大会不出場という代償、重すぎないか 五輪銀メダリストの問題提起
体操女子の日本代表選手が、ルールに反した飲酒と喫煙でパリ五輪出場を辞退しました。スポーツ選手にとって、大舞台から降りるという代償は、どれほど重いのか。1992年バルセロナ五輪柔道女子銀メダリストの溝口紀子さんは「人生が変わってしまうと言っても過言ではない」と指摘し、そうした「代償」の払わせ方について問題提起します。
ピーク逃せば取り返しつかない
スポーツ選手にとって、目標にしていた大会や試合に出場できないという代償は、とてつもなく大きいものがあります。人生が変わってしまう、と言っても過言ではありません。
私は1992年のバルセロナ五輪柔道女子52キロ級で銀メダルを獲得しました。五輪出場は、10歳で柔道を始めた私の10年越しの夢でした。周りが遊んでいても我慢して、高校の修学旅行にも行かず、自分を追い込んで練習していました。支えてくれた指導者や親の思いも背負っています。五輪出場には、計り知れない重みがありました。
目標だった五輪に出られなくても、また4年後を目指せばいいと言う人もいるかもしれませんが、そんなに簡単ではありません。年を重ねれば体は変わるし、ルールも変わる。競技によっては、活躍できる期間がとても短い。選手としてのピークを逃してしまえば、取り返しがつきません。
現役引退後のキャリアにも影響が出かねません。私自身は引退後、柔道女子フランス代表のコーチを務めました。現地での下積みはなく、いきなりです。生活はフランス人のコーチと対等。選手を選ぶ権利もありました。五輪出場やメダル獲得といった実績が大きかったのでしょう。
「OLY」という、五輪に出場した選手だけが名乗れる称号も得られ、私の出身地には道場も建設されました。いま振り返ると、五輪出場によって社会的信用が得られる側面がありました。
だからこそ、代償が適切かどうかは、社会通念に照らして慎重に判断してもらいたいと考えています。今回、体操女子の宮田笙子選手がパリ五輪代表を辞退しましたが、私は代償としては重すぎるのではないかと考えています。もちろん、選手として規律を守らなければならないのは大前提です。しかし、一般社会で言えば、それに懸けてきた一発勝負の試験を受けられないのと同じようなものです。年齢も含め、果たして妥当だったでしょうか。
代償が大きくなりがちなわけとは
スポーツの世界で代償が大き…