「アホ」というと、ある程度心当たりがあるだろう。要は、むやみやたらとあなたの足を引っ張る人だ。(中略)そんなとき、悔しさで仕事が手に着かなかった経験はないか?(中略)しかし、間違っても「やり返してやろう」などと思っていないことを祈る。実は、あなたのそうした思考が最も危険なのだ。(「はじめに」より)

つまり『頭に来てもアホとは戦うな! 人間関係を思い通りにし、最高のパフォーマンスを実現する方法』(田村耕太郎著、朝日新聞出版)の著者がいいたいのは、「(時間やエネルギーやタイミングなど)限られた資源を無駄使いするな」ということ。そういう意味で、本書は「非戦の書」だとも記しています。

しかし、無駄な戦いを避けるためには、自分を見つめなおすことがまず必要であるはず。そこできょうは、第1章「アホと戦うのは人生の無駄」から「無駄な戦いを繰り広げる人の特徴」を抜き出してみたいと思います。ちなみにそういう人の特徴として著者が挙げているのは、「正義感が強い」「自信にあふれる」「責任感が強い」「プライドが高い」「おせっかい」の5つ。

正義感の強い人

正義感の強い人とは、ものごとを判断するときに善悪を最上位に置いている人。そして正義感を持つ根拠は、「最後は正義が勝つ」と思っていること。しかし学生時代ならともかく、現実社会に出てからは考えなおしたほうがいいと著者はいいます。理由は、「どうやたどこにも超人的ヒーローが現れて、正義の鉄槌を下してくれる事例はなさそう」だから。

スーパーヒーローがフィクションの世界であれだけ求められるのは、現実にそのような「スカッとする」ものがないことの裏返し。また、正義は人の数ほど存在するので、その正義を完璧に数値化して公平に判断するのは不可能。つまり人生は不条理だと思ったほうがいいというわけです。(20ページより)

自信にあふれた人

次に自信。「自分が正しいという自信」「相手を論破できるという自信」「権力闘争で勝つ自信」「成果で勝つ自信」「根拠のない自信」「実積に基づく自信」など、いろいろな自信があります。

しかし、「なにごとも自信を持って取り組むべきだとは思うが」と前置きしたうえで著者は、「自信家が相手を論破しようとするときほど、相手から見て屈辱的なことはない」と指摘しています。自分のほうが頭がいい、知識がある、と思っている人の行為は、明らかに逆効果な場合が多いということ。「頭がいいかもしれないが、愚かなのだ」という著者の視点は的確です。

しかも、自信を持って成功してきた経験が、次への準備を怠らせるから「自信家はどんどん脇が甘くなっていくもの。自信があるから、未来の想定も甘くなりがち。相手を不快にさせるだけでなく、相手の出方を含めた未来の想定をなめてしまい、自分の能力をさらに過信していく。そうなると、明らかに悪循環です。むしろ自信のあるときこそ、自信のある人こそ、謙虚に、危機感を持ってことに対応すべき。(22ページより)

責任感が強い

これも一種の正義感ですが、背景にあるのが自分の正義ではなく、組織のためのものであるだけに、身勝手な正義よりもレベルが高いといいます。人事や業績や戦略に責任を感じているから、他者と戦ってしまうということ。

しかし、やり方に問題があるとも著者は指摘しています。どんな理由だろうが、アホと思える相手とは戦ってはいけないとも。なぜなら、それが自分の信念のためであろうが、組織全体のためであろうが、彼から見たら「向かってきている」という事実は同じだから。

だからこそ、責任を感じているなら、組織のためなら、戦ってはいけないと著者はいいます。大切なのは、相手を気持ちよくさせ、組織のために誘導すること。嫉妬社会・日本では、能力がある出世すべき人が、多くのアホに結託され、途中で足を引っぱられ、引きずり下ろされてしまいがち。アホは権力にすり寄ってきた場合が多いので、そのぶん権力の中枢に発信力を持っているもの。そういう人間を敵にして、怒らせては組織のためにならないということです。(24ページより)

プライドが高い

ほとんどの場合、プライドは邪魔にしかならないもの。功を奏するプライドの持ち方は、自分の仕事の質に対して持つプライドのみだと著者は論じています。

「プライドが高い」といわれるケースの多くは、「他人によく思われたい」という思いが強いにすぎないというのが著者の考え。だから、相手になめられたと感じ、ときに怒ったり、機嫌を悪くしたりするのはこのタイプの人間だといいます。

自分の仕事の評価において、大事な相手になめられるのは、たしかによくないこと。しかし、「質の高い仕事をする」というプライドを持ち、手抜きをせずに仕事を続けていけば、「相手が馬鹿にしてなめてくるようなことはないし、それでもなめてくるような相手とは仕事をしなければいい」と著者は断言しています。

プライドやメンツをつぶされた? それがどうした?

そんなものどうでもいいのである。

これは真理ではないでしょうか?(26ページより)

おせっかい

おせっかいも、ある種の正義感。他者を正してやりたいという気持ちです。他人の喧嘩の仲裁に入るだけでなく、説教もしてしまうようなタイプの人。つまり親切にも、アホを是正しようと思ってしまうわけです。ただし、「残念ながら、すでにいい年になったこういう人物を正すのは不可能である」と著者。

それに、いくら見事に論破したとしても、アホたちが自分の考えを変えるとは思いにくいともいいます。むしろ、美しく論破されたら恨みを増加させるだけ。姑息な手を使ってでもリベンジしてくるかもしれません。また論破されたという自覚すらなく、言いがかりをつけられたとか、屁理屈でいいくるめられたと思って被害者意識を持ちながら憎むかもしれません。

おせっかいな人の多くは、お人よしで純粋。自信家でもあり、自分は問題を解決できると思っているから、おせっかいというかたちで介入したがる。しかし、自分がコントロールできることは意外に少ないもの。むしろ憎まれて倍返しされる可能性が高いので、おせっかいほど危険なものはないといいます。(27ページより)

「バカ」ということばを意図的に使ってはいるものの、著者の根底にあるものは愛情。本書の読後感が意外なほどスッキリしているのは、きっとそのせいです。ことばの裏側に隠れたユーモア感覚も、ほどよいアクセント。読んでみれば、心のなかでなにかが解決できるかもしれません。

(印南敦史)