
この誤読が大石寺宗門ではそのままにされていまして、『富士年表』でも日鎮から日院への相承は「大永6年」とされ、「永正17年」に血脈相承があったとはされていません。

ではなぜ大石寺宗門ではこの誤りを一つも訂正していないのでしょう。理由を考えると以下のように推察されます。
 
1、単純に大石寺が両文書を間違えて「付弟状」と「与大衆状」を逆としたまま、気づいていない。あるいは現在の題名が正しいと本気で考えている。
 
2、「与大衆状」を本当の「付弟状」と仮定すると、13世日院(1518〜1589)はわずか2歳(数え年で3歳)の時に血脈相承を授けられたことになってしまう。そのことを隠蔽するためにわざと両文書を逆にし、相承が1527年、日院が9歳の時に血脈相承を授けられたとして史実を改竄した。
 
 
 

 

法主が生年不詳である。

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて大石寺法主の血脈相承というものは既に複数回に渡って途切れており、そもそもきちんと伝えられた根拠が幾世にも渡って存在しないのです。
 
「相承の断絶」
 
しかもその根拠がないことを指摘されても、何も信徒は答えられないありさまです。
どれほど酷い相承のありさまなのかは、既にブログで何度か書いたところです。
 
「相承の断絶」
 
 
抑も大石寺3祖日目から4世日道への相承の証拠さえ存在しません。
 
「日目から日道への相伝はなかった」
 
さらに驚くべきことですが、大石寺4世日道から相承された筈の5世日行なのですが、法主でありながら生年が未詳なのです。
しかも驚くべきことに大石寺法主(管長)でありながら生年未詳、素性のわからない法主はこの日行だけではありません。
 
5世日行(?〜1369)
6世日時(?〜1406)
7世日阿(?〜1407)
10世日乗(?〜1472)
11世日底(?〜1472)
 
なぜ法主にもなるほどの人物が生年未詳で、大石寺文書にも末寺等の文書に記録が残されていないのでしょう。不可解という他ありません。
加えて10世日乗が亡くなるのは1472年12月20日のことです。そして11世の日底が亡くなるのは1472年5月14日です。つまり後代の11世日底の方が10世日乗より先に亡くなっているのです。
10世日乗から11世日底へ血脈相承がなされたのが大石寺『富士年表』では「1470年(文明2年)」とされていますが、その根拠としては「石文」(大石寺文書)にあるとしながら、出典やページ数等は具体的に何一つ示されていません。つまり証拠が何もないのです。
当然ながら11世日底から12世日鎮への直接の血脈相承はなされていません。

12世日鎮への血脈相承について、大石寺では既に隠居していた9世日有(1402〜1482)が1482年(文明14年)に12世日鎮に相承したことになっています。しかしこれもまた大石寺『富士年表』では出典や記録が具体的に示されていません。

 
加えて大石寺『富士年表』の記録に依るなら9世日有(1402〜1482)は、1482年9月29日に亡くなります。そして12世日鎮(1469〜1527)は生年1469年(文明元年)です。つまり日有から日鎮への血脈相承は、日有の死の数週間前、80歳の日有から13歳の少年に対して行われたことになります。
そして11世日底は既に1472年に亡くなっていますから、1482年の80歳から13歳に血脈相承がなされるまで10年近く法主が不在だったということです。しかもその血脈相承を記録した証拠さえ何一つ具体的に示されていないのです。
 
不可解なことはまだ続きます。12世日鎮が亡くなるのは1527年(大永7年)ですが、これを受けて法主に登座した13世日院(1518〜1589)は、当時なんと9歳の少年・良王(日院)です。
同年1518年9月5日、12世日鎮の『付弟状』では実際に良王殿の事幼少の御方に御座候」と書かれてしまっています。
 
大石寺13世日院のこと」
 
そして日院も生年が「1518年」ということは記録で示されているのですが、誕生の日付が不明なのです。
つまり大石寺の血脈付法の上古の歴史は、証拠も何もない、記録も碌になされない、血脈相承があったのかさえ疑わしい、法主というべきものの生年さえわからない、そんな歴史が既に5世日行の頃から普通だったということになります。