天賦の才に恵まれた大柄なアスリートたちが超人的な動きを繰り返す世界のバスケットボール。そんな舞台で、その男が左足を引きずりながら走る姿は、初めて見る者に不安を与えるだろう。
迫力あるダンクや派手なプレーは見せない。ただ、どんな状況でも淡々とシュートを放ち続ける。ボールの軌道は恐ろしいほど正確。どんな角度からでも決まる。試合が始まれば、これほど頼れる者はいない。
男の名は、ニック・ファジーカス。
米国出身。大学で活躍し、最高峰の米プロNBAのドラフトで指名されたものの、わずか1年で解雇された。その後、給与未払い、大けが、度重なる苦難に遭いながら、日本にたどり着いた。
川崎に居場所を見つけ、再び輝き始め、昨年6月、日本代表に初選出された。34歳は、窮地に立たされていた日本の「救世主」になった。
無名校からスター選手に
ロッキー山脈が南北を貫く米中部コロラド州で、1985年6月、ニックは生まれた。ハンガリー動乱で祖父が米国に移住し、父は米国の大学やアルゼンチンリーグでプレーしたバスケット選手だった。
その父は身長208センチ。ニック自身も現在は211センチ、111キロの体格だが、生まれた頃は3500グラムと特別に大きな赤ん坊ではなかった。それでも、父の影響で、ボールを触ったのは1歳になる前。父に手ほどきを受けながら、友人と試合をした5歳の記憶が残っている。将来の夢はもちろん、NBA選手だった。
細かったニックは15歳くらいまで、ゴールのそばで体を張るインサイドの選手ではなく、外からシュートを放つガードの選手だった。高校に入るとぐんぐん身長が伸び、2メートルを超えた。中長距離のシュート力を備え、得点力があるセンターとして大活躍。チームを州大会優勝に導き、最優秀選手にあたる「ミスター・バスケットボール・コロラド」に選ばれた。
さらに飛躍したのは大学時代だった。全米大学体育協会(NCAA)1部に所属する大学から誘いがいくつかあり、ニックはネバダ大リノ校を進学先に選んだ。バスケット界では有名ではなく、ニック自身が「存在すら知らなかった」というほど。監督のトレント・ジョンソンが父と知り合いで「出場機会を与える」と言われたのが決め手。ふたを開ければ、「選手人生で最高の決断だった」と振り返るほど大学時代に成功した。
NCAAのスポーツの中でも男子バスケットボールはダントツの人気を誇る。全米大学選手権(NCAAトーナメント)は「マーチ・マッドネス(3月の熱狂)」と呼ばれ、日本の高校野球の甲子園大会のような大会だ。「大学のスピードへの適応も早かった。自分が見てきた選手の中でもベストの選手の一人」とジョンソンは振り返る。ニックは1年生の途中から先発の座を奪う。全米大学選手権に過去2回しか出場していなかった同校を4年連続出場に導く原動力となり、全米の注目を浴びた。
選手権では、強豪校のミシガン大やゴンザガ大と対戦。相手にはNBAレベルの選手が数多くいた。そんな選手たちよりも良いプレーができたという確信があった。「NBAに行けるかもしれない」。夢が、現実的な目標になった。
大学までに獲得したタイトルと記録
州最優秀選手Mr. Basketball Colorado
コロラド州における高校バスケ男子の最優秀選手。過去には、ピストンズなどで活躍したビラップスが3年連続受賞。
年間最優秀男子バスケ選手WAC Men’s Basketball Player of the Year
ネバダ大リノ校が所属していたWAC(全米に32あるカンファレンスの一つ)で、ニックは2005年から07年まで最優秀選手賞を受賞。
ネバダ大学リノ校歴代最多得点2,464point
NCAAで2千得点を超えるのは、歴史上570人しか記録されておらず、名選手の目安となる。
ネバダ大 永久欠番
4年間プレーしてネバダ大リノ校史上最多の2464得点を奪った。2千得点は大活躍の指標になる数字だ。背番号「22」は後に永久欠番となるほどの歴史をつくり、満を持して迎えた2007年ドラフト。2巡目の全体34位でマーベリックスから指名された。
Interview
NBA、そして解雇
「夢がかなった」。まして指名されたのは、ニックが憧れる名選手、ドイツ代表ダーク・ノビツキー(当時31)のいるマーベリックスだった。シュートが得意な長身選手のノビツキーはニックと似たタイプ。決して屈強なタイプではないニックにとって、身近に目標がいる理想的な環境に思えた。当時の監督も「まさに欲しい選手がとれた」とAP通信に語っていた。
ただ、現実は違った。マーベリックスで出場できたのは4試合。それでも下部リーグで結果を残すと「みんなが君に注目している」とコーチに言われた。ところが、その言葉をかけられてから3日後、事態は暗転する。ドラフトからわずか8カ月後の2008年2月、チームはスター選手のジェイソン・キッド(当時34)を獲得。その関係で選手枠を空けるため、解雇されたのだ。
「ドラフトされるのが10年後だったら、もっとNBAで実力を発揮できたかもしれない」
ニックはこう振り返る。NBAは現在、3点シュートが全盛。大型選手も積極的に狙う時代で、3点シュートが得意なニックの特長が生きる。一方、ニックがドラフトされた当時は何より選手の身体能力が評価された時代だった。
「速く走る、高く跳ぶ、空中でパスを受けてダンクをする。私があまり得意ではないことばかりが評価基準だった」
バスケットの競技人口は世界で男女を合わせて4億5千万人。全てのスポーツで最も多い。その最高峰がNBAだが、そこでプレーできるのは約450人にすぎない。
いわゆるトップ・オブ・トップの中の能力の差は紙一重だ。時に、ちょっとした運、不運が作用して解雇されるのが現実だ。
「NBAは強烈なビジネスの世界。割り切ってやっていくしかない」。ドラフト外からNBA入りし、今、グリズリーズでプレーする渡辺雄太(24)は、そんな厳しさの中で生きている。当時のニックは、まさにNBAの現実を突きつけられた。
ニックはクリッパーズと契約して22試合に出場した。悪くないプレーをしていたが、契約更新時に望んだ条件を得られず、物別れに終わる。新たに5、6チームと交渉したが契約はまとまらず、わずか1シーズンでNBAの世界から去ることになった。
暗黒の欧州時代
NBAのチームと契約できない。夢が破れた時、ニックはまだ23歳にすぎなかった。「どこかでお金を稼げないといけない」。選んだのは、欧州だった。
五輪で優勝経験があるセルビア、2006年に日本で行われた世界選手権を制したスペイン、ギリシャ、リトアニア。米国ほどではないが、欧州にバスケットが盛んな国は多い。各国の強豪が集うユーロリーグはNBAに次ぐ世界で2番目に実力があるリーグといっても過言ではない。NBAで活躍するユーロリーグ出身選手も少なくない。
ただ、ニックはまだ大学を卒業して1年しか経っていない若者で、すぐに心機一転とはならなかった。「解雇されて(心が)荒れていたし、がっかりしたし、動揺もしていた」と当時を振り返る。
まして、最初に所属したのはベルギーの田舎にあるチームだった。希望して行ったのではなく、代理人が懇意にしているというだけの理由で決まった。初めての国外暮らしで、英語もほとんど通じず、気がめいる一方だった。
続いて所属したフランスの2チームにもなじめなかった。給料も期日までに支払われないこともあった。運営はめちゃくちゃだった。
それでも我慢してプレーしていると、左足首に痛みが走るようになった。診断結果は「足首に骨のかけらがたくさんある」。後のバスケット人生を左右するような大けがにつながるのだが、その時、最初に思ったのは「手術を受けるために米国に帰れる」。それくらい心は疲弊していた。
「最悪の状況だった。良い思い出はない」。日頃から陽気なニックも欧州の話をする時だけは、口が重くなった。
足首に穴が開いた
ニックは走る時だけでなく、歩く時も、左足を引きずるようにする。その姿だけを見ると、とてもプロバスケット選手には見えない。
「足首に穴が開いたような状態だった」
フランスで負った足首のけがはいったんは治りかけたものの、手術を繰り返し、悪化した。抜糸を早めたために傷がふさがりきらず、感染症になったこともある。
そんな状況だったとはいえ、まだ25歳。NBAに戻る夢も、あきらめきれなかった。ウィザーズから声がかかっており、若手の登竜門と言えるサマーリーグは目の前。足首の状態が悪いまま試合に出続け、日に日に悪化していった。
契約を勝ち取れず、それでもアピールを続けるため、今度は下部リーグで2カ月以上も試合に出続けた。「痛くて、ベッドからソファに移ることすらできない日もあった」。コーチからの求めに応じて強い痛み止めを飲みながらプレーしたが、足首は悲鳴を上げた。ついにドクターストップがかかった。
今でも、当時、無理をした後遺症はある。昨季まで川崎で通訳を務めた大島頼昌(現シーホース三河通訳)は、「ケアをしないと長くプレーできない」とつぶやきながら入念にケアをするニックの姿が忘れられない。試合では痛み止めを飲み、試合が終わると、氷で足首を冷やす。疲労回復を早める機材を自費で購入し、遠征先にまで持ち込む。
もう元の自分には戻れない。そう観念しかけた時もあった。「別の仕事を始めようか」。いっこうに良くならない足首を見ながら、婚約者と話し合ったことすらある。その婚約者と別れて計画は実現しなかったのだけれど……。欧州での失敗、けがにより、キャリアは下降線をたどる一方だった。気づけば26歳になっていた。もはや若手有望株といえる年齢ではなくなっていた。
Interview
復活、そして日本へ
下り坂だったニックのバスケット人生に浮上の兆しが見えたのが、2012年のフィリピン行きだった。
すでに26歳。若手とは言えない年齢になっていた。しかも、けがで満足いくプレーができていない。NBAでプレーできる自信は持っていても、周りにそうは見えない。
NBAの下部リーグではプレーする気持ちになれなかった。若手中心のリーグは給料も安く、NBA昇格を目指す選手たちは個人の成績ばかりを追い求め、チームプレーなどほとんどしない。
足首のけがが癒えつつあったと感じていた頃、ちょうど声がかかったのがフィリピンだった。フィリピンでバスケットは人気競技。実力も低くない。世界ランキングも31位で、日本の48位より上に位置する。(19年2月26日現在)。
フィリピンのファンは熱狂的だ。ニックはショッピングモールなどに出掛ければ、サイン攻めや写真攻めにあった。「ちょっとしたロックスターのような扱いだった」と振り返る。自身の調子も明らかに上がった。毎試合のように30得点以上を決めた。
当時、フィリピンから中国に渡る米国選手が多く、「自分も」と中国行きを考えていた。中国はアジアでトップクラスの実力を持つ。過去には姚明らのNBA選手が輩出し、バスケット人気が高い国だ。ただ、「あなたが中国リーグでプレーできるほどの実力があるか疑問だ」と話す関係者もいて、中国のチームと交渉しても芳しい返事は返って来なかった。そんな時に日本から声がかかった。
東芝(現川崎ブレイブサンダース)は前年度に最下位に低迷し、得点力のある選手を探していた。たまたまスタッフが08年のサマーリーグを視察し、そこでニックがプレーする姿が印象に残っていた。跳ぶ、走るという身体能力が秀でていたわけではないニックの「ちょっと変わったシュートを打つけど、とにかく入る」という得点力に目をつけていた。その時はすでに外国籍選手の獲得を終えていたため、ニックに声をかけることはなかった。だが、新外国人選手を探していた12年、フィリピンでプレーしていることがスタッフの耳に入っていた。
足首をけがしたニックはどれくらいのプレーができるのか。北卓也ヘッドコーチ(現GM)と、通訳の大島頼昌は、ニックのチームの試合があったマレーシアへ視察に出向き、そこで初めてニックと会うことに決めた。
日本のバスケットについて全く知らなかったニックが、初めて日本と接点を持った瞬間だった。
To be continued
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