農家の蔵に眠る行李、出てきた文書に国立公文書館が「大変なもの」

清水大輔
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 長野県中野市で果樹農家を営む男性が、自宅の蔵の整理をしていて見慣れぬ行李(こうり)を見つけた。入っていたのは、大量の文書と1枚の写真。専門機関に相談すると、「大変なもの」だった。

 資料を見つけたのは田中武徳さん(67)。3年ほど前、大切な文書などを火災などから守るために堅牢につくられた文庫蔵を整理していた際、2階の棚に黒っぽい行李が置いてあるのに気づいた。手の込んだつくりに思え、貴重なものがはいっている予感がした。開けると、濃紺の風呂敷がかぶせられ、中からは大量の文書と、建物を写した写真が出てきた。写真の裏に「枢密院の建屋」と手書きされていた。

 どんな価値があるものなのか分からず、国立公文書館東京都千代田区)に持ち込んでみた田中さん。その場で「貴重なもの」と驚かれた。

 公文書館が数カ月かけて作成した目録によると、見つかったのは、明治憲法下における天皇の最高諮問機関だった「枢密院」の関係文書だった。

 例えば、初代内閣総理大臣伊藤博文らと明治憲法の起草に携わった金子堅太郎の直筆の書簡。現在の長野県須坂市出身で枢密院議長だった原嘉道に宛てられていた。

 独ソ不可侵条約の成立を受けて「欧州の天地は複雑怪奇」と言い残し、退陣した元首相の平沼騏一郎が書記官に宛てた書簡や「領収証」も。ほかにも、枢密院議長から首相に送られた「旅行願」や「転地療養願」、英文による日本国憲法の草案など計326件に上った。

 公文書館の担当者は「庶務関係の書類は当時も今もすぐに処分してしまうのが普通。枢密院の中で行われていた、日々のこまごまとした様子が分かる」と田中さん宅で見つかった資料を評価する。

 それにしても、なぜ田中さん宅の蔵に枢密院の資料が眠っていたのだろう? 田中さんの家は江戸時代に庄屋を務め、寺子屋の指導者を養成する私塾も営んでいたという。土蔵などから当時の教科書やそろばんなどの教材、測量器具、地図などが見つかり、2003年にそれらを展示する私設の博物館を敷地内に構えた。

 とはいえ、家系をさかのぼっても国家の中枢機関とのつながりは見つからない。敗戦直後、日本の各地で多くの公文書が焼却処分された。「貴重な記録を残そうと、誰かが持ち帰ったものなのかもしれない」と田中さんは想像する。

 貴重な品々とはいえ、博物館を作るとは史料の保存に熱心だ。

 「文庫蔵にはもともと江戸や明治初期の教科書や解剖図が載った医学書があったが、小さい頃は暗いし怖くて近づけなかった。そうこうしていたら、親が畑で燃やしてしまった」と明かす。代々の遺品をよく分からないまま、家の片隅に眠らせている、もしくは処分してしまうということはよくあること。田中さんは、燃やされた品々が実は貴重な物だったかもしれない、と長じて考えるようになったという。「一度消えたら元に戻らない。それが文化なのでは」

 枢密院の文書は一時的に公文書館に寄託し、歴史研究に役立ててもらっている。田中さんは「どこのうちにも、首をかしげるような物が眠っているもの。でも、すぐに捨ててしまうのではなく、一呼吸おいて、誰かに相談してみてはどうでしょう」と話す。

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