- 2024 02/05
- 特別企画
ひさしぶりに平安時代を舞台とする大河ドラマ『光る君へ』がはじまり、一大ムーブメントが沸き起こっています。でも、ちょっと待って。背景を知れば、もっと楽しく味わえるはず。『謎の平安前期―桓武天皇から『源氏物語』誕生までの200年』を刊行したばかりの榎村寛之さんにエッセイを寄稿して戴きました。(なお、榎村さんのエッセイは下記もご覧下さい)
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天皇の即位と三種の神器
大河ドラマ『光る君へ』を見ていて、上手く演出しているなぁ、でも少し補足が必要かなあというところがしばしばある。
1月28日の放送分でいえば、花山天皇(本郷奏多)の即位とまひろ(吉高由里子)の演じる五節舞がそれに当たると思うので、しばしお付き合いのほどを。
円融天皇(坂東巳之助)が譲位して花山天皇が即位するという場面で、廷臣が何やら長い箱と四角い箱を深夜に運んでいる、という場面があった。
じつはあれは受禅とか践祚といわれる儀式だ。箱の中身は天皇の象徴となる宝器(ラテン語でレガリアという)の「三種の神器」の剣と玉、つまり「草薙剣」と「八尺瓊勾玉」で、この神器の引き継ぎは現天皇の即位のときにも皇居で行われており、ニュースで放映されていた。
しかし、古くは「三種の神器」という言葉はなく、歴史書の『続日本紀』や『日本後紀』には「神璽鏡剣」という書き方をされている。この読み方についても、神璽が玉で、鏡と剣との3点セットという考え方と、「レガリアの鏡と剣」という意味で奈良時代には2種類だった、という考え方がある。ちなみに『光る君へ』の時代の少し前の天徳4年(960)、花山の祖父の村上天皇のときに平安宮内裏は焼失し、鏡も焼損して、それからは女官の詰所である内侍所(賢所)から出さなくなった。だからドラマであたふたと運んでいたのは剣と玉という設定なのだろう。
即位式の変化
それはともかく、奈良時代にはこれらのレガリアは、即位式で、百官を前にして、宮殿の中心であり最大の建物の大極殿に高御座という高い台が置かれ、その上の座席についた新天皇に捧げられるもので、天皇の交替のときに神祇官(神まつりを行う役所)が預かって捧げるという手順をとっていた。
ところが桓武天皇からその子の平城天皇に代替わりするときには、天皇が亡くなるとすぐに、レガリアは皇太子の元に移され、その後に日を変えて、新天皇が高御座に座して百官から拝賀を受けるだけの即位が行われることになった。
以後、「受禅」とか「践祚」は、レガリアの移動儀式をいうことが多くなる。これらの言葉は本来、「皇位を受け継ぐ」という意味なので、平安時代の官人たちは、天皇の交替はある日起きたらもう終わっていて、事後に譲位の詔を聞くという感覚だったのだろう。気がついたら東宮が新しい天皇になっているのである。
この変化は桓武天皇が政権の空白期をなくすためにあらかじめ決めていたといわれるが、じつは『続日本紀』には、桓武天皇自身、父の光仁天皇が亡くなった直後に「受禅」して、のちに「即位」したと書かれている。この「受禅」の内容は書かれていないが、レガリアの事前移動は桓武天皇即位のときにすでに行われていたのではないかと見る説もある。桓武天皇の即位当時の権力基盤は決して強くなかったので(このあたり詳しくは、拙著『謎の平安前期』をお読みください)、こういう技巧を行ったと理解できないこともない。
なお、天皇のレガリアを捧げる儀礼は、9世紀には大嘗祭(天皇の即位儀礼の1つとして行われる収穫祭)の辰の日(伝統的な暦では日にも十二支がつき、子の日、丑の日などという。今の○曜日の代わりに使われた)に行われるようになった。神事の翌日である。しかし、『西宮記』などの儀式書によると、天長10年(833)の仁明天皇の大嘗祭を最後に行われなくなった、という。つまり三種の神器の唯一の見せ場はレガリア移動になったわけだ。その場面がドラマで再現されたのはこのためだろう。
と言いたいが、花山天皇の即位については、映像にしにくかったこともあるだろう。藤原兼家(段田安則)たちが「高御座で一儀に及んだ」と言っていたアレである。花山天皇が即位式でハレンチなことをしたという話は『古事談』など、平安後期から鎌倉時代の噂話集の集成本のような文献に見られるもので、どこまで信用できるかは問題なのだが、ドラマではその設定を生かすために、即位の場面はあえて作らず、我々に解釈をゆだねたとも考えられる。
五節の舞の人数と大嘗会・新嘗会
さて、花山天皇の即位の次に五節舞の場面が出てくる。これは11月の新嘗祭(天皇が新穀を神と共に食べる収穫祭。平安時代には新嘗会というようになる)の打ち上げの宴会「豊明節会」で貴族の娘たちが披露する舞である。
と書くと、即位の儀礼についてある程度ご存じの方には、あれ? と思われることもあるかもしれない。新天皇が即位した後の新嘗祭は、大嘗祭(大嘗会)とされているからだ。
しかし、じつはドラマは歴史的に正しい。大嘗祭には、7月までに即位した天皇はその年に、8月以降の即位なら翌年に行う、というルールがあり、花山天皇は10月に即位しているから、あれは大嘗会ではなく、新嘗会の五節舞なのだ。そして『日本紀略』(省略本で編者不明の、平安時代中期まで書かれた歴史書)では、花山天皇が即位した永観2年(984)には、新嘗会が行われたとしているのである。そして舞姫がまひろを含めて4人だったことも思い出していただきたい。舞姫4人は新嘗会の五節舞で、大嘗会の五節舞の舞姫は特別に5人と定められている。だからあれは新嘗会の五節舞なのである。
五節の舞を花山天皇は見たか
さて、五節舞は神話的な要素のある舞で、鎌倉時代に作られた『日本書紀』の注釈書『釈日本紀』には、天武天皇が吉野で見た天人の舞をもとにしたとしている。奈良時代には皇太子だった阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)が聖武天皇や元正上皇の前で舞ったという記録があるくらい、その格式は高かった。9世紀までは五節舞姫は高級貴族の娘が出るもので、中にはそのまま宮中に留め置かれ、天皇の寵愛を受ける者もいたという。
天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ 乙女の姿しばしとどめむ
(天の風よ、雲の作る通り道を吹き閉じてくれ、天女たちの姿をもう少し地上に留めたいから)
この、僧正遍照の百人一首の歌は、五節舞姫を詠んだもので、舞姫はまさに天女だった。
しかし、10世紀になると、この慣習が無くなって、上級貴族は自分の娘を出すのを渋るようになり、公卿と国司級の貴族が負担を分け合うようになる。まひろの場合は、左大臣源雅信(益岡徹)家が推薦した五位クラスの官人の娘、という設定と理解できる。
なお、五節舞の儀式は大変手のかかるもので、事前練習の後、舞師という女官の指導で室内リハーサル「帳台試」がまず丑の日に内裏後宮の常寧殿で行われ、翌日の寅の日には清涼殿(天皇が日常使う建物)での天皇の前のリハーサル「御前試」が、卯の日には清涼殿で舞姫に従う童女を観る「童女御覧」があり、ようやく辰の日に本番の「豊明節会」がある。寅の日以降は全て天皇の御前で行われるのが決まりである。と書くと、ドラマでは花山天皇が映っていなかったことに疑問を持たれる方もあるだろう。じつは『日本紀略』によると、花山天皇はこのときの新嘗会には出御せず、多くの公卿も参加していなかったという。好色と設定されている花山天皇がまひろを見てなんとも思わなかったか、という疑問もこれでクリアはできている。ちなみに天皇や上級貴族が欠席した新嘗会を代理で進行したのは藤原道兼だと記録されているので、道兼(玉置玲央)をまひろが観るのは正しい、ということになる。
もっとも蔵人頭の藤原実資(秋山竜次)の日記『小右記』によると、花山天皇は大嘗会以前の新嘗会なので物忌として欠席したが、常寧殿のリハだけはこっそりのぞき見ていたとしている。そしてこれ以降帳台試には天皇がこっそり観るというルールができたということである。やはり花山天皇、やってくれているのである。
参考文献
松前健『日本の神話と古代信仰』大和書房、1992年
柳沼千枝「践祚の成立とその意義」『日本史研究』363、1992年
佐藤泰弘「五節舞姫の参入」『甲南大学紀要文学編』159、2009年
服藤早苗『平安王朝の五節舞姫・童女』塙書房、2015年