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巌より 袴田さん 獄中からの手紙

数千枚の手紙が保管されていた。

袴田巌さんは、逮捕直後から死刑確定後の1990年代まで、獄中から家族らに無実を訴える手紙を出し続けた。

司法への期待と絶望、周囲の支援、獄中での日々、そしてむしばまれていく精神――。

手紙からその半生をたどる。

手紙を受け取り、保管している姉・秀子さんの許可を得て一部を原文のまま掲載します。

逮捕から0

1966/8/18
静岡県警が巌さんを逮捕当初否認したが、1日平均で約12時間の取り調べを受けて「自白」した
1966/11/15
初公判「全然やっていません」と否認した

「私は白です」

「我れ敗くることなし」

1967/8/31
血のついた5点の衣類が新たに見つかるみそタンクから見つかり、巌さんと同じB型の血が付着。以後、検察側はこの5点が犯行着衣だと主張した

「血染めの着衣 僕のに少し似ていた」

1968/9/11
静岡地裁が死刑判決判決日は複数回延期された。血液などを根拠に、5点の衣類は巌さんが犯行時に着ていたものだと認定

「意外ナ判決結果デ事実誤認モ著シイ」

「どう見ても私しには小さくてはけそうにない」

1968/11/17
母親が死去しばらくの間、巌さんには死の事実は伏せられた

「母さんの夢を見ました。元気でした」

この手紙を出した後に母の死を知らされた

「裁判官とて人間だ 人は誤り易い」

「死刑執行に対するはてしない恐怖」

「私の生を支えるものは憎悪に成った」

「生命を守るため捜査陣に従った」

1976/5/18
東京高裁が控訴棄却裁判の実験で、巌さんは5点の衣類のズボンをはけなかった。判決は「ズボンがみそで縮み、袴田さんも勾留中に太ったため」などと認定した

「黒を白と変えろというのではないのだ」

1980/11/19
最高裁が上告棄却

「不正義の典型と言わざるを得ませんね」

「何のための法か、裁判か」

死刑確定後、巌さんには変調が見られるようになった。収監に伴う「拘禁反応」とみられ、手紙にも「悪魔」「攻撃」などの言葉が見られるようになった。

「私は無実だ!」

1984/12/24
拘置所内でキリスト教の洗礼を受ける

「パウロという霊名を頂きました」

「免田、財田川、松山、島田事件の死刑囚」

「此の度移った独房は何か私に訴えている」

「一度冤罪に陥れられたならば、出口はないのだろうか」

「今日はクリスマスイブだ」

「人生を純粋にやりなおすには余りにも遅過ぎる」

「死刑台から私を救済して下さい」

「悪魔の電波」

「本日から平成」

前略。儀式に関連致します

  • 2014年3月27日
  • 2015年12月
  • 2015年12月
  • 2015年12月
  • 2016年2月
  • 2015年12月
  • 2015年12月

やがて、巌さんは姉の面会に応じなくなり、差し入れを求める手紙が時折届く程度になった。

1981年の1回目の再審請求は、静岡地裁、東京高裁に続き、最高裁が2008年に退けた。

弁護団はすぐに2回目の再審請求を申し立てた。

新たに検察側から「5点の衣類」のカラー写真が示され、衣類や衣類についた血の具体的な色などが判明した。

そして――

逮捕から 17388

再審開始が決定、釈放

2014年3月27日、静岡地裁が再審開始を認める決定を出した。5点の衣類について「後日捏造された疑いがぬぐえない」と指摘した。

死刑執行も停止され、巌さんは逮捕から48年ぶりに釈放された。78歳になっていた。

この後、東京高裁は一転、再審を認めない決定を出した。しかし、最高裁がこの決定を取り消す。

差し戻された高裁も2023年3月、再審請求を認めた。5点の衣類について高裁は、捜査機関による捏造の可能性が「極めて高い」と言及した。

逮捕から 20889

57年後の再審

2023年10月27日、静岡地裁で再審初公判が始まった。

巌さんは87歳になった。

90歳の秀子さんと浜松市内のマンションで静かに暮らしている。

いまも拘禁反応は続く。

正常な会話をすることも難しく、ペンを持っても、ノートに「私は神だ」などと書き殴るという。

秀子さんは願う。

「もう残された時間は長くない。巌は手紙でずっと無実だと訴えていたのよ。はやく無罪判決を聞かせてあげたい」

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