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    「憲法9条を削除せよ」 東大教授が問い続ける改憲派のインチキ、護憲派の欺瞞

    トランプ”大統領”誕生で注目高まる?

    注目あつまる憲法9条削除論

    「憲法9条は削除すべきである」——。

    声は太く、自信がみなぎり、なにより大きい。大勢の一般聴衆の前で語るのは東京大学教授にして、当代屈指の法哲学者、井上達夫さん、その人である。

    「護憲派も改憲派も欺瞞だらけ。どちらも憲法を守ってない。罪深いですよ」と声を張り上げる。最近、井上さんが長年語ってきた憲法9条削除論に、一段と注目が集まっている。

    日米同盟、安全保障に影響を与えかねないトランプ”大統領”誕生を間近に控えたいま、あらためて井上さんの主張に耳を傾けてみると……。

    改憲派も護憲派も間違ってる

    10月27日、井上さんは東京・永田町の憲政記念会館で、公開対談に臨んでいた。相手は、歴戦の政治家・自由党の小沢一郎さんだ。対談というよりも、政治家だろうが学者だろうが一般聴衆だろうが、相手によって自説を変えない井上さんらしい、フェアな議論の場になった。

    例えばこんな調子だ。

    自民党が示している改憲草案は、現行憲法の全面的な改正案だ。「憲法の全面改正ができるのは占領期か、革命を起こして革命政権が誕生したときくらい。自民党は保守政党と言っているけど、これでは革命政党だ」とバッサリ。

    そして、返す刀で護憲派にも斬りかかる。

    「みなさんの中にも多いでしょ。憲法は権力を縛るものだという人、9条を守ることで戦力を縛っていると思う人もいるでしょ。(小沢さんの)護憲派っぽい発言に拍手をしている人たち、聞いていてくださいよ」。唐突に聴衆に語りかけ、一段と声を張り上げて続ける。

    「それはウソなの。9条があるから、戦力を憲法で縛れなくなっている。日本国憲法に、戦力は存在しないから、自衛隊は戦力じゃないとされている。現実にある戦力を憲法で統制できないのは、立憲主義ですかね?」

    井上さんの考えでは、自衛隊を戦力ではない、とする主張はどう考えても無理がある。現実にある戦力は誰が、どう縛るのか。その規定は、戦力の不保持などを定めた憲法9条があるため存在すらしない。

    「憲法は国家権力を縛るためにある」という立憲主義の考え方に照らし合わせるなら、これは問題ではないか。井上さんの問いは明快だ。

    改憲派のインチキ、護憲派の欺瞞

    井上さんは、もともとアメリカ仕込みの法哲学論をベースにした、筋金入りのリベラリストとして、アカデミズムの世界で高い評価を得ている法哲学者だ。

    安保法に揺れた昨年、一般向けに自身の考えを平易に語った書籍『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムのことは嫌いにならないでください』(毎日新聞出版)を出版したところ、人文書では異例の大ヒットを記録する。

    そこから、メディア上の露出や講演会などの出演が一気に増えた。今年に入っても勢いは止まらず、ついに保守派の論客として知られる漫画家の小林よしのりさんとの対談「THE・議論!」(毎日新聞出版)も出た。

    この中で、あらためて注目されたのが憲法9条削除論だ。その主張を著作、インタビューなどからまとめてみよう。

    前提にあるのは「改憲派のインチキ」であり「護憲派の欺瞞」だ。

    安倍政権は「姑息」

    井上さんは安倍政権が進めた集団的自衛権の行使容認を徹底的に批判していた。その論理はこうだ。

    いわく「安倍政権の目的は憲法9条の解釈を変えることではなく、改憲手続きによる9条自体の変更」であり、ならば集団的自衛権を堂々と行使できるよう、国会で憲法改正を発議して、国民に信を問うべきである。

    そして、集団的自衛権の行使容認は、事実上の「解釈改憲」だ。安保法反対の機運が高まるなかで、憲法改正を発議すると国民投票で負けるリスクもあるとして、解釈改憲で対応するのは「あまりに姑息」だと憤る。

    護憲派だって罪深い

    一方の護憲派はどうか。

    自衛隊や在日米軍の位置付けを巡って、護憲派は二つの立場にわけられる。

    一つは「自衛隊も在日米軍も違憲だ」と主張するグループ。立場としては徹底しているが、現実はどうか。口では違憲だと言いながら現実を変える努力もせず、メリットだけはただ乗りして、享受しているのではないか。政治的な立場も含めて、これは欺瞞ではないか。

    もう一つは「専守防衛の枠内なら、自衛隊も在日米軍も合憲」という立場。これもまた自衛隊をめぐる一つの「解釈改憲」であり、その主張こそ違うが、ご都合主義的であり、論理的には安倍政権が進めたことと同じではないか?と問う。

    井上さんに言わせると、改憲派より護憲派のほうが罪深いという。

    いっそ9条を削除する

    憲法論議は硬直化している。それもお互いに欺瞞を内包したままに。本来、大事なのは、望ましい安全保障体制とは何かであるにもかかわらず、憲法論議にばかり時間が費やされ、大事な議論は一切深まらない。

    ならばいっそ9条そのものを削除する。その上で、安全保障のあり方を議論しながら、決めていけばいい。それが井上さんの提唱する9条削除論の核だ。

    昨年、井上さんは毎日新聞時代の私のインタビューにこう応じている。

    私が考える立憲主義というのは、公正かつ民主的な政治競争のルールを定めて、差別を受ける可能性がある少数者の人権を保障することです。

    「正しい安全保障政策が何か」は、被差別少数者の人権問題を超えた国民全体の利害に関わる論争的な政策問題ですから、これについての特定の解答を、改正の難度の高い硬性憲法で「凍結保存」して反対者に押し付けるのはフェアではありません。

    それは、通常の民主的立法過程の中で、持続的に議論し模索すべきことです。

    9条を削除したら、集団的自衛権行使反対派も、9条の欺瞞的乱用によって自己の安全保障観を擁護できず、望ましい安全保障体制についての実質的な議論を深めざるを得なくなる。

    安全保障体制のあり方については、誰も自分たちだけが確実な正解を知っていると標榜することは許されず、自己の立場を民主的な討議プロセスにおける持続的な批判的吟味・再吟味にさらさなければなりません。(毎日新聞ニュースサイトより)

    9条削除は「戦争ができる国」にするためではなく、より望ましい安全保障のあり方を憲法で決めずに、常に議論するためにこそ必要だということだ。

    「削除論」が注目される最大の理由は、ここまで何度も書いたような「護憲派対改憲派」という構図が凝り固まってしまい、本当に必要なことが見えなくなっているからだろう。筋を通した挑発的な言動で、固定化された枠組みそのものを揺るがすのも、井上さんの目的のように思える。

    トランプ”大統領”の誕生で、国際秩序も大きな変化が予想される。それでも、いつもと同じ議論を続けるのか、フレームを変えるのか。その問いはリアリティを増している。

    「改憲」の中身

    もっとも、当の井上さんも、これがすぐに現実に反映できる策だとは考えていない。事実、小沢さんとの対談でも「これは次世代のための議論」であると強調して、最近では「次善の策」について言及することも増えてきた。

    例えば護憲的改憲と呼ばれるものだ。憲法9条を改正し、専守防衛・自衛隊保持を明記する。自民党改憲草案のような国防軍構想ではなく、現実との矛盾をより穏健な形で解消するーー。

    現実的であるかどうかを一旦おいて、日本にもし9条がなかったらと考えてみる。憲法改正が現実の政治課題として浮上するなか、こうした思考実験は決して無駄ではない。

    みんな間違う、を前提に語り合う

    井上さんが講演会などで、しきりに強調する考えに「我ら愚者の民主主義」というものがある。

    エリートの中には民主主義は衆愚政治になる、と馬鹿にする人もいるが、エリートは本当に間違わないのか。過去、重大な政策決定の場面で決定的な間違いを繰り返してきたではないか。

    みんなが間違う可能性がある愚者であり、自分も間違う、他者も間違う。それを前提に議論を積み重ねていくことこそ、民主主義のもっとも重要な要素ではないか、と。

    リベラリズムの核心は正義の理念だと言いましたが、これは「自分が正しいと思う政策は、手段を選ばず他者に押し付けていい」ということではなく、「自分も間違う、他者も間違う」という態度で、他者に対する公正さの規律にしたがった民主的プロセスで正しい政策をめぐる論争を続け、敗北するリスクや、他者との議論を通じて自己の見解が変容する可能性を引き受けることです(毎日新聞ニュースサイトより)

    さて、ここで憲法論議を振り返ってみる。

    独善的な正義を他者に押し付けていないだろうか。自分たちの主張だけが正しくて、考えが違う人はバカと思っていないだろうか。彼らの議論を聞いていると、それぞれの立場でお互いの正しさをぶつけ合ったり、賢さ自慢で終わることが多々ある。

    決めかねている多くの人、議論慣れしていない多くの人たちはどこか置いていかれたままだ。

    まずは「正しさ」を一回、脇に置いて語る。盛り上がりをみせる、これからの憲法論議で大事なのは、従来型の護憲か改憲かだけでない。