5月25日、財務省が公表した『本邦対外資産負債残高の状況(2020年末時点)』は、世界経済においてリスク回避ムードが強まる際には、「安全資産としての円」という認識が(当面は)維持されると感じさせる内容だった。
ただ、後述するように、巨大な対外純資産はそれだけ国内への投資機会が乏しかった(=国内企業の魅力がなかった)ことの裏返しであって、必ずしも喜ばしい話ではない。
日本の政治・経済の弱体化が指摘される今日でもなお、円を「安全資産」と呼んでもらえる最大の理由が、この対外純資産の存在にあることは知っておきたい。
以下では、例年この時期に大きな注目を集める日本の対外純資産の現状、さらにその展望を簡単に整理してみたいと思う。
「対外純資産」の構造が変わってしまった
今回発表の数字を具体的に見てみよう。
日本の企業や政府、個人が海外に持つ資産から負債を引いた「対外純資産残高」は、前年比マイナス450億円の356兆9700億円(以下、特に断らない限り数字は前年比)と、3年ぶりに減少を記録した。それでも、30年連続で「世界最大の対外純資産国」のステータスは維持された【図表1】。
前年比マイナスの結果とはいえ、2020年を通じてドル/円相場が5%程度下落したことを踏まえれば、「おおむね横ばい」というのがフェアな評価だ。
さて、筆者は近年、日本の抱える対外純資産の性質が変化し、その結果、「リスク回避の円買い」の規模感やインパクトが徐々に失われてきているとの見方を示してきた。
過去10年の対外純資産の構造に目を向けてみると、かつての海外有価証券ではなく、日本企業から海外への直接投資(≒海外企業の買収)の存在感が増している。
下の【図表2】に示すように、過去10年間で証券投資と直接投資の比率は逆転し、その後拡大している。
「金利なき世界」が常態化するなか、収益率で比べると直接投資のほうが証券投資よりも明らかに優れており、対外純資産における両者の比率が逆転・拡大を続けるのは当然の展開と言える。
「リスクオフの円買い」の迫力が失われてきたのは、こうした変化に一因があるというのが筆者の仮説だ。
リスク回避ムードが強まったとき、流動性の高い海外有価証券を手放して円貨に換える(=円買いする)ことはあっても、買収した海外企業を(リスクが高いからといって)簡単に手放すとは考えにくい。
直接投資が対外純資産のより大きな割合を占めるようになった現状、日本企業はリスク回避のために円に換えられる資産をそもそも(以前より)持っていないというわけだ。
「世界最大の対外純資産国」は誇れるようなことでもない
いずれにしても、冒頭で書いたように、日本が30年維持してきた「世界最大の対外純資産国」というステータスは、その響きほどうれしいものではない。
対外純資産というストックは、毎年の経常黒字というフローが蓄積された結果だ。そしてそのように経常黒字が積み上がる状態は、理論的に、国内の貯蓄過剰(=貯蓄のほうが投資より大きい)と表裏一体である。
そして、国内から国外への証券投資や直接投資が旺盛だということは、国内への投資機会が乏しいということでもある。
直接投資の比率が増加したのは、日本企業が「縮小し続ける国内市場に投資をするより、海外企業の買収や出資を通じて時間や市場を買うほうが中長期的な成長につながる」と判断した結果とも言える。
1990年以降の日本経済を指して「失われた20年」ないし「失われた30年」というフレーズがよく使われるが、「世界最大の対外純資産国」としてのステータスは、日本企業が国内市場を見限って海外企業の買収や出資にいそしむような「失われた時代」の副産物とみなすことができるだろう。
30年続いた「世界最大」の終えん
「世界最大の対外純資産国」というステータスは、円の価値を考える上で最も重要な要因の1つであり、それは円高材料として使われ続けてきた。
だが、対外純資産における直接投資の割合が増える現状のもとで、徐々にしかし確実に「円高になりにくい」状況が強まっている。直接投資=海外企業の買収に使われた円は、「売られたまま返ってこない円」になりやすいからだ。
日本は極端な円高を警戒しがちだが、資源輸入国としては、その逆の極端な円安(=資源調達コストの極端な上昇)も同様に警戒する必要がある。
そもそも(政治的な可否は別の話として)理論上、自国通貨売り・外貨買いは無限にできるが、外貨売り・自国通貨買いは外貨準備分の範囲でしかできない。要するに、極端な円安を抑止する手段は有限だ。
制御不能になった場合、本当に怖いのは円高より(抑止手段の限られた)円安と言える。
こうした状況になってくると、円がいずれ安全資産としての魅力を失って、極端な円安がテーマ視されるような状況に少しずつ想像をめぐらせていかねばならないと考える。
30年間も維持してきたステータスだからこそ、それを失った場合、直情的な為替市場は騒ぐ可能性がある。
その点、筆者は諸外国とりわけドイツとの比較を気にしている。
下の【図表3】に示したように、ユーロという「永遠の割安通貨」を武器に、ドイツは貿易黒字を荒稼ぎし続け、「世界最大の経常黒字国」としてのステータスを保持している(2020年はコロナ特需の恩恵で中国が世界最大の経常黒字国となったものの、それでも2位のドイツと差はほとんどない)。
どんなに経常・貿易黒字を積み上げても、ユーロがドイツの競争力を貶めるほど通貨高になることはないので、ドイツはこのペースで延々と対外純資産を積み上げていくだろう。
2020年末時点で、日本とドイツの対外純資産の差は過去最小の34兆円まで縮まっている。この程度の差であれば、為替や貿易の動向次第で「世界最大の対外純資産国」のステータスがドイツと入れ替わっても不思議ではない。
ドイツの経常黒字・貿易黒字の高止まりに変化がないとした場合、日本の貿易黒字が振るわなければ、2021年末時点でいよいよその座を失う可能性もないとは言えない。その際、円相場は冷静でいられるだろうか。
2022年5月公表予定の『本邦対外資産負債残高の状況』は、緊張感を持って注目する必要が出てきたと、筆者はいま感じている。
※寄稿は個人的見解であり、所属組織とは無関係です。
(文:唐鎌大輔)
唐鎌大輔(からかま・だいすけ):慶應義塾大学卒業後、日本貿易振興機構、日本経済研究センターを経て欧州委員会経済金融総局に出向。2008年10月からみずほコーポレート銀行(現・みずほ銀行)でチーフマーケット・エコノミストを務める。