アートで人を繋ぐテクノロジスト
サイエンスとテクノロジーを活用した、生命や自然を感じる没入型のデジタルアートによって、世界のさまざまな境界と障壁を破壊し続けているアート集団/アートコレクティヴ、チームラボ。その代表である猪子寿之は、数日後に公開を控えた新作の最終チェックのため、台場の体験型ミュージアム「チームラボボーダレス」に籠もっていた。
世界中のあらゆる場所でフィジカルな移動に制限を課した新型コロナウイルス感染症は、人々の生活様式を変え、心を豊かにするアート体験という悦びをも奪い去ろうとしていた。そうした状況に抗うがごとく、チームラボは、ステイホームが求められるときであっても誰もが自宅のテレビモニターでアートに参加し、世界中の人々と繋がることができる画期的なプロジェクト「Flowers Bombing Home」を開始した。
移動の制限がもたらした生活様式の変化に対するひとつの解を提示した猪子に、移動することの意味とその価値について話を訊いた。
「実は3月と4月は『Superblue Miami』という巨大なアートセンターのオープンのため、ずっと米国のマイアミにいたんです。向こうはワクチン接種も迅速に進んでいたし、かなり早い段階で“日常”に戻っていました。むしろタクシードライヴァーが、『人生でいちばんパーティーが多い』と言っていたくらい。でも東京では観客を入れられない状態が続いていて、もう祈るくらいしかできないよなって(笑)。だから、『祈り』展という誰も呼ばない無観客の展示を都内某所でやることにしたんです」
ミュージアムに行けないなら、いっそ「行かなくても楽しめるアート」で世界中の人たちと繋ろうと「Flowers Bombing Home」を立ち上げた一方で、人が自ら社会を壊すなら、もう祈るしかないという思いがあったと述懐する。
「奈良の大仏は、大勢が亡くなった天然痘の終息を願って造営されたと言われています。だからぼくらも、アートで炎を焚いて、お祈りをしようと。《The Eternal Universe of Words》では、弘法大師(空海)の書を手に入れて、その文字一つひとつを高野山の方々に訓(よ)んでもらいました」
世界のすべては、ボーダーレスに繋がっている
一般的なミュージアムとチームラボによる展示の最大の違い。それは、展示スペースでの“移動”が課された行為であるか、鑑賞と体験の一部であるかだ。これは猪子自身の世界観に起因している。
「ぼくは身体感覚をもって知覚することが、本物の知であり体験だと考えています。誰もテレビの旅番組を観て、世界を旅したとは言いませんよね。パリに行ったというのは、数日間、できることなら数カ月間を現地で過ごし、街を歩き、食事をし、生活することです。
知に身体感覚が不可欠であることは科学的にも証明されていて、記憶を司る海馬への信号は大脳からではなく、骨と膵臓から来るんだそうです。骨が動き、食事によって栄養を得たときに記憶される。動き、食べるという身体感覚によってしか記憶されないのだから、YouTubeなんか観ても何かが残るはずはない。頭脳では何も“知る”ことはできないんです」
「人は脳ではなく身体によって世界を認識する」という強い前提があるからこそ、チームラボの作品は体験型であり、没入型なのだ。そこでは目で見て耳で聴くだけでなく、手足を使って触れたり歩き回ったりする。骨が五感の刺激とともに作品を認識し、わたしたちは作品と自身が一体であることを実感できるボーダレスな空間にいることを知るのだ。
「近代のエンターテインメントにおいてわれわれは、経済効率性のために身体性を捨てざるを得なかった。映画のなかには観客の意思や身体が入り込む余地はなく、ただ感情のみを移入する。それに対して、ぼくの地元の徳島に阿波踊りという伝統行事がありますが、お祭りの期間は街全体がトランス状態。永遠に続く二拍子で楽器を弾いたり、踊ったり、身体を使って音を楽しむプリミティヴな音楽体験です」
「ぼくらは、作品を“観る”のではなく、入り込んで“体験”してほしいと思っています。地球上の多くの生命は、地球外から生命の源をもらって生きています。だから、宇宙から切り離されたら、地球は死んでしまいます。世界はすべて繋がっているのに、なぜ人はまるで自分と世界の間に“境界”があるように振る舞っているのだろうかと感じています」
猪子いわく、映画などの作品において“境界”を生み出しているのは、レンズなのだという。レンズで切り取られた世界は、画面の中と外とに分断されてしまっているというわけだ。
「どんな映画であろうと、レンズで撮った瞬間に“境界”が生まれます。それがレンズというものの特性だから。レンズによって視点は固定され、視点を固定するために人はイスに座って映像を観る必要がある。レンズがイスを呼び、身体性を捨てさせているんです。
そこでぼくらは、視点を固定せず、“境界”を生まない空間の切り取り方である『超主観空間』の作品をつくっています。これは、モチーフやクオリティなどを超越して、身体と作品との連続性を生み出すための論理構造。これによりチームラボの作品は観客の身体と連続し、身体が置かれた空間と作品空間が連続した関係にあると無意識に感じられるようになっているんです。その空間内では、みんなが歩きます。その世界を、身体を駆使して体験する。映像なのに歩きながら観て感じることができます。SNSに投稿するために、立ち止まってポーズをとる人はいますけどね(笑)。
身体は自由なんですよ。自由な身体によって世界を認識するために、“境界”の存在を感じない作品世界をつくりたかったんです」
世界を歩くことの幸せ、移ろうことの美しさ
オニツカタイガーの歴史は、「健全な身体に健全な精神あれかし」という哲学によって紡がれてきた。時代とライフスタイルの変化に合わせたファッション性と機能性を獲得し、いまに至る。
大地を掴んでフィジカルな移動を助け、身体を快適に保護すると同時に、身に着ける悦びすら与えるオニツカタイガーのシューズは、コロナ禍においても決して損なわれることのない“身体性”という人と世界との繋がりを、より確かに認識させてくれる存在だ。
「この世界を歩けること自体が、幸せじゃないですか。コンビニに行くとかモノを取りに行くとか、何か目的を果たすために歩かなければいけないなんて、つまらない。チームラボの作品は、地図を片手に『次はココに行ってみよう』という目的があって歩くような空間にはしたくない。それよりも、ただ歩いて感じることの素晴らしさを実感してほしい。
なにしろこの世界は、連続し、影響し合っているわけで。わざわざ何かを切り取って独立させて、“美”の対象にすることに意味はありません。連続し、繋がっていること自体が美しいと認識できる場、移り変わっていくことが美しいと感じられる場をつくっていけたらと。形あるものは必ず壊れ、移ろっていく。でも移ろうことは美しいんです。自分自身の身体で移動しながら、それを認識してもらえたらうれしいです」
なぜアートで表現し続けるのか。インタヴューの最後に、“テクノロジスト”である猪子の表現がアート作品である理由を尋ねた。
「この世界を知りたいんです。世界そのもの、人間にとって世界とは何か──究極的には、“美”とは何かという探求ですね。人間は美意識によって、行動を決めます。組織ではなく個人というものは、誰もが論理ではなく美意識で選んでいるんです。
これまで存在しなかった新しい“美”を創造することによって、美という概念を拡張する行為。それがアートです。アートによって美を拡張すれば、それぞれの美意識に基づく人の行動をも変えることができる。美とは何か、境界のない空間の切り取り方を追い求め、身体性を復活させたい。そんな想いが絡み合うことで、いまのような活動になっていますね。コンピューターやテクノロジーを手段としているのは、ただ身近にあって得意だったから。鉄やコンクリートで表現するよりも、自分にとって簡単だったからです(笑)」
[ オニツカタイガー ]