「戦友は殆どソ連の捕虜に」 終戦直後、関東軍を「脱走」過酷な引き揚げ体験つづった手記見つかる
2025年2月7日 05時10分 (2月7日 12時01分更新)
1945年の終戦直後に、旧満州(現中国東北部)の権益を守る「関東軍」を自ら離れた元兵士の手記が見つかった。後に空襲被害を受けた熱田神宮(名古屋市)の再建に携わった森恒保(つねやす)さんが残したもので、研究者によると、関東軍の兵士の多くがソ連軍の捕虜となる中、軍を離れた者の視点でつづられた記録は珍しいという。現地から引き揚げる「脱走」の様子が記されており、戦禍の記憶を後世に伝えたいとの願いがにじむ。 (清水大輔)
手記のタイトルは「我が逃亡の記録」。B5判のノート33ページにわたり、終戦間際の45年5月に軍へ召集されてからの出来事が日記形式でつづられている。
森さんは08年、三重県宇治山田(現伊勢)市生まれ。寺社建築の大家、角南(すなみ)隆の弟子になり、戦中は日本の租借地だった中国の関東州で関東神宮などの設計に携わった。手記は当時のメモなどを基に森さんが72年にまとめ、次男の恒治(つねはる)さん(79)=名古屋市瑞穂区=が自宅に保管していた。崩し字で判読が難しかったが、昨春、伊勢市の皇学館大文学部国史学科の長谷川怜准教授(日本近代史)に預け、ゼミの学生たちが翻刻を担った。
手記によると、日本の敗戦が伝わり、森さんが所属する牡丹江(ソ連国境付近の現中国黒竜江省)の通信隊は投降を決断。森さんは戦友4人と隊を離れ、引き揚げの民間人約3千人の一団に合流した。この時の自身の行動を森さんは手記で「脱走」と表現。隊を離れた動機は不明だが...
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