「外交文書でコメ交渉公開」 部分開放、ぎりぎりの妥結 元首相・細川護熙氏
「聖域」とされたコメ市場の一部開放を決めた1993年12月のウルグアイ・ラウンドの合意は、日本の農業政策の大きな転換点になった。当時、連立政権を率いて対応に当たった細川護熙元首相に、決断の経緯や背景について聞いた。
―連立政権でコメ交渉に取り組んだ。
「120カ国以上が参加した関税貿易一般協定(ガット)の多角的貿易交渉(ウルグアイ・ラウンド)では、『農産物の例外なき関税化』が話し合われた。日本では、コメは聖域だとして、国会で『一粒たりとも入れさせない』という決議がなされるなど、非常に厳しい状況だった」
「だが、世界で保護主義が台頭する中、自由貿易体制を維持し強化するためには、何としても成功させなければならなかった。日本の戦後復興は自由貿易の恩恵を受けてきたのだから、失敗は私の頭の中になかった。政権が倒れてもいいというくらいの思いだった」
―コメ交渉はまず日米で秘密合意を結んだ。
「市場開放を強硬に主張していた米国と先に水面下で合意し、それをガットによる調整案という形で示してもらった方が、国内の反対勢力を説得しやすいという判断だった。日米交渉は宮沢政権時の1993年7月ごろに本格化し、細川政権になって10月に東京で開かれた農相会談で、コメを関税化の例外とするが、ミニマムアクセス(最低輸入量)という形で部分開放を受け入れるという骨格が固まった」
―進め方に批判もあった。
「国際交渉は秘密裏に行うのが鉄則だ。そうしないと話が瓦解(がかい)してしまう。だから、合意後にできる限りの説明をして、国民の理解を得ることを基本方針とした」
―連立与党では社会党がコメ開放に反対した。
「与党第1党で、6人の閣僚を出していた社会党が強く反対していた。12月13日になり日本の回答期限が迫る中、反対する閣僚を罷免して強行突破を図るか、内閣不信任決議案が可決されたら総辞職か衆院解散をするか、または私自身が社会党本部に行って、当時の村山富市委員長と直談判するかという、ぎりぎりの判断をする寸前だった。連立を組む新生党の小沢一郎代表幹事らとそうした相談もしていた」
「しかし、14日未明になって、社会党が最終的に『調整案には反対だが、決定を了とせざるを得ない』との結論を出した。これにより、午前3時過ぎに臨時閣議を開いて、受け入れを正式決定した。針の穴に糸を通すような交渉だった」
―交渉妥結の意義は。
「大きかったのではないか。ウルグアイ・ラウンドが失敗していたら、世界貿易に与える影響は計り知れず、日本の大変な責任問題になっていただろう。ただ、日本はコメ市場の部分開放を受け、6兆円を超す莫大(ばくだい)な対策予算を組んで農地の基盤整備などを進めたが、農業の競争力が強化されたかというと、そうならなかったと思う。できるだけ規制を撤廃していくことが必要だった」
―米国はトランプ氏の大統領就任で保護主義が強まりそうだ。
「現在、どの国も保護主義に走る傾向にあるが、戦前の保護主義が世界大戦を招いたのも事実だ。そのことを教訓にして、戦後の国際社会は多国間交渉を重ねて保護主義と闘ってきた。しかし今、トランプ氏の再登場により、自国の利益優先の保護主義が勢いづくことになるなら、深く憂慮すべきことだ」
(新聞用に2024年12月27日配信)