映画ライター・月永理絵さん寄稿
2017年にアメリカで起きた#MeToo運動から遅れる形で、ここ数年、日本の映画界でも様々な問題が明らかになってきた。監督やプロデューサー、俳優らによる性加害・性暴力。制作現場で横行するハラスメントや長時間労働。映画館でのパワーハラスメントや労働搾取に対する告発も相次いだ。こうした問題が表面化したことで、映画の上映の場にも変化が現れた。問題が指摘された作品の上映をめぐり、その是非を問う声が、主にSNSを介して届くようになったのだ。
映画ライターとして、日々劇場で公開される映画の取材やレビューを書く仕事をしている私の耳にも、上映をめぐって飛び交う声が当然届く。そして、その声にどう応えたらいいのか、悩みながら働く上映者や作り手たちの声も。ひとりの力では映画を作れないのと同じように、一本の作品を上映するのにも大勢の人たちが関わるからこそ、上映の実施も中止もそう簡単には決められない。
「映画とは誰のものなのか。上映を決めるのは誰なのか」
先日、『キネマ旬報』に映画界の加害行為に反対する趣旨の意見広告を出したひとりとして、今、映画の上映現場でどのような変化が起きているのかを、現場で働く人々の声とともに考えてみたい。
映画上映をめぐる昨今の問題の論点は、大きく分けて二つあるように思う。
ひとつは、性加害など加害行為を告発された制作者が関わった映画を上映するべきかという問いかけ。これは、映画の製作会社から、上映を決める配給会社、作品を実際に上映する映画館それぞれの判断が問われる問題だ。実際、準強姦(ごうかん)罪で起訴され、現在公判中の榊英雄被告の監督作品をめぐっては、2022年3月に告発の声があがったあと、新作2作品が相次いで公開中止となった。これに先駆ける21年12月、女性の俳優たちへの性暴力が次々に告発された韓国のキム・ギドク監督の東京での特集上映が、抗議の声によって中止となる出来事もあった。このように、一度は上映を発表したものの、相次ぐ抗議によって配給会社らが上映中止を決めた例は、ここ数年徐々に増えてきている。
もうひとつは、労働問題が告発された劇場での上映をめぐる問い。明らかに悪質なハラスメントを放置し解決に努めない、あるいは当事者間では和解に至ったもののその後の改善状況を公にしない劇場がある場合、そこで映画を上映することは、ハラスメント被害や労働搾取を軽視する風潮をつくることにつながるのではないか。そうした声がSNS上であがり始め、すでに一部の監督や配給会社が、上映の判断についての回答や声明を発表している。
映画の上映中止問題というと、公権力による検閲や、特定の団体による暴力的な抗議行動を思い浮かべる人が多いかもしれない。数年前に大きな議論となった『主戦場』の上映中止問題(2019年、「KAWASAKIしんゆり映画祭」で上映予定だったが、当時出演者の一部が上映禁止を求める裁判〈のちに監督らが全面勝訴〉を起こしていたことから共催の川崎市が懸念を示し、いったん上映が中止された)では、「安全上の懸念」を理由に上映を中止した映画祭側に対し、「表現の自由を侵害する」として多くの映画人が抗議の声をあげ、議論の結果、上映中止が撤回された。他国に目を向けても、公権力による検閲や規制の例は少なくない。ある作品を上映するとは、それ自体がひとつのプロテスト行為であり安易に中止してはならない、という意見はまったくもって正しい。すべての映画は、それがどんな内容であれ、自由に、等しく上映されるべきだ。
近年問題となる上映中止とは
だが近年問題になっているのは、こうした政治的な背景を持つ事例とはまったく別の状況だ。
加害を告発された人物が関わる映画を無批判に上映することは、事件の存在を無視し、被害者の存在を透明化する行為ではないか。「性加害や労働問題はたいした問題ではない」というメッセージを世間に広めることにつながらないか。これは、#MeToo運動以前にはほとんど考慮されることのなかった問いかけであり、問われているのは上映側の「倫理性」だ。
難しいのは、加害の告発と言っても、実際に司法によって加害が認定されている例は必ずしも多くないこと。被害者にとって、司法に訴えるという手段は負担が大きく、SNSでしか声を発せない場合は本当に多い。ネットを介して告発の声が広く届くようになったのは喜ばしいことである半面、SNS上での匿名による告発が増えるなか、いわば「疑惑」の対象となった作品の扱いをめぐる判断は人によってバラバラだ。疑惑のまま上映を続けるところは少なくないが、批判を受けて上映中止を決定したり、声明文を出したりする事例もある。観客もまた、「疑惑」を知りながら鑑賞をするべきかどうか、それぞれに判断を迫られている。
なかでもこの状況を喫緊の問…